Ο 探求者たち Andromalius 1948,5,7(FRI)
Ⅰ輝ケル希望ヨ O cux ave spes unica
「で、先生お聞きでしたかな、よんべの皆さんの見た前兆を?――大空に赤い文字を――Aという文字を? Angel(天使)をあらわすものだと皆考えておりますだ。ウィンスロップ知事さまがよんべは天子になられましたで、ですから、それをあらわすものが何かあってもあたりまえだと考えてますだ!」
ナサニエル・ホーソン『緋文字』
岩田は阿見のあまりの変わりように驚愕した。死とは人をここまで変えてしまうものなのか。
渦巻く黒雲の下、阿見は死んでいた。側頭部から真ッ赤な血を流して黄水館の壁に体を持たれ掛ける様に死んでいた。真ッ白な背広は頭部よりの血で真ッ赤に染まっていた。何処からか創傷を負ったまま身を引き摺りながら黄水館に来たのか全身が土と砂に塗れていた。これがあのオネーギンの阿見の末路なのか。生前の気障な鼻に付く態度はもうなかった。その表情は苦しみと呪詛に満ちて醜く歪んでいた。阿見の頭上には黄水館の窓が開けており、そのガラスには阿見のものであろう血の手形が付いていた。その手形はまだ新しくヌラヌラとしていた。阿見は部屋の中の住人に何かを伝えようとしたのか。
岩田は一報を聞いた後、黄水館の壁に沿って進んでいった。そこで阿見の遺体に驚愕した。
阿見の遺体の周りには平戸警部をはじめ警察の人々が取り囲んでいた。御堂は平戸警部を見付けるなり警部の下に寄って行き、何やら話し込み始めていた。警察官が騒然と動き回っていた中に混じって万里雄と清枝の姿があった。阿見が手形を残した窓の部屋の主は万里雄であるらしい。清枝は万里雄の部屋に訪れていたそうである。万里雄は毛むくじゃらの顔を伏せて地面に横たわる阿見の遺体をジッと覗き込んでいた。清枝は遺体から目を逸らしていた。平戸警部は御堂との話を止めると万里雄に話しかけた。
「万里雄さん、阿見光治君が貴方の部屋の窓を叩いた時の事情を教えてくれませんか?」
平戸警部が言うと万里雄は遺体から目を離して話し始めた。
「私と清枝さんとで死んだ娘直弓の葬儀について話し合っていました。清枝さんは直弓と気が合っていましたからね。彼女の意見も聞いてみようと思って清枝さんに私の部屋に来て貰っていたのですよ」
万里雄に続いて清枝が口を開いた。
「直弓さんにはお世話になっていましたから。妾はできる限り安らかに直弓さんを送り出して上げようと思っていました。警察より直弓さんが戻ってきたら直ぐに葬式をしよう。首の離れたままの遺体をいつまでもこの世に残しておくのは直弓さんがあまりにも不憫ですから」
「私の娘。いくら死が誰の許にも訪れて死による永遠の別れをしなければならないことが判っていても実際に迎えてみると流石に応える。娘がいくら天に祝福されることが決まっていても、やはり今生の別れは悲しいものです。娘の幼い頃は随分と苦悩したようで親として見ていて辛かった。私は自分を怨みましたよ。娘が異形に生まれたのは自分のせいだと。私の呪われた容姿の所為で娘が苦しんでいるのだと。神よ、私だけに試練を与えてください。私の娘は幸福にして下さい。私は神がそのような試練を娘に与えたことを怨みました。不遜にも私は神を疑ったのです。そんな私の不遜な振舞いも神によって否定されたのです。神の身丈は人が測れぬものだったのです。
ある空の高い時分のことでした。私は年端もいかぬ直弓の柔らかな手を繋いで水濱を散歩していた時のことです。私はかねてよりの直弓の不遇について思い、嘆息をしてばかりでした。幼い娘にとって歓喜に充ちるべき散策を私は台なしにしていました。直弓は私の嘆息のせいかちっとも愉しそうにせず、黙々と私の横を歩いているだけでした。そうしているうちに深々として広々としたみどりの野に着きました。本来ならば幼子が飛跳ねそうな場所なのですが直弓はちっとも動こうとはしませんでした。私は『好きに遊んできなさい。どうして君はちっとも子供らしくないのだい?』なんてことを私に原因があることを知覚せずに言ったりしました。でも直弓は私の側にいるばかりで動こうとはしません。私は仕方なくそのまま二人でジッとみどりの野を眺めていました。どれ程時間がたった頃でしょうか。小さな野分が青葉をびゅうッと棚引かせた時でした。突然直弓がぎゅっと私の手を強く握って私の顔を見上げました。『お父さん、どうしたの? 何か苦しいの?』。娘は私に言いました。私は『何でもない』とぶっきら棒に応えました。また野分が青葉を揺らせました。『そうなの?でもねお父さん。苦しくっても大丈夫だよ。その苦しさはお父さんを強くするのだから。妾も苦しくっても大丈夫だもの』。私にこう言ったのです。なんて私は愚かなのだ。これは試練なのだ。神が私と直弓に与えた試練なのだ。
神の御業を示すための試練なのですね。神よ、私は直弓に救われました。私は屈みこむと幼い直弓をぎゅっと抱きしめました。直弓の頬の柔らかな毛の匂いが私を包みました。草いきれが二人を包みました。私の目には陽に輝く深い緑が眩しかった。その後、直弓は異形の姿をものともせずに学に長けた美しい女性となりました。直弓は結婚して、子を小頭症で産んで亡くすという試練が与えられたのにもかかわらずに気丈に生きていました。その直弓が私より先に亡くなってしまうなんて。神は私に大きな試練を与えたことでしょう。ですが悔いません。ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』にあるように直弓は『神さまの前に立って、喜んだり、楽しんだりして、お前さんのことを神さまに祈ってくれてるにちがいない』のだから。その直弓の葬式をきちんとして上げることとこそ、私の神が与えた試練なのではないかと思うのです。私は生前を知る清枝さんに直弓の祝福を祈りながら直弓に何を言って上げるべきかを考えていたのです」
万里雄が一気に直弓との思い出を語ると平戸警部の側で腕を組み、真ッ赤な支那服を棚引かせていた御堂が言った。
「話が脱線していますよ、万里雄さん。阿見についてをお話してくださいませんかね」
「おお、すまない、すまない。栄のその力と美しきを持つ者よ。御堂さん。そうやって清枝さんと話し込んでいる時でした」
万里雄に引き継いで、清枝が話し始めた。
「ええ、万里雄さんと直弓さんについて話し込んでいるときです。突然に窓の外の方から、がたりッと言う音が聞こえたのです。妾と万里雄さんはその音に驚いて窓を見ました。するとどうでしょう。窓を血塗れの阿見さんを敲いているではありませんか。顔は苦痛に溢れており、妾なんてその表情を見た途端に思わず心臓が止まってしまいそうになりました」
今度は万里雄が清枝の後を引き継いだ。
「私たちは一瞬たじろぎましたが、これは一大事として窓の側に駆け寄って窓を開けました。すると阿見さんは窓の桟に凭れ掛かって苦痛に満ちた表情を私達に向けました。阿見さんは口をパクパクさせて何かを言おうとしていました。私は血に濡れた阿見さんの口元に耳を近付けました」
「それで阿見君は何を言ったのです?」
平戸警部が身を乗り出さんばかりに二人に歩み寄った。御堂は相変らず腕を組んだままジッとしていた。平戸警部が訊くと、万里雄は多少逡巡した末に阿見の最後の言葉を言った。
「ホルムンクルス」
「ホルムンクルスだってェ! 万里雄さん、それは間違いないのですか? 犯人の名前を言ったとかではないのですか?」
平戸警部は万里雄の肩を掴んで揺す振り聴いた。万里雄は平戸警部に振舞いに躊躇しながらも言った。
「ええ、間違いないです。『ホルムンクルス』と言っていました。阿見さんはきれぎれに言うなり、こと切れて壁に沿うように地面にずり落ちていきました」
「万里雄さんの言った事に間違いはないです。妾も阿見さんが『ホルムンクルス』と言うのを聴きました。その声は死を迎えたものとは思えないほどはっきりした声でした」
万里雄の発言に清枝が裏付けた。警部はチョッと舌打ちをした。
「何なんだ、この事件は! 今度はホルムンクルスだと!」
平戸警部の言うとおりだった。この事件は謎が謎になっている。岩田は思った。ホルムンクルスとはどういうことだ?
Homunculus.人類ならざる人類というべきか、人造人間というべきか。語源は羅典語で人間(homo)の小さいものの意味。人間が精子と卵子の結合により生まれることが判らなかった時代、精子の中に人間の縮小されていたものがありそれが性交によって発芽すると考えられていた。例えば一六九九年のモンペリエのアカデミー・デ・シアンスの書記であったプランタートは顕微鏡でその小人が見えたという報告すらしていた。精子の中に人間の縮図がある。それこそがホルムンクルスであると考えられていた。その考えのもとで人工的にこのホルムンクス、人類ならざる人類を人類として完成させようという考えが生まれた。それこそが人造人間。ゲーテの『ファウスト』では試験管の中や、パラケルススの『自然魔術』では馬の子宮で人類を生み出せるのではないかという考えがあった。
「どういうことだい? 御堂」
岩田は御堂に訊いた。すると御堂は憮然として言った。
「さあな」
御堂への依頼の目的が阿見の尻拭いであったのだから御堂にとっては阿見の死はこの事件と自分を別つものだ。素っ気なくなるのも仕方がない。阿見の遺体を検分していた警官の一人がいきなり叫んだ。
「遺体の手に奇異しなものが握られています!」
岩田がその声によって阿見の遺体を見ると遺体の側にいた警官が阿見の左手より何かを取り出して平戸警部に渡していた。それを見た平戸警部は怪訝そうな顔をして側にいる御堂にそれを渡した。岩田は御堂の側に近づいてその手の中にあった物を見た。
「何だ、これは?」
岩田はそれを見た瞬間に思わず言った。それは小さな木製の板の様な物だった。その板は黒塗りにされており、裏は凹凸が付いて、表面の中央に緋色でAと描かれていた。御堂がその板をいろいろと観察しながら言った。
「今度はホーソンの『緋文字』か?」
ナサニエル・ホーソンによって書かれた『緋文字』。一八五〇年発表のアメリカ文学。不義の証である赤色のAの文字を胸につけて健気に生きるヘスターやその相手だった牧師アーサー、復讐の為に牧師に近づくヘスターの夫。三人の男女が絡み合う物語。基督文学の白眉。なぜ阿見は緋文字のAを持っていたのだ?
「このAは姦淫(Adultery)なのか、天使(Angle)なのか……。阿見よ、お前はどっちだった?」
御堂は阿見の遺体の側に蹲ると静かに呟いた。御堂はそっと阿見の頭部の傷口に触れると傷口からこぽこぽと血が流れた。
その時、岩田の中にある事が思い出された。ひょっとしたら!
「これって白い十字架に描かれていた文字の一部では?」
「十字架? あの山羊の剥製が掛かっていた十字架ですか!」
岩田が言うと平戸警部が反応した。
あの十字架だ。岩田は思い出していた。『マリヤ』実は阿紀良といつの夜か話し続けていたとき、あの髑髏の丘で見たあの十字架を。確かあの白の十字架の交差部分には黒い小さな扉が付いていてその扉には緋色で『QUID EST VERITA』と描かれていたはずだ。阿見が持っていた緋文字のAはその扉に書かれた文字の一部ではないのか!阿見がそれを持っていたというということは、阿見は殺される直前にあの十字架にいたのじゃあないか。
岩田は平戸警部と御堂に対して言った。
「平戸警部、御堂。行きましょう、あの十字架へ」
岩田と御堂、平戸警部が数人の警官を連れて十字架のある丘へ向かった。白い十字架の中央の黒色の扉の緋文字のAの部分が失われていた。また白色の十字架には真ッ赤な血が飛び散ってこびり付いていた。阿見は此処で殴り殺されたのだろう。地面には凶器に使われたであろう拳大の血の付いた石が転がっていた。
「阿見君はそこで何をしていたのだ? この十字架は何なのだ?」
平戸警部が誰ともなく言うと十字架を調べ始めた。御堂はその様子をジッと見ていた。暫くすると平戸警部が叫んだ。
「あッ、この文字取り外しが出来て文字の裏がすべて鍵状になっているぞ!」
平戸警部が言うと岩田は十字架に近寄った。すると確かに警部の言う様にすべての文字が取り外されて、警部の掌中にあった。すべての裏に凹凸があった。
「ひょっとしてこれらの緋文字を別の順番に並べ替えをする、アラグラムすることによって、この黒の扉が開くようになっているのじゃありませんか?」
「ああ、成る程。そうかもしれませんね。しかし『QUID EST VERITA』なんて字をどう並べればいいのですか?」
平戸警部が訪ねたが岩田には判らなかった。岩田は御堂の方に目を遣った。平戸警部も岩田に合わせるように御堂を見た。御堂は二人の視線を感じると眉を顰めたが仕方ないと思ったのであろう。
「初歩的なものだ。考えるまでもない。こいつは有名な典型的なアナグラムだよ。有名といっても難解だからじゃあない。このアナグラムには面白い逸話があるのだよ。それこそ久流水家にはぴったりのものかも知れないな。ピラト総督は知っているだろ。あのイエスに死刑の判決を下したあのピラトさ。イエスに罪を見出せなかったにもかかわらずに世の反対意見に負けて死刑を下した王さ。『Quid est verita?』というのは、そのピラト総督の言った科白なのだよ!」
「ちょっと待て、御堂。福音書にはそんな記述は無いぞ! ピラトはイエスに質問した言葉にはそんなものはなかったぞ。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、福音書記者の誰も、ピラトが『Quid est verita?』と言ったとは書いて無い筈だ?」
岩田が反論した。確か福音書にはそんな記述は無かったはずだ。そう言うと御堂は岩田の質問に答えて言った。
「そんな記述は新約聖書にはないさ。一九三六年に発表されたフランソワ・モーリャックによる『イエスの生涯』に類似した記述があるくらいさ。多分このアナグラムを考えた奴がパズルの神性を高めようとして、作ったデマだろうな。いいかい、その逸話はこんなやつだ。
イエスが死刑の宣告の直前にピラト総督の前にイエスが引き出された。ピラト総督はイエスに対してこう言ったのだ。『Quid est verita?』と。するとイエスはその文章をアナグラム化して応えた。イエス・キリスト曰く『Est vir qui adest.』(汝の前に立てる者こそ真実である)と……」
「『Est vir qui adest』……。『Quid est verita?』のアナグラムになっている!」
「では『QUID EST VERITA』を『EST VIR QUI ADEST』に並び替えればいいのですね。そうすれば扉は開けるのですね!」
平戸警部はそう言うなり、十字架の真ッ赤な文字を『EST VIR QUI ADEST』に並び替えた。すると白い十字架の黒い扉はかちりッと音を立てて開いた。岩田たちは中を覗き込んだ。だが其処にあるのはただ御納戸色のの空間ばかりであった。四角に区切られた空間はぽっかりと静かに音を立ていた。
「何もないじゃあないか!」
岩田が愕然として言うと、平戸警部が顔を渋らせて言った。
「犯人が盗んでいったのでしょう。おそらく阿見君はこのアナグラムに気付いて解いた。だがその様子を偶々犯人に見られてしまったのでしょう。犯人は阿見君を後ろから撲殺するとともにこの十字架の扉の中にあったものを盗んでいったのでしょう」
平戸警部が無念そうにすると、岩田は言った。
「ということは犯人にとっては不慮の殺人だったということですか。それでは真逆か、そんなことが……」
岩田が絶句すると平戸警部が聞いた。
「真逆かって、どういうことですか、岩田さん!」
岩田は深刻な顔をして言った。
「平戸さん、忘れたのですか。この事件はヨハネの默示録の封印に見立てられたものだと。そして第四の封印は死を与える権利。つまり『死』自体が見立てになるはずです。僕は阿見が殺されたと聴いた時にこの默示録の見立てが行われたのだと考えました。しかし、これが犯人にとって想定外の殺人だったとするならば、これは果たして見立てだったのですか? 犯人が見立てを意図してやったかどうかが怪しくなってしまうことになってしまう!」
「それじゃあ、まだ見立ては解消されていないかもしれない。ということはもしこれが犯人の意図した見立てでなかったとしたら犯人は改めて『死』の見立てを行うかも知られない!」
岩田と平戸警部が絶句しているとずっと空の十字架の扉の中を覗いていた御堂が振り返らないまま言った。
「緋文字の中には何があった? 阿見が言っていた『ホルムンクルス』と何か関係があるのか? 『ホルムンクルス』とは何を指しているのだ? なあ、阿見よ、お前はどんな真実に近づいてその身を焼かれたのだ?」
あれはプロトイタスに誘われていった、ホルムンクルスにちがいない。
あの光はほしいままな憧憬のしるしだろう。
もだえに苦しむ呻吟の声がここまで聞こえてくるかのようだ。
かがやく玉座にふれてガラスが砕けてながれている。
おや、燃えている。光っている。もう溶けてながれている。
ゲーテ『ファウスト』
Ⅱ切支丹探偵 Detective Christian
人と人との間に爭辯ありて來りて審判を求むる時は士師これを鞫きその義しき者を義とし惡しき者を惡とすべし。
申命記第二五章一節
「切支丹探偵?」
岩田は平戸警部からの告白に怪訝とした。御堂がかつて大陸で基督教探偵をやっていたと言うのだ。岩田はここ数年、御堂と交流を持っていたが、御堂が基督教探偵だったとは知らなかった。
「切支丹探偵といっても、御堂さんの場合は任務の一部にしか過ぎませんでしたがね」
平戸警部は眼前の使用者のない印刷機にある未完成の聖書を弄りながら言った。
阿見の遺体発見、緋文字の経緯の後、御堂は疲れたと言って部屋に戻ってしまった。平戸警部は部下に指示を出した後に教司神父の遺体があった写字室に向かった。岩田は今朝の『マリヤ』の真実からの撫養のために事件に積極的に参加しようと決めて平戸警部の後を追っかけた。平戸警部は写字室で彼方此方を調べ回していた。岩田はついて来たものの手持ち無沙汰になり、警部に何の気なしに御堂との関わりを聞いてみた。すると帰ってきたのが切支丹探偵という言葉だった。
「切支丹探偵というとあの阿部真造が名乗ったあれですか?」
「ええ、あの幕末の世に現れた怪人、阿部真造の肩書きですよ」
岩田は切支丹探偵というあまりにも突飛な肩書きに驚きを覚えた。
切支丹探偵、阿部真造――。本名、貞方次平太。時は世が引っ繰り返らんとする幕末維新に長崎浦上より出でてプチジャン神父の懐刀となって活躍をした敬虔な切支丹。教師とともに上海、香港、サイゴンと巡歴して、基督教復興に努めた信者。併し何故か世界行脚から帰朝するや、突如として脱走して、今度は神道教導職に変身して旧友であった切支丹に切支丹であることを転ばせた。仕舞には『自分はもともと切支丹ではなく、ただ切支丹の内情を探るために切支丹となったのだ』と発言をした怪人、それが切支丹探偵阿部真造である。
転んだことを正当化するために切支丹探偵を名乗ったにしか思われない阿部真造と御堂周一郎が同じ職をしていたのか?
「別に御堂さんが卑怯者だったという訳ではありませんよ。あの人は基督教だけに留まらず様々な所に内偵に入って思想の取り締りをしていたとのですよ。私と御堂さんが初めて出逢ったときは、たまたまにして基督教の内偵に入っていたのです。御堂さんは思想警察といったことをなさっていました」
「思想警察!」
岩田は驚愕をもって応えた。御堂はそんなことは一度たりとも岩田に言ってはいない。おおよそ密偵のような事をしていたのは聞いていたが真逆か思想の取り締まりだったとは。けれどそれならば御堂が久流水哲幹にどうやって近付いたか理解できる。日本の思想統制の先鋒にいたものが、日本の黒幕と邂逅することは当然にあり得る。
「ご存じなかったのですか? あの時代は神道以外の宗教を禁止はしていなかったが、それが政府の政策に反する場合は統制を掛けていた時代でした。戦場に聖書を持ち込んでもいいが、反政府的な思想は許さない時代でした。個人の思想を知るには、個人に近寄ってその思想を引き出す探偵が必要だったのです。そのために御堂さんは身内である上官や部下牽いては私達兵隊から畏れ敬われていました。私は未だに恐れます。御堂さんのあの灼熱の瞳を。だからこそ、私は未だに御堂さんに頭が上がらないのですよ。あの方が本気になれば公僕の醜聞などは簡単に明らかにできますからね」
探偵としての能力とその当時調べ上げた醜聞をもってしてあらゆる情報を集められる立場にあるのか。岩田は合点した。久流水哲幹の一族である久流水家の事件に御堂が関わっているのも当時の恩義ゆえのことか。
岩田が納得していると平戸警部は休めていた手を再び動かして写字室の彼方此方を捜索し始めた。岩田は警部が何を捜索しているのかが気になった。
「ところで、警部さん。さっきから何を探しているのですか?」
すると、平戸警部は手を休めずに応えた。
「何と言うわけではないのですけどね。主流帥彦と久流水百合子が犯人である証拠、密室の偽計の手掛かりを探しているのですよ」
岩田は自分の耳を疑った。帥彦と百合子が犯人? 何故にいきなり二人の名が犯人として挙げられたのだ?
「どういうことですか? 御堂がそう推理したのですか?」
岩田が訊ねた。
「気付きませんか、今回もアナグラムによる発見なのですよ」
「アナグラムによる発見?」
岩田はアナグラムと言われても一体何をアナグラムしたというのか判らなかった。アナグラムすれば、帥彦と百合子に嫌疑が掛かるというのか。
「岩田さん、帥彦の名前である『主流帥彦』が本名でなくて、百合子が名付けたものであることは知っていますか?」
「そのことは僕も百合子さん本人から聞きました」
岩田が首肯すると、平戸警部は言った。
「では、なぜ『主流帥彦』と名乗らせたかは分かりますか?」
「いいえ、それは訊かなかったです」
岩田が首を振ると、平戸警部は益々得意気な顔をした。
「そこで登場するのがアナグラムですよ。岩田さん、『主流帥彦』を羅馬字に直して、アナグラムをして御覧なさい」
平戸警部に言われて岩田は『主流帥彦』をアナグラムしてみた。
主流帥彦……。スリュウソツヒコ……。SURYU SOTUHIKO……。S・U・R・Y・U・S・O・T・U・H・I・K・O……。KURUSU YOSITO……。
久流水義人だ!かつて百合子の愛人で久流水家一同に反対されて仕舞には穂邑と毒杯決闘をして死んでいってしまった。西の墓地に偽善者として葬られた久流水義人! 真逆か、主流帥彦の正体が死んだはずの久流水義人なのか!
「そうですよ、岩田さん。帥彦は久流水家に最も恨みを持っている久流水義人なのですよ。それならば彼には動機は充分だし、何よりあの教司神父の遺体の第一発見者ですよ。その地位を利用して密室を作り上げたかもしれない。部下に命じて帥彦と共犯の疑いのある百合子の身柄を拘束させています。時間を掛けてじっくりと取り調べてみせますよ」
帥彦と百合子が犯人? そんな真逆か……。
彼は、臍に顎のくっつきさうな傴僂である。 中島敦『文学渦』
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