Τ 犯人はお前だ! Thou art the man. 1948,5,9(SUN)

Ⅰ聖像破壊 Iconoclasme


「神さまが世界を創ったのは最初の日で、太陽や月は四日目なんでしょ。だったら、最初の日は何処から光が差したんですかね」

                  ドフトエフスキー『カラマゾフの兄弟』


 紫書館を出た後、岩田は御堂に命じられて久流水家の一族並びに平戸警部を聖堂に集めた。時刻は既に丑三つ時になっており、各人は寝息を立てている時分だった。そのために聖堂への集結させることは時間がかかり、各人は不機嫌だった。聖堂は壁中にある燭台により、それなりの明るさを保っていたが一様に暗く総毛立つ様な薄ら寒さを催させていた。真夜中の聖堂は深ッと静まり返って、集結を命じたはずの肝心の御堂周一郎の姿が見当たらなかった。こつッ、こつッ、こつ、こつッこつッ。複数人の足音が閑散とした聖堂に谺した。

 御堂よ、一体どうしたというのだ。肝心のお前が聖堂に不在だとは。事件を解決させるのだろ、どうしたのだ。睡眠を妨げてまで皆を集めたにも拘らず、当の御堂がいないことに岩田は腹が立った。

 久流水家の人間は眠りを妨げられて手呼び出されたにもかからず、一向に何もない様子にざわめき始めた。遂に堪らなくなったのか、阿紀良が口火を切った。

「岩田さん、どういうことですか。私達を呼び起こしておきながら何が始まるというのです。何もなければ、寝台に還らせて貰いますが」

 その口調は正に男のもので、余所余所しきものだった。『私』は既に『妾』では無くなっていた。女は幻想よりも現実に生きる。『マリヤ』はもういない。

岩田は阿紀良の言いにしどろもどろになった。

「僕も御堂に命じられるがままにここに皆様をお連れしたまででして……」

「その御堂さんはここにはいない……」

 阿紀良の傍らにいたマリヤが言った。

「ええ、まあ」

 岩田が曖昧に応えると、マリヤに続いて益田老人が言った。

「君は御堂さんが久流水家に戻って来たと言っているが本当に戻って来ているのかね。私達はその戻って来た御堂さんに一度も会ってはおらぬのですよ」

「岩田さん、失礼ですけれど御堂さんが還って来たと言うのは貴方の狂言ではないのですか?旦那様はそれを疑っているのです」

 覆い被せるように老人に付き添っていた大浦清枝が言った。

 そんな、何という疑いだ。そもそも御堂が久流水家に還って来ていないだと。岩田はあらぬ疑いに絶句した。

「否、御堂さんが還って来ているのは事実です。それに付いては警察官である私が保証します」

 言葉を失った岩田に代わり、平戸警部が口を挟んだ。

「現に御堂さんはいない。これではどうしようもないではありませんか。そうよね、帥彦」

 喪服の百合子が聖堂の薄闇に体を溶け込ませて言った。その言葉に側に控えていた帥彦が「ヘェ」と受け応えた。二人は岩田が尋問を受ける前まで夫である穂邑が殺されるまでの長時間に渡って取調べを受けていたのだ。多少の困憊の色が伺えた。岩田に眠りを妨げられたのだ。百合子の口調はいつもと異なり、稍々厳しく思われた。

「どうしようも無いならば、帰らせて戴いても宜しいかな」

 万里雄が聖堂の入口に踵を返さんとする素振を見せた。

「アッ、否、待って下さい!」

 岩田は慌てて呼び止めた。ここで帰ってもらっては困る。御堂は事件を解決したと言ったのだ。終結を迎えようとしているのに解散させてはならぬ。事件なんぞ早々に解決して、帰路に着きたい。

 岩田は苦し紛れにあることを思い付いた。そうだ、僕が事件を解決させてやる。御堂でなくても僕で充分だ!

「では御堂に代わって僕が事件を解決しましょう」

 岩田は口角を舩形にして胸を張って言った。そうだ、あの謎を解いてみよう。

 阿紀良が男調子で驚天した。

「貴方は、探偵小説家でしょう? 探偵の真似事を行なうべきではないのではありませんか」

「阿見だって探偵小説家です。彼に出来たら僕にも出来る」

 岩田は言った。この聖堂にやって来て違和感を覚えていた。その違和感の原因は単純なことだ。一週間も久流水家にいて何故やり過ごしてしまった? この原因を解けば事件解決に繋がるかもしれない。岩田の胸中には沸沸としたものが湧き上がっていた。

 岩田の語気の強さに辺りは深ッとなった。僅かばかりの灯で明瞭には判別出来ないが、各々の面持ちが硬直した様に見えた。

「僕はなんて頓馬だったのだろう! 僕は同じ様な過ちを未だに続けていたのだ! 人間というやつは、何と学習しない生き物だったのだろう。僕らはあって当り前のものに疑問を投げ掛けたりはしないのだ。子が母の愛情を疑わないように。ニュートン以前に林檎が落下する事に疑いを持つ者がいなかったように。アインシュタイン以前に時間の普遍性を疑わなかったように。僕らは辺りの事象を疑うことを避けているのだ。その真実が今まで認識していた事と異なっていたなら忽ちに足元をぐらつかせることになるのだから。哲学がそうだ、あらゆる哲学者は世界を、人間を、存在を疑う。だが見てみよ。有名なる哲学者は大抵にしてその瞳を濁らせて狂気を孕ませるようになっているではないか。キチガイのトンチキ野郎になっているじゃあないか。あはは、誰だって、大抵の奴は母の乳を舐れなくなる事を避けたいのだ。僕だってそうだった。『マリヤ』という子守唄を歌うだけにしか過ぎない者を信じて疑わなかったのだ。僕らは疑わないのだ。人間は疑わないのだ。己の足元を疑ってなるものか。あはは。人が最も疑って来なかったものは一体何なのだろうか。それは神の存在です!」

 そう言うなり、岩田は祭壇に歩を向けた。皆は岩田に慌てて付いて行った。皆は歩を進めながら岩田の突飛な意図を訊ねた。

「なぜに神の存在を此処で懐疑せねばならぬのですか」

「貴方は神を疑えというておるのですか!」

「貴方が行なうのは事件の解決であって神の存在の哲学ではないでしょう」

「阿見君や御堂君を真似た口調ではありませんか」

「貴方はその役割を背負うべき人間ではない」

 バベルの塔と化した状況にもかかわらず、岩田はもの言わずに胸を張って祭壇の前で足を止めた。岩田が足を止めた先、そこは例の聖クリストポルスの巨体の描かれた石版の前だった。岩田はくるりと振り返って皆に言った。 

「『それ神の言には能はぬ所なし』。『ルカ傳福音書』第一章三七節のとおりならばこの矛盾はどのように解決するべきでしょうか。『神は神に持ち上げられない巨石を創れるか?』。神が全能ならば、神自身に持ち上げられない巨石を神自身が創ることが出来るはずだ。一方で持ち上げられない巨石が存在させてしまったならば、神は全能でないことになる。有名な万能なる神に対してのパラドクスを孕んだ問いです。この問いに対しての神の存在を認める側からの明確な答えは未だ嘗て存在しません。勿論、この問いに答えられないからといって、それが神の不在証明になるわけではありませんが。この問いを突きつけられたときに誰しも脳裏にあることが過るでしょう。神は存在しているのか、と」

 薄ら灯があるのみの闇の中、岩田は小躯を以て床に威厳を漂わせて横たわる聖クリストポルスの石板に手を掛けた。朧気な巨人の像は僅かな軋みを発てて姿を消した。巨人の去りし後には切り取られた深い深い闇が口を開けていた。深淵な闇だった。

「神は存在しているのか。その例題に数多くの賢人が幾星霜に亘って証明を試みた。だがその証明は混迷を極めた。不在の証明が悪魔の証明と謂われるならば、『神の証明』は存在の証明だ。無理なのだ。神を証明することなんて。畢竟にしてトマス・アクィナスのアナロギア・エンティスに落ち着かざるを得ない」

 岩田は深淵に続く深い闇に飛び込んだ。この区切られた闇は過ちの森を抜けて地獄に続き、煉獄を横目に天国に至るはずだ。岩田は地下聖堂に入ると、続いて久流水家の一族が入った

「僕は途轍もない勘違いをしていたのだ。僕はぼんやりと神の存在を信じていただけだったのだ。見たこと触れたこともないのに、神がいると茫漠と信じていただけだったのだ。見もしていないのに神を疑わなかったのだ」

 地下聖堂は全ての燭台の明かりが消されており、落とした針の音も響かんばかりの静寂が張詰めていた。傴僂男だろうか、慌てて地上より灯を持って来て、聖堂の諸所の燭台に灯を点し始めた。それに順じて地下聖堂はその姿を薄ら薄らと明らかにした。コリント式の支柱や床に広がる小さな宗教画とともに描かれた迷宮図。床にはソドムが硫黄と火に包まれた画が描かれてそれを取り巻んで『ヱホバ硫黄と火をヱホバの所より即ち天よりソドムとゴモラに雨しめ 其邑と低地と其邑の居民および地に生ふるところの物を盡く滅ぼし給へり』が記されていた。

 明るさが増すにつれて岩田の目的とするものが見えて来た。ケルビムの意匠を配した天蓋が地下聖堂の最も奥に窺えた。岩田はそれに向かって歩を薦めた。聖堂の中は段々と明るみを増してゆく。闇は地下聖堂の片隅に追い遣られて行く様に感ぜられた。岩田の眼の前に明るき道が開けんか如く感ぜられた。

「僕は勘違いをしていた。見てもいないのに在ると思い込んでいたのだ。嗚呼、僕は神の再来としていわれる久流水桐人に逢ったことはこの一週間に一度としてなかったのだ! 否、二日目の朝にミサにて出会っている。だがそのとき桐人はヴェールを被っていた。その一度きり以外に直に桐人を僕は見ていない。ならばどうして桐人に会っていると僕は勘違いをしたのだろうか。桐人に会っていたのは阿見光治だ。彼が桐人に会っていたことを僕は、自分の経験として考えていたのだ。何を言っているのだ、僕は。作者と読者の視点を混同してやがる。これが小説ならば岩田の視点で描かれた場面では桐人は登場していない。阿見光治の視点の場面のみに桐人は登場している。僕の日記『神殺しの黄昏』の場面には桐人は一度たりとも出て来てはいない。阿見の日記『やその騎士』の場面にしか、神の子久流水桐人は登場していない。だがそれが一緒にごちゃ混ぜに描かれていたから恰も桐人が存在していると勘違いをしていたのだ。白髪の不気味な予言をする少年はそのインパクトの強さにいるものだと考えていたのだ。僕が夜の『マリヤ』と昼のマリヤに惑わされたようなことがここでも起こっていた。桐人なんて実際は存在していない。ただ読者という身勝手な想像力豊かな御仁に描かれた幻想の住人だ」

 岩田は歩を進めて寝台に向かった。その歩は堂堂としている様に感ぜられた。それに歩みの揃わぬ人々が岩田に続いた。

「ならば、阿見視点の時に存在していた桐人は何者か? それは同じく人前でヴェールを被り続けていた百合子だ。否、白髪の少年が、外を出歩く時に百合子の姿を借りていたのかも知れぬ。ここでもまた服装倒錯が行なわれていた。存在していると思っていたものが存在していなかった。ならば、それを前提にした事件の見通しをやり直さねば。事件の見方を組み立て直さねば。事件をもう一度初めから見直さねばならぬ。桐人の不在を明らかにすることこそすべてが始まるのだ」

 岩田はケルビムの天蓋の前に立った。天蓋の中はひっそりと静寂を保っていた。なぜなら百合子が岩田の後ろに不安げな顔をして存在しているのだ。ならばこの天蓋の向こうには誰もいないはずだ。神も、桐人も存在していないはずだ。このヴェールさえ剥げは全てが無効に帰すはずだ。

岩田は天蓋のヴェールに手を掛けて言った。

「『読者よ、いざ目を鋭くして真を見よ。そは被物はげに今いと薄く うちをうかがうこと容易なればなり』。 さあ、神の不在を証明してやる!」

 岩田は天蓋のヴェールを剥ぎ取った。此処に桐人はいないのだ! その不在を現わせ!

 そこには白髪の少年の寝顔があった。スウスウと静かな寝息を立てて神神しきまでの美しき少年の寝姿が。その少年は岩田の勢いを読み取ったせいか、薄らと瞼を開き、真ッ赤な燃える様な赤い瞳で岩田を怪訝そうな眼で見詰めた。

 そんな桐人が実在しているだと!

 岩田は眼の前にある情景に呆然となった。久流水桐人は実在していた。ヨハネの默示録の記述、『その頭と頭髪とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は燄のごとく』のとおりの要望をした少年が其処には存在していた。

 呆然ととした岩田に阿紀良の冷めた声が聴こえた。

「桐人様が存在しないなんて在あり得るわけないでしょう。一週間も警察が気付かないわけないでしょ」

 隙間風だろうか、燭台の一部が消えたらしい。再び闇が拡がった。平戸警部は阿紀良に続けて岩田に諭した。

「百合子さんが桐人君であることは不可能でしょう。百合子さんは貴方の尋問の前に一晩中尋問を受けていたのですよ。岩田さんの言う通りならば桐人君は一晩失踪していたことになってしまう。御堂さんが失踪したことだって直ぐに解かったのです。一晩人間がいなくなることくらいは見逃すはずない」

 阿紀良と平戸警部、そしてそれを取り巻く一族の者の視線が岩田には痛かった。嗚呼、何て間抜けなのだ。所詮は僕に御堂周一郎や阿見光治の真似事は無理なのだ。御堂、お前は何処に行ったのだ。お前が現れぬからこそこんなことになってしまった。御堂、機械仕掛けの神を演じると言ったではないか。お前はどうしたのだ?

 岩田が落胆している時だった。ケルビムの天蓋の後方からあの静かな声が聴こえて来た。

「過ちを犯すことは人間的なことである。莫迦か。さて莫迦者に代わって機械仕掛けの神の登場と参りましょうか」

 その声の主は天蓋の後ろから姿を現した。長髪の黒眼鏡の赤い支那服の男、御堂周一郎だった。

「機械仕掛け神はお前には荷が重過ぎる。真打の登場だ。俺が代わりにやってやるよ。小猿ちゃん」

 御堂はそう言うなり、寝台より前に出て、久流水家の一群の前に現れた。御堂の顔には冷笑と困憊が窺えた。岩田は御堂が姿を現した安堵感と、御堂の姿を現さなかったことに遠因する憤慨が混濁した感覚に襲われた。

「御堂ッ、一体どうしたのだ? なぜ素直に出てこないのだ。お蔭でこちらは大変な思いをしたのだぞ」

「莫迦か? それはお前の身勝手な暴走のせいだろ。それに俺は聖堂に集まれとは言ったが、何も上の聖堂に集まれとは言ってないぞ。この地下聖堂だって聖堂には違いないだろ」

「御堂さん、桐人様の寝台で何をしていたのです?」

 後方より成り行きを見ていた阿紀良が言った。その口調は岩田へのそれとは違って丁寧なものであった。御堂はその問いに対して嘯くような素っ気無い口調で応えた。

「チョット事件解決の最後のパーツを探しにね」

「では岩田さんが先程言った様に事件が解決したのですか? それはちゃんと納得する様なものなのでしょうね」

 阿紀良に続き、毛むくじゃらの万里雄が訊ねた。単なる光の加減か、または終結を前にした興奮故か、貌中の黒毛がテラテラと輝いていた。

「ええ、万里雄さん。其処にいる平戸君も納得する結論ですよ」

 帥彦が消えた燭台に再び灯を燈したらしい。地下聖堂の中がより明るさを増した。明るさは其処にいる全ての人々の相貌を映した。阿紀良、万里雄、清枝、益田老人、百合子、帥彦、マリヤ、そして桐人……。加えて岩田に平戸警部。役者は揃った。御堂よ、事件を解決せよ。


ここにイエス己を信じたるユダヤ人に言ひたまふ『汝もし常に我が言に居らば、眞に我が弟子なり。また眞理を知らん、而して眞理は汝らに自由を得さすべし』

                   ヨハネ傳福音書第八章三一―三二節



Ⅱこの人を見よ Ecce Homo.


されど彼らの目遮へられて、イエスたるを認むること能はず。

                      ルカ傳福音書第二四章一六節


「さて、何から話すべきでしょうかね。阿見のように探偵を気取ったことに慣れてはいない。そうだね、岩田が神の不在を導入として散々述べてから本論に入ったようだから、俺もそのような導入にすべきか」

 御堂はそう言うと黒眼鏡越しにぐるりと一族を見回した。燭台の灯が在るとはいえ、黒眼鏡でも視界は保てているのだろうか。その口調と態度はどこかしら有無を言わせない威厳、栄のその力に満ちていた。なぜ御堂には有無を言わせぬ力があるのだろうか。久流水家の人々、平戸警部、岩田はその力に無言となっていた。

 この刹那の沈黙を破ったのは意外なる人物だった。

「われは默して口をひらかず」

 それは久流水桐人の声だった。一同が一斉に寝台を見ると桐人はひっそりと燃えるような赤い眼でぼんやりとしていた。桐人は美しい顔をこちらに向けていた。その顔は御堂同様に確固たる威厳に満ちているように思われた。また考えてみれば、桐人が不吉なる預言以外に言葉を発したのは初めてのはずだ。

御堂は桐人の声に一瞬たじろいだようだったが、直ぐに態勢を取り直して慇懃に言った。

「ありがとうございます。ではこの事件の解決としましょう」    

 そう言うと御堂はくるりと皆の方へ振り返った。

「岩田ッ。論理学を知っているか?」

「論理学? ああ、あの対偶や逆、裏なんてヤツか。それがどうした?」

 論理学とは、『AならばBである』という命題があり、それが真である、つまりは正しい場合には『BでないならばAでない』という前記命題に対しての対偶と呼ばれる文章もまた真であるといったことを思考することである。『吾輩は猫である』という命題が真であるとする。するとその逆である『猫は我輩である』は真とはいえない。『吾輩は猫である』は『吾輩』という個人が『猫』という種族であると言っているのに対して、『猫は吾輩である』。すべての『猫』という種族が『吾輩』という個人になる。これは当然にして正しくなく、真とは言えず、偽である。また『吾輩でないのは猫ではない』という所謂『吾輩は猫である』の裏と呼ばれる文章を検討すると、『吾輩』以外の全てのものは『猫』ではあり得ないことになってしまう。『吾輩は猫である』とは異なる意味内容になり、真とは言えず偽である。ところが『吾輩は猫である』の対偶である『猫でないのは吾輩でない』は、『吾輩は猫である』と矛盾が生ぜず、論理的に同じであり、『吾輩は猫である』と同様に真ということができる。『AならばBである』が真であるならば、対偶『Bでないならば、Aでない』も真になる。また命題が偽の場合も、対偶は偽になる。

 阿見は『マリヤ』の正体暴きの時『逆もまた真なり!』ということを言ってはいるが、日常語的には正しいが、論理学的には、命題が真の時に逆も真になることはない。しかし御堂はいきなり論理学なぞを持ち出したのだ?

 御堂は平戸警部に視線を向けた。

「平戸君。今回の事件において最大の探偵小説的謎は何かね?」

 平戸警部は急に名指しされて一瞬たじろいだが、視線を中有に這わせて、御堂の問に応えた。

「探偵小説的謎と言われれば、神父の『密室』殺人でしょうね」

「そうだな、『密室殺人事件』だ。あれは殺害時において殺害場所である写字室に向かった犯人が、清枝さん、直弓女史の両名によって目撃されなかったことによって起こったことだったね」

 平戸警部の発言を確かめると、次に御堂は清枝に顔を向けた。

「では、清枝さん。今から言う質問に応えてください。正直に答えて下さい。オット、あの密室事件は皆が嘘を付いていないことを前提にしているものでした。皆が皆『汝その隣人に對して虚妄の證據をたつるなかれ』を守っていることを前提にしている。『正直に答えて下さい』と言うのは奇異しいですね。いいですか、清枝さん。質問に正確に応えて下さいよ」

 清枝は身じろいで隣の益田老人のダルマティカをギュッと摑まえたが、意を決したようで小さいながらもコクリッ頷いた。

「教司神父が殺害されたあの時に益田老人以外に、誰か通るのを見ましたね?」

 岩田は御堂の質問に唖然となった。御堂よ、奇異しな、否、判りきった質問をするのだ? 誰も通らなかったからこそ密室になったのではないか。それはお前自身が確認したではないか。それに岩田自身も清枝に大浦姓についての疑問を投げ掛けた時に同じ質問をしている。あのときも清枝は警察官に証言したように『見ていない』と言っていた。

 岩田が質問の無意味さについて口を挟もうとすると御堂はそれに気付き、掌を岩田の前に突出して制した。

 地下聖堂の灯は帥彦によって粗方点燈されたようであり、聖堂の大抵の部分は見通すことができた。岩田が清枝の方に顔を向けた。清枝の顔は陰翳で能面の様に様様な表情を見せていた。憤怒? 悲しみ? 喜び? 暫しそうしていただろうか、その内に清枝はキッと視線を正面に向けて、堂堂とした態度で口を開いた。

「はい、見ました」

 地上よりの隙間風のせいだろうか、地下聖堂の燭台が一斉にメラリッと瞬いた。

「見ただってッ!」

 清枝の応えより、一拍置いて後だった。平戸警部の屹然とした声が地下聖堂中に木魂した。

 岩田もその応えに呆然となった。『見た』? 清枝は警察官にも岩田にも『見てない』と言っていたではないか。清枝は嘘を付いているのか? 否、あの密室は誰も嘘を付かないことが前提とされていたはずだ。嘘を付いていないことを前提にすべきと契約したではないか。『見た』となれば読者への裏切りだ。

「御堂ッ。これではすべてが台なしではないか? 真逆かお前、いつぞやに言った様に探偵小説だなんて約束していないと言うつもりか!」

 岩田は呆然から、憤然に代えて御堂に噛み付いた。御堂は黒眼鏡に支那服で涼しい顔をして、岩田に冷笑を向けた。

「確かに探偵小説とは約束はしてはいないが、密室殺人事件について誰も嘘を付いていないことを約束した。少なくともこの部分に関してだけは物語陳述が信用できると保証する機能が働いていると見做すべきだ」

「ちょっと待て! 矛盾が生じているぞ。嘘を付いていない事を前提として、嘘を付いていることになっているぞ。御堂ッ」

 岩田は再び御堂に噛み付いた。

「莫迦か? どこに矛盾がある? 嘘を付いていないという前提と、今清枝さんが仰った『見た』にはは矛盾は生じていないだろ」

「莫迦はお前だ!」

 御堂は岩田の猛然とした叫びにホウッと嘆息をした。その表情にはニヒリズムが浮かんでいた。 

「お前は何を勘違いしている? お前や警察が、清枝さんと直弓女史に訊いた質問は、『犯人を見ましたか』だ。俺が今訊いたのは、『誰か見ましたか』だ。そもそもの質問が異なっているのだ。そうである以上は清枝さんが嘘を付いたことにはならないだろ」

 岩田は茫然となった。『犯人』と『誰か』だと? 岩田は警官のした質問、岩田自身の清枝に対する質問を思い返した。

『犯人が写字室に入るのを見たのかですって! ですから何度も申し上げている通り、見てはいませんわ。えッ、では犯人と思しき人を見たかですって?』

『犯人と思しき人を見なかったかですか? ええ、確かに写字室に向かうためには、妾達がいた四阿の前を通らない訳にはいきません。妾達の前を通らず犯人が写字室に向かう事は不可能ですネ。ええ、何度も言う様に犯人を見てはいませんわ』 

『清枝さん、刑事さんから何度も聞かれたとは思いますが、あの時本当に犯人らしき人物を見ていないのですね』

『ええ、間違いありません。見ていません』

 アッ、確かに『犯人』、乃至『犯人と思しき人』と尋ねている。『誰か』とは尋ねてはいない! 御堂の言うように質問が異なっている。質問が異なる以上は前提と矛盾が生じないのか? 否、併し待て。警察や岩田は『犯人と思しき人』を見なかったかと訊ねているではないか。文言上は『誰か』と『犯人』は別物だが、意味内容としては同じ内容なのではないか。

「だがやはり意味内容として矛盾が生じているではないか!」

 岩田は言葉遊びの様な現状にやや辟易としながらも、御堂に怯まず噛み付いた。燭台の焔が一斉に、且つ一斉に燃え上がり、また静かに揺れた。御堂はスウッと息を吸うと、キッと真直ぐに視線を向けた。しかしその視線の先には何もなかった。ぼんやりとした薄闇と柔らかでも峻厳な焱の揺らめきだけだった。

「そこで論理学が生きてくるのだよ」

 御堂の声は静かながらも威厳のある地の底から突上げられたような声だった。

「どういうことですか? 御堂さん!」

 平戸警部が岩田に取って代わるように訊ねた。御堂は対してほの暗い闇に表情を失わせて、狡猾であり、恐ろしく且つ威厳に満ちた様な顔を見せた。門番ケルベロスが口を開いた。

「岩田ッ、お前は久流水家に着た初日の聖餐の間で直弓女史にこんなことを言ったな。『Sinがあるからこそ、世の中にはCrimeやTransgressionが蔓延っているということですか』、と」

「ああ、確かにそう質問した」

 岩田はそのときのことを思い返して応えた。確かに岩田は直弓に対してそういう質問をした。だがそれが一体どうしたというのだ?

「それに対して直弓女史はこう応えた。『すべての人間が罪を背負っているのですよ。貴方が言うとおりならば、凡ての人間が犯罪者や非行者になっていることになりますわ。また犯罪と非行を行っていないものは罪から逃れられていることになります。犯罪や非行でなくとも、罪は逃れられません。妾はただ、CrimeやTransgressionがSinによるものであること言いたいのですわ』と。少し奇妙に感じないかい? 直弓女史はSinが世に悪を氾濫させた元凶であると仰っていたね。ならば当然に岩田が訪ねたようにSinがCrimeや、Transgressionを生み出したものであると考えるのが普通だ。けれど直弓女史はそれを否定している。何故にして否定しているのか解るかい?」

 根拠だって? 直弓が自分の問を否定した理由? 岩田は御堂に指摘されて怪訝となった。何故否定したのか。直弓は『貴方が言う通りならば、すべての人間が犯罪者や非行者になっていることになりますわ』と応えて否定している。凡ての人間がCrimeやTransgressionを負うことになってしまう……。

 考えあぐねている時だった。岩田にあることが急に思い出された。

「論理学だ! 僕の質問を論理学的にいうならば『Sinがあるならば、CrimeやTransgressionがある』になる。これの対偶は『CrimeとTransgressionがないならばSinがない』だ。これを検討するに対偶は当然に偽だ。世の中にはCrimeとTransgressionを犯さない人間はいる。赤子などはその良い例だ。真ッサラな赤子にCrimeやTransgressionがあるとは言えない。なぜなら赤子はそもそも法律の及ばぬ存在であり、道徳というもの自体が彼らの中には存在していないのだからな。Transgressionが存在しようがない。直弓さんはSinが遺伝したと言っている。ならば生まれ乍らにしてSinはもってなければならないものだ。凡ての人類が有しているものなのだ。『CrimeとTransgressionがないならばSinがない』が真ではあり得ない! 対偶が偽である以上は命題である『Sinがあるならば、CrimeやTransgressionがある』も真ではなくて偽だ」

 岩田の質問は論理学的に真とはいえない。だからこそ直弓はこれを偽であるとして否定をした。御堂が先程において論理学に付いて述べていたのはこういうことだったのか。

 岩田が一気に述べ立てると、御堂は口角を上方に歪めた。

「そうだ、直弓女史が君の質問を否定した理由はそこにあったのだ! 論理学を以てして否定されているのだ! さて次に直弓女史が三位一体の罪について纏めたことを振り返ってみよう。直弓女史は岩田の質問の答えに続いてこう纏めているね。『CrimeやTransgressionがSinによるものである』、と。この罪についての纏めの文章を論理学の命題として考えてみよう。論理学の命題に置き換えるならば、『CrimeやTransgressionがあるならば、Sinがある』と言ったところか。直弓女史によれば、この命題は真となる。ならばこれの対偶を見てみよ。対偶は『Sinがないならば、CrimeとTransgressionはない』となる。そして対偶ならば元の命題と同様に真である……」

 御堂の声は静かに地下聖堂中に響いた。御堂は清枝に顔を向けると、静かなる声で言葉を発した。

「あの時の『誰か』とは誰のことですか?」

 暫しの静寂、揺らめく闇、強張る燈火。女の落ち着いた声……。

「久流水桐人様です……」


解明された明らかなことよりも、解明されないはっきりとしないことのほうが重要視されるものである。

        フリードリッヒ・ニーチェ『人間的な、あまりにも人間的な』



Ⅲ最後の時間 ultima forsan


こんなことに気づいたことはありませんかな? つまり、他人というものは、こちらの言ったことに答えようとしないということに? 人はこちらの言ったことに意味にたいして――もしくは人が相手はこういうつもりなんだろうと考えたその意味にたいして――答えるのです。かりに一人のご婦人が田舎の別荘にいる友人にこう訊くとする――《どなたかごいっしょにご滞在ですか?》ですが相手は――《ええ。執事が一人に三人の馬丁、それから小間使などがいっしょにおりますわ》と答えませんでしょう。同じ部屋に小間使もおり、自分の椅子のすぐうしろに執事がいたとしても、《どなたもここにはおりません》と答えますよ。あなたがおっしゃるような人はおりまセンという意味でな。だが、伝染病のことで医者が《この家には誰かおりますかね?》とたずねたときはどうでしょう? その婦人は執事や小間使等をそっくり念頭に置いて答えるでしょうな。言葉というものはすべてこんなふうに使われておる。相手から満足な答を受けとったとしても字義の上で厳密に質問にかなった答というものはないのです。

                   G・K・チェスタトン『見えない男』


あのとき――教司神父殺人事件のとき――、直弓と清枝は犯行推定時間に四阿にいた。写字室へ出入りする者は必ず四阿の前を通らねばならぬ。直弓と清枝はあの時に、久流水桐人が写字室に向かうのを見ていたのだ。桐人には九時から一〇時のアリバイはない。おそらく桐人が写字室に向かったのはその時間帯のことだろう。当然通常の人ならば、犯行時間帯に犯行現場に向かっている桐人が犯人であると考えるだろう。しかし直弓と清枝は耶蘇久流水教の信者だったのだ。その罪についての教義では、無原罪の桐人の存在は、『誰か』ではあるが、『犯人』ではあり得ない。『Sinがないならば、CrimeとTransgressionはない』が正しいなら、『無原罪ならば、犯人でない』も真だ。桐人は神である。神であるとは無原罪。Sinがない。神と同人格を持つ桐人が行う行為は信者にとって法律的罪として認識されないのだ。だからこそ警察や岩田が『犯人』を誰何しても、桐人は『犯人』として認識していないのだから、『見ていない』と二人揃って返事したのだ。そして彼女らの認識の下では『見ていない』は十戒を破るような嘘にはならないのだ。何故なら桐人は『犯人』ではないのだから。対して『誰か』を見なかったか、人格と肉体をもつ桐人にも当て嵌まる概念だ。直弓と清枝は桐人を『犯人』としては認識していないが、『誰か』としては認識しているのだから。この質問に『見ました』と応えたとしても、嘘を付いたことにはならない。畢竟、この事件を密室ならぬ密室としてしまったのは信者と一般人の『犯人』の認識の違いによるものだったのだ。彼女達は桐人を庇おうとしていたわけではない。ただ忠実に質問の文言どおりの答えを返したに過ぎないのだ。『謎解きはつねに謎そのものに劣る。謎は超自然のもの、神的なものでさえある。が、解決は手品の領分なのだ』。ベルヘスの『エル・アルフ』にて曰く。密室なんて不思議不可解で神秘的な現象も、実を明かせばクダラナイ手品のタネだ。

 神がいくら天罰として、洪水を起こしたり夜硫黄と火を降らせたりして人を何万人殺害しようしたところで神を責められぬ。ヤコブに首長ハモルと息子シケムの一族を滅ぼさせたとしても神にとっては犯罪ではないのだ。よく神は残酷なサディストだと宣う者がいる。だがそれは誤りだ。なぜなら神にはSinがないのだ! Sinがないのだから、如何なる行為を行なっても、CrimeとTransgressionとして批難することはできない。神の殺人は犯罪ではない。なぜ神が犯罪者となりえようか。この密室事件は単に『犯人』という言葉の認識の差にあったのだ。あまりにも単純な謎にしか過ぎなかった。我々が『密室』として、探偵小説の認識を以て事件を除いたが故に事件が複雑に考えられた。我々の認識も現実と差があったのだ。

 久流水桐人は中有に真ッ赤に燃える様な瞳を漂わせていた。御堂の指摘に何ら反応もなく冷然としていた。砂漠で叫ぶ下界人にそれは試練なのだと言い放つ神のように。

 神の子桐人は動じていない。彼が何を考えているのか解らない。彼にしても『犯罪』という認識がないのだから動じることなどないのかも知らない。神が己の起した大洪水を人間に責められたところで動揺するなどはありえないのだから。そもそも彼は変装なぞすることもなく、剣を持って直弓や清枝の前を堂々と通過していったのだ。何ら詭計すら使っていないのだ。動じることがあろうか。人間の言葉が、神を揺るがすなぞあり得ようか!

 岩田は表情一つ変えぬ桐人に憮然とした。しかし同時にそれに恐れも感じていた。俺は冤罪の際に全てをうらんだではないか。絶望にくれて闇の心地よさに憬れたではないか。妖婦の紅を引いた唇に魅せられた童貞の様にその淫猥さに心惹かれたではないか。けれども目の前にいる白髪の少年は妖婦の毒に中てられた風もない。岩田に恐れを抱かせるのはそれなのだ。

「桐人君、話を続けていいかな?」

 御堂の声は力なく思われた。薄ら寒さを漂わせていた。

 桐人は抑揚のない声で聖書の一説を言った。

「神は凡ての人の救はれて、眞理を悟るに至らんことを欲し給ふ」

「そうですか、では続けさせてもらいましょう……。探偵小説ならば事件が複数ある場合にはすべての事件を振り返った後に犯人に動機を自白させる、もしくは探偵自ら、それを暴露するという順序でなされるのが常套であろうが、残念ながら彼は犯人ではないし、俺は探偵ではない。変則的かも知れぬが先にこの事件の動機を明らかにすべきであろう。今回の場合動機を先に明らかにした方が解り良いかも知れぬ……」

 御堂は力なく言うと、岩田と平戸警部の方を振り返った。

「岩田に平戸君。桐人君が君らの言うところの犯人だとして、奇異しなことに気付かないかい? 『犯人』と訊ねられなかったから答えなかったとしてもだ。彼が神であったとしても、なぜ神が人を殺すことを看過していたのだろうね」

「信者にとってみれば、神の行為は絶対だからではないか」

 岩田は応えると、平戸警部も同調するように首肯した。

「しかしそれでも疑問に思うだろ。なぜ神は我々に罰を与えたのか。我々は罪深き行いをしたのだろうか、とね。況してや神が実在しているのだぞ。神にその真意を問うことをするものじゃあないのかね。だがこの一週間、そんな様子は全く見られなかった。淡々と事件が起こり、事件を受け止めていた」

「一体、何が言いたいのだ? 御堂ッ」

 岩田は御堂の意図が判らずに訊ねた。

「岩田、平戸君。君らはさっきから気付いていないのかい? この解決の場面が奇異しなことを? 俺が謎解きを始めて、お前たちは一体どれだけ僕に質問した? でも奇異しくないか? さっきから平戸君と岩田ばかりが質問をしてないか? 俺が清枝さんに尋ねた。桐人君に尋ねた。それらの受け答え以外に、久流水家の人間の声を聴いたかい? 聴いていないだろう。久流水家の人は先から唖のように黙りこくっている。己の信仰の象徴、神の子久流水桐人が不信人者に責められているのも拘わらず!」

 岩田は唖然として、同時に周囲を見回した。岩田、平戸警部、そして御堂は桐人の寝台の前に近付いていた。他の久流水家の人々は岩田たちを取り囲むようになっていた。燭台の炎の加減か、彼等の姿は半身ほど闇に隠れていた。百合子も帥彦も、益田老人も清枝も、万里雄も、マリヤも、阿紀良も。皆が皆、闇に姿を隠していた。彼らは唖のように一言も言葉を漏らしていない。この御堂による解決が行なわれている間、殆ど開いていない。

「彼等はなぜ口を開かないのか。イエスの死後に彼を知らないと言った使徒でも気取っているのか。否、違う。彼等が口を貝にしている訳、それは彼らが既にこの事件の真相――桐人君が『犯人』であるという真相――にみんな気付いていたからではないか?」

 御堂がそっと小さな声で応えた。

「久流水家の人達が事件の真相を初めからはじて知っていた?」

 岩田は愕然として叫ぶようにして言った。

 この事件の真相を皆知っていた? 確かに知っていれば、真相を話している御堂に質問はしないだろう。桐人君が剣を以て神父を殺しに行くところを目撃していても、何ら疑問を抱かずに看過するだろう。何故彼らは真相を知っているのか? 真逆か……。

 岩田は久流水家の人々を見回した。相変らず、闇に覆われ判然としていなかったが、時々の燭台の炎の明滅によって、一瞬の間、彼らの顔が浮かび上がった。その顔はどれも能面の様に清冽としていて、何色もの顔を窺わせた。

「つまりこの事件が久流水家の人々全体によって仕組まれたということなのか!」

「この事件はすべて久流水家が一丸となって、否、桐人の行為を皆受け入れるという合意の下に行なわれた殺人だよ。被害者も皆桐人に殺されることを知って、殺されていたのだよ!」

 御堂はそう言い放つと、闇に沈む久流水万里雄をに訊ねた。

「万里雄さん、貴方たちはこの事件が神の子によるものだと知っていたのですね」

「ええ、皆知っていましたよ。事件が神の子によるものだと」

 御堂は闇より一歩、踏み出すと淡々として応えた。万里雄の瞳は呆然と中有を見詰めていた。

 御堂は返事を聞くと、満足げな表情を見せて続けた。

「では、何故神の子は信者を殺害したのか。信者はなぜそれを受け入れたのでしょうか。応えは余りにも簡単でした。事件はヨハネの默示録の見立てを完成させること自体が目的だった。 久流水家を終結させることが桐人の目的であり、信者は来るべき時が来たとしてそれを従順に受け入れたのですね」

「何がなんだか、さっぱり判らない」

 岩田は叫んだ。

「だから簡単なことなのだよ。耶蘇久流水教を桐人の代で終わらせることが目的なのだよ。そのために神は久流水教自体を滅ぼし、信者はそれを世界の終末だとして甘受する。それがこの事件の目的であり、真相なのだよ。擬似的に世界を終わらせるただそれだけだ。つまりは儀式だったのだよ」

 ヨハネの默示録の見立てを完成させる自体が目的。 この様な見立ての例は数少ないのではないか。探偵小説における見立てとは大抵の場合、見立てを行うことによって、犯人の真の意図を覆い隠すことにある。例えばあるトリックを成立させるためにどうしても必要な小道具――しかも通常において殺害現場にあったら著しく不自然であるもの――を、見立てによってその小道具が殺害現場にあっても不自然ではないようにしたり、連続殺人事件においての被害者の殺害順序を見立てによって実際の殺害準とは異なった順番に殺害されたと見せかけてアリバイを確保する等が探偵小説の見立ての理由として挙げられる。しかし久流水家殺人事件では見立てはそのような意図ではないという。この事件は死陰谷村という世界を終わらせる為の儀式ということか。神の手による人間――久流水家の人間――の消滅。それが事件の動機。

 久流水家の人々にとって、耶蘇久流水教を信じる者にとって、世界の終末などそれを信じた時から想定されていたものだ。何を驚く事があろうか。ヨハネの默示録の見立ての為のだけの殺人。だからこそ彼等は口を開かぬのだ。開く必要がないのだから。

 岩田は世界の終末を目的にした犯罪である事を前提に一連の事件を眺めて見た。『神殺しの黄昏』の冒頭に『一週間後に控えたこの国で久方振りの日蝕が、ここ数日間の酷暑と関連付けられ』と記述した。あの時より一週間後は明日に当たる。五月九日にヨハネの默示録の七つの封印を解いてゆくと、最後には日蝕が起こるとある。ヨハネの默示録の見立てのお膳立てができている。

 岩田は辺りを再び見回した。彼等は審判が下るのを待っていた人間だったのか。闇に隠れて彼等の表情は判然としない。併し岩田には彼らが今どの様な顔をしているのかが透けて見える。彼等の顔は法悦に至りながらも峻厳な様相を呈しているだろう。

「これは一種の殉教とも言えるね。久流水家の人々はこの儀式を元々はひっそりと行おうとしていたのではないか。警察にも、探偵にも知らせることなくひっそりと。ところが、そこに阿見光治がやってきた。そして彼が警察に通報することになった。ひっそりと最後を迎えることができなくなった。だからこそ、俺が呼ばれたのではないか。世界の終末という儀式を完成させる為に阿見を邪魔する役割を俺に負わせたのではないか。阿見の悪辣な筆から久流水家の名誉を守ろうという意図以外の役割を」

 御堂はそう言うと一息付いて哂った。己の言う真相に半ば苦笑をしている様に見えた。そうだろう。確かに馬鹿げている。あはは。岩田は御堂の口角の上がりに何かを見た。

「ちょっと待て、奇異しなことがある。阿見は深見重治を追ってやって来た。深見は死んでいた。その阿見も殺された。この二つの事件は見立てじゃあない。不協和音を唱えている! それに宗教的儀式ならば久流水穂邑は久流水家にいながら神を信じてないと言っていたぞ。雄人、教司神父、直弓は理解できる。併し、深見、阿見、穂邑の事件は納得がいかないぞ」

 岩田は御堂のキュッとした口角に意義を唱えた。

 深見重治や阿見光治はこの久流水家の人間ではない。彼等にとって死は予定調和ではないのだ。穂邑も岩田に対して『俺には神というやつが単なる思考停止の為の単語にしか思えぬ。人類に気を狂わせないがためのな』と言っていた。彼は神を信じてなかった。

 御堂はずっと無言なままの久流水家の人々の顔を順繰りに見ていった。真ッ黒な女のように長い髪と黒眼鏡越しの冷然としているであろう瞳をもってして。百合子、帥彦、阿紀良、万里雄、清枝、益田老人、マリヤ。彼らは一同にして口を開いて否無かった。そして御堂は久流水桐人に視線を向けた。

「これから俺が言うことは久流水家の人々にとって予定調和ではない。彼らは単に神、即ち桐人が最後の審判を起し始めたという程度の認識しかないだろう。何ら疑問を抱かずにありのままに現実を夢想と混合させて見ていたにしか過ぎないだろう……。今から俺が明らかにせんことは彼等も知らぬこと、彼等にとって最も聞きたくないことだろう。だが俺は言わねばならぬ。俺は神を天空から失墜させる!」

 その言葉に無言だった久流水家一同から、ざわッ、ざわッとした声にもつかぬ声が上がった。彼等の身体が揺れたからだろうか。半身まで闇に隠れていた彼等の姿が一斉に灯の下に曝された。揺らめく炎の明るさに黙して話さぬ者達の姿が明らかになった。その顔は不安と慄きに充ちていた。不安に満ちた顔、顔、顔。慄きに充ちた顔、顔、顔。顔は炎に揺らめき、歪み、そして哂った。それらの顔の中から一つの顔がより前に出でて口を開いた。

「何を行なう気ですか。神を失墜させるとは何ですか!」

 黒毛に覆われた顔をテラテラさせて、万里雄が訊ねた。

「言葉のままです。神を天界の玉座より引き摺り下ろすのです」

「その神はどの神を指しているのですか?」

 次なる声の主は久流水阿紀良だった。阿紀良は能面の様に整った顔を歪ませて御堂に尋ねた。

「決まっているでしょう、久流水桐人君ですよ」

「桐人様? 桐人様を失墜させるとはどういうことじゃ?」

 声の主は益田老人だった。老人は皴だらけになった顔で皴嗄た声で尋ねた。皴だらけの顔の側には大浦清枝の円い顔があった。 

「彼から重荷を解いて上げるのですよ。神という重荷から」

「神は重荷だというのですか」

 百合子が柔らかな、柔らかだからこそ気の置けない顔で尋ねた。柔らかな百合子の顔の隣には片目の潰れた帥彦の顔があった。

「ええ、重荷だったからこそ、世界は終末を迎えたのですよ」

「終末を迎えた? 何を明らかにしようとしているのですか?」

 マリヤが焦点の定まらぬ瞳をして御堂に顔を向けた。

「俺が明らかにしようとしていること。それは神が何故世界に終末をもたらせようかと思ったのか。それを明らかにしようとしているのだ。言わば世界を終末に迎えることを動機とした動機を白日の下に晒そうとしているのだ! 俺はこのことを調べるため、深見重治が何をネタに脅しをしていたかを探るために久流水家から一時離れたのだ! それは恐るべき真相だった! 神を玉座より失墜させるなんとも恐ろしいものだった!」

 御堂の言葉に当たりは一瞬にして深ッと水を打ったが如く静まり返った。炎が揺らめく。そしてぼおッと一斉に燃え出した。

 御堂はくるりと体を反転させて久流水桐人に向き直った。

「『耳ある者は聽くべし』。神を失墜させるには一言で充分……」

 御堂はそっと髪を掻き揚げて聖堂中に響く声で尋ねた。

「貴方は神ではありませんね」

 桐人が応える。

「ああ、そうだ。俺は神ではない!」



われわれは殉教を完成つまり完全なる愛の業と呼ぶ。なぜならそれは生命の終わりであるからでなく、愛徳の完成を意味する。               

                        クレメンス『ストロマタ』

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