Σ 書を読む legere librum. 1948,5,9(SUN)

曩に有りし者はまた後にあるべし曩に成りし事はまた後に成るべし日の下には新しき者あらざるなり                  傳道之書第一章九節


「御堂ッ、今までどうしていたんだ! 急にいなくなるわ、突然現れて警察から僕を釈放させるわ。ちゃんと僕に説明しろ!」

 岩田はひたすら書物を捲っている御堂に言った。

「そうやって豪そうにしているのも俺の御蔭なのにな。まずは礼を言って欲しいものだけどねェ」

 御堂は振り返る事無く書物に眼を走らせながら応えた。

 御堂は平戸警部から岩田を釈放させると、その足で紫書館に向かった。空は月明りも窺えない程に真ッ暗闇で尋問が丸一日に及んでいたことを思い知らされた。御堂は移動中、無言で紫書館に入るなり、書物を開いて何やら調べ始めていた。館内は真ッ暗で、御堂はあらかじめ手にしていた堤燈の灯を頼りに書物を見開いていた。御堂が開いているのは天体や宇宙に関する書物らしかった。 

「幾ら俺でもこんな山奥の個人邸宅からは一八番の情報収集は困難だ。辛うじて平戸君から警察情報を引き出せるに過ぎない。一時的に久流水家から離れて情報収集する必要があったのだよ」

「僕に一言くらい言って良いだろ。突然何も言わずに去っていくなんて」

 岩田は御堂の応えに気が抜けた。阿見が死んだ以上、対抗馬の役目を依頼されていた御堂は居続ける必要がないと見なして久流水家から去ったと思っていた。しかし実際は事件解決のためだったのかと思われて、拍子抜けした。

「莫迦か? 何でお前に一々断らければならない。お前は俺に勝手に付いてきて勝手に絶望しているだけだ。お前にご丁寧に許可を取る必要がある? それに逃げ出すだと? 俺だって此処まで関わったのだ。見届ける意地くらいはあるさ」

 御堂は相変らず天体に関する書物を片端から探索をしたままの姿勢で岩田の方に振り返らずに言った。

「情報収集って何を調べていたのだ?」

「莫迦か?だから何でお前に言う義理があるのだ。久流水家の人間にしか言う義務はない。それに全く久流水家の情報収集は実に大変だった。蝸牛の奴にも手伝わせることになっちまったからな。それ程に大変だった情報をお前に易々と言って堪るか」

「ちょっと待て。何で情報収集に蝸牛牧師が手伝っている?」

 岩田は御堂の口から出た意外な名前に驚いた。蝸牛牧師――。岩田は久流水家連続殺人事件が教司神父によって御堂に持ち込まれる前に見た牧師の顔を思い出した。隻眼の初老の牧師が何故に御堂の仕事を手伝っているのだ?

 岩田が訊ねると、御堂は手にしていた書物から眼を離した。その表情は闇に隠れてはっきりとは認識出来なかった。

「知らないのか、お前は。蝸牛牧師の、否、千々石の奴は元々俺と同じように大陸で探偵をやっていたのだよ」

 岩田は愕然とした。あの穏やかな笑顔をした蝸牛牧師にそんな過去が在ったなんて。現在の信仰者としての地位と反対の職業ではないか。人を信じると、疑う。ベクトルが全く反対だ。

「木乃伊捕りだって木乃伊になる。鬼畜米英を掲げた威張り腐った軍曹だって派手なシャツを着て占領軍のアメ公にパンパンを紹介する。小市民は自分を棚に上げて社会を批難だってする。別段驚くことじゃあないだろ。人間が移り変わるなんて世の中で最も確かな真理にじゃあないか。この真理が適用されないのは『人間がよく書けている小説』だけだろッ。疑う探偵が信じる求道者になったって驚くことは無い。蝸牛の御蔭で事件解決に近づいた。後は詰めの作業だけだ」

 御堂は事件解決の目途が立ったというのか。一週間に及んだ連続殺人事件に終幕が見えたというのか。 

 御堂は再び書物を開いて堤燈の灯で調べ物を始めた。すると目的の内容が書物に見付かったらしく、一瞬満面に嬉々とした表情を見せて、直ぐに深刻な顔に戻って提灯を床に置くと御堂は床に座り込んだ。座り込むと御堂は支那服の胸元を開けて懐から二冊の手帳や封筒、それに一枚の紙、鉛筆を取り出した。御堂はその内の一枚の紙と鉛筆が用いりらしく、それ以外を再び懐に入れようとしたが、思い直して数冊の手帳と封筒を岩田に投げて遣した。

「お前の日記『神殺しの黄昏』と報告書を読ませて貰った。事件を振り返りたくてお前の荷物を漁らして貰ったよ」

 御堂に言われて投げ渡されたものを見ると、岩田の日記とあの初日に受け取った亜里沙の調査結果の入った封筒があった。しかし投げ渡されたものの中には『神殺しの黄昏』と封筒以外に別の手帳があった。岩田はその手帳には見覚えがなかった。その手帳には題名と、持主の名が書いてあるらしく岩田はそれらを読み上げた。

「カミ著、『やその騎士』? 何だ、これは?」

 岩田が言うと、紙に何やら書いていた御堂が頭を上げて言った。

「莫迦か? カミではない。K .AMI著だ。お前の『神殺しの黄昏』のように阿見もこの事件を記録していたのだよ。中身は人を侮蔑し尽くした内容だったけどね。お前にやるよ。この事件を小説にするときの資料として使えるだろ。侮蔑的な内容のまま発表する事は止した方がいいとけどな」

 阿見も探偵小説家だ。事件の覚書を記していても奇異しくない。けれど『やその騎士』という題名は洒落したものだ。おそらくリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』を捩ったのだろう。阿見が解いた謎――阿紀良が『マリヤ』だったという推理――を踏まえての題名なのだろう。『ばらの騎士』は登場人物オクタヴィアンが女装をするという話だから。

 御堂は再び紙と鉛筆と書籍に格闘し始めていた。何やら書物を元に計算をしていた。その様子は鬼気迫る雰囲気を漂わせていた。長い髪の男が闇の強い図書館の中で黒眼鏡をしたまま、床に蹲って熱心に算術を行っている。岩田はその異様さに声を掛け辛くなり、手持ち無沙汰になった。仕方なく御堂が読んでいたであろう天体の書物を堤燈の灯の元に開いたりして時間を潰していた。

 暫くすると鉛筆と紙の擦れる音が止んだ。音が止むなり御堂が立ち上がった。灯が床に置いたままになっているせいで姿の大半は闇に溶け込んで仕舞っていた。そして、言った。

「来るべき王が天から世に来られる」

 その声は小さく低く、沈んでいた。

「御堂ッ、どうしたんだ? 何か解ったのか?」

 闇から静かに返答がなされた。

「ああ、解ったとも……。所詮は菩薩の掌の孫悟空だとね……」

 岩田は闇に向かって再び言った。

「何を言っているのだ、御堂。すべてが解った?」

 闇に隠れた解決屋はひどく沈んだ声で返した。

「ああ、解ったのさ。事件はこれで解決する。そして……」

 解決屋は静かな声で続けた。声は全ての闇に届く様にも思えた。


「機械仕掛けの神(Deus ex machina)、此処に降り立たん」


すべて、すべて、全てを私は知っている―― すべてが、私には明らかになった。

                  リヒャルト・ワーグナー『神々の黄昏』

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