Κ 良き綺想 buon concetto 1948,5,5(WED)

Ⅰ賽は投げられた jacta est alea.


神よ            武者小路実篤


自分の力を出し切つた時

神に祈る

私の力はこれきりです。

後はあなたにお任せします。

神よ。

                         

 『運命がカードを混ぜ、われわれが勝負をする』と言った哲学者は誰だったか? 運命はしばしば賭博に喩えられる。たとえどんなに好調のゲームであっても、たった一枚のカードの分配や一回の賽の目の数によって、それがすべて無効になる。逆にどんなに不調な局面でも、一枚のカードで一気に好調に転ずることもある。配られたカードのみで勝敗が決まることはない。人類はそのような賭博の不確定性、流転性に人生の不確かさを重ね合わせてきたのだろう。だが気を付けろ、最も賭博で得をしているのはプレイヤーではなく、胴元であることを。その胴元の姿を知らぬままにプレイヤーはゲームをする。胴元はどこにいる?

 数本の燭台の灯のみで地下聖堂は辛うじて明るさを保っていた。地上は白昼にもかかわらず、地下聖堂には闇が広がっていた。久流水桐人は幼さの残る寝顔に老人の頭髪をして、ただ眠っていた。

雄人氏、教司神父と亡くなったせいで暫く毎日のミサなどの活動は自粛せざる終えなくなっていた。

 ここに来てどれ程の時間が経っているのだろうか。阿見光治は手元の七枚の手札で遊びながら小さく哂った。阿見は丸卓子を囲んでいる者たちを観た。桐人を処女のままで産んだマリヤは自分の元にある手札を顔色変えずに、じッと見詰めていた。三〇路をとうに過ぎたにもかかわらず、マリヤの顔は幼さと無知を残していた。ミケランジェロは枢機卿から自作のピエタの聖母マリヤがイエスより見た目を若という指摘に対して、『罪人は老いるが、聖なる者は衰えることがない』と応えたという。目の前のマリヤも年の割には衰えがなかった。

 丸卓子を囲んでいるもう一人の男である阿紀良は、先程から眉間に皴を寄せて手札を睨み付けていた。

 丸卓子の上にはトランプの外にも、チェスや、タロット、ロイヤル・ゲーム・オブ・ウル等が乱雑と置かれていた。卓子を囲んで阿見光治と久流水マリヤ、久流水阿紀良はツー・テン・ジャックをしていた。現在の切り札はクローバー。阿見の手札にはスペードのA、2、5、10、J、Qにハートの3があった。阿見はゲームの終結を前にして話をきり出そうとした。

「人生をゲームに喩えることはよくありますネ。ゲームは面白い。プレイヤーはそれぞれの知力を結して勝利を願う。だがすべてのプレイヤーが勝者になることはない。敗者は勝敗を決した後にいうでしょう。『運が無かった』と。しかし、そのゲームを振り返ると運ではすませることができないような伽藍で構築されていますネ。そこで敗者は言う。『運命の女神フォルトゥーナのせいさ』と。けれどよく観てみなさい。堅牢そうな伽藍が実はあまりにも脆い創造であったことを。プレイヤーの愚かしい選択の積み重ねであったことを。伽藍の枠組みが元々人間の造ったルールであることを。人は己の愚かしい選択を覆わんがため、愚かしさ自体に人格のようなものを持たせて自身の人格より乖離させる。なんだかよくわからない。それが神なのかと。

 しかし不思議ですね、久流水家の方々は死を悲しんでいない。誰も彼も皆悲しみを忘れているようだ。貴女は良人も実の弟もお亡くなりになっているのにもかかわらず、一切の悲しみが見受けられない。何故、貴女は悲しんでいないのですか?運命の女神フォルトゥーナですか」

 マリヤは黙って山から札を取った。

「確かに妾は悲しんでいないように見えるかもしれませんね。妾が悲しまない理由はツー・テン・ジャックのルールと同じです。ツー・テン・ジャックは手持ちのカードの合計点を競うゲームですね。ツー・テン・ジャックには切り札の2、10、Jはプラス一〇点、スペードの2、10、Jはマイナス一〇点といった具合に点数のついたカードがありますね。プレイヤーはプラスの札をできるだけ集めることで勝利を目指すゲームですわね。ですが、このゲームには特殊なルールがあります。一人のプレイヤーが全部のプラスの札を集めてしまうと、今までプラスの札が一気にマイナスのカ札に反転して、マイナスの札のスペードのA、2、5、10、J、Q、Kを集めるとそれらはプラスのカードに転じます。それと同じですわ。妾達はマイナスカードを何枚も手札に持っている。ですがマイナスカードがすべて集まれば、マイナスはプラスに反転する。マイナスであることを悲しむ理由が何処にありますか。やがてプラスになるのです。妾は良人と弟を亡くしましたわ。けれどもそれを気に病むことがありましょうか」

 マリヤの話を聴くと阿見は言った。

「あはは、死すらも消し去ってしまう。果たしてそれが人間のあるべき姿なのかね」

 ずっと黙って聴いていた阿紀良が山からカードを取りながら言った。

「人間は最も脆弱ですよ、世界中のどんな創造物の中でも……」

 阿見は酷く緩慢に続いたゲームの終結を臨み、カードを山から一枚取った。

「人間は最も万能ですよ、世界中のどんな創造物の中でも……」

 阿見は山から取ったカードを見た。そして哂った。

「あはは、あはは」

 阿見が哂い出すと、哂い声に重なるようにもう一つの嘲笑が聴こえて来た。

「あはは、あはは」

阿見はその重なる哂い声に気が付くと、ぴたりッと声を已めてその哂い声の聴こえる方に顔を向けた。マリヤ、阿紀良も阿見はその方へ向き直った。その声の主は天蓋の中にあった。久流水桐人だった。桐人はいつの間にか目を覚まして、寝台にちょこんと座っていた。真っ白な髪が桐人の瞳に覆い被さっていた。覆い被さった髪の奥に焦点は定まっていないが、どこかしら畏怖の念を生じさせる瞳があった。それは湖。透き通っているが、奥に、奥に覗き込むほど深い群青をしている湖の様にその瞳は深かった。

 阿紀良は桐人の変事に慌てて天蓋に駆け寄った。

「桐人様、どうなされました?」

 阿紀良が尋ねると、桐人は阿紀良を一瞥したが、直ぐに視線を逸らして、低く響くような声で言った。

「汝らエルサレムが軍勢に圍まるるを見ば、其の亡近づけりとしれ。その時ユダヤに居る者どもは山に遁れよ、都の中にをる者どもは出でよ、田舎にをる者どもは都に入るな。これ綠されたる凡ての事の遂げらるべき刑罰の日なり。その日には孕りたる者と、乳を哺まする者とは禍害なるかな。地に大なる艱難ありて、御怒この民に臨み、彼らは剣の刃に斃れ、又は捕はれて諸國に曳かれん。而してエルサレムは異邦人の時滿つるまで、異邦人に蹂躙れるべし」



Ⅱ三位一体の神話 Sancta Trinitas


これらの事を命ずるは、汝らの互に相愛せん爲なり。 

                      ヨハネ傳福音書第一五章一七節


 おぞましい遺体を見たせいか、一晩眠らなかったせいか、岩田は昂ぶる神経を治めるために寝台には潜らずに外を逍遥していた。蹌踉として黄水館を出て、足は聖堂に向かっていた。

 翼を持った女の体に老人の緑色に腐った頭。飛び出た舌の青紫のぬらりとした輝き。それを囲む禍々しき怪物達の饗宴。薄気味の悪さが岩田の全身を襲い続けていた。犯人は何の悪趣味か、腐乱死体を御神体にしたのか。薄暗い闇夜で見たあの重治の腐敗した顔が岩田の脳髄に明滅していた。交感神経と副交感神経は均衡を失い、岩田に虚脱感と昂揚感を与えた。混濁した意識は岩田に癒しの聖母、久流水マリヤに身を委ねようとさせていた。

 男と女が昼間に会うのは目立ちすぎる。彼女が本性を表わすのは闇夜に沈んだ刹那の夜だけであるのは解かり切っていた。しか岩田の神経は夜の安寧の時まで待てそうにはなかった。疲弊した神経は砂漠に蜃気楼を幻影し始めていた。マリヤの懐で眠りたい……。

 橙色の十字架を頂点に配した十字架型の大聖堂の前に屹立していた。岩田は一角獣を意匠した重厚な扉を押して堂内へ入った。コツコツと乾いた足音が聖堂内に響いた。岩田は死と再生の迷宮図の描かれた床を歩んでいった。マリヤが桐人と共に地下聖堂にいることは知っていた。桐人のいる地下聖堂に入ることは母親としての久流水マリヤを見ることになるのか。

 マリヤ。マリヤよ。僕の胸中の蟲を摘み出してくれ。その柔らかな微笑と、澄んでいても底を覗くほど深淵を増す紺青の湖のような瞳をもってこの蟲を消滅させてくれ。

 岩田は金の十字架の祭壇ととロザリオ一五玄義図の前に佇立した。その下には例のレプロブスの石盤があった。ここを開けばマリヤに会える。癒しの聖母マリヤに。同時に無原罪の神の子久流水桐人に会ってしまう。桐人に面会するのは望まぬが、そうせねば久流水マリヤに会えない。岩田は意を結して石盤に手を掛けて開けようとした。

 だがレプロブスの扉は岩田が手を掛けることなくして、ぽっかりと四角の闇を覗かせた。レプロブスの扉は岩田が開ける前に内側より開けられたのだ。四角く区切られた暗闇から出てきたのは久流水桐人よりも望ましくない人物だった。阿見光治、岩田の感心しない男の姿だった。

「オヤッ、これは小猿の岩田梅吉君じゃあないですか」

 阿見はそう言いながら、聖堂の床を踏んだ。阿見の後に続いて現われたのは、岩田の聖女、久流水マリヤの姿が現われた。

 なぜ阿見はマリヤのところにいる? マリヤと阿見は何をしていた? 岩田の困憊した神経は眼前の二人の男女に嫉妬を沸き上がらせていた。聖母マリヤ、僕のマリヤよ、何故僕の最も厄介な男と一緒にいる?

 圓華窓の一二枚の硝子からの複色の浄光が岩田と男と男女を取り囲んでいた。

「小猿君、御主人様なくしての単独捜査かい? 君はまったく愚鈍だねェ、僕は気になったことをマリヤさんや、阿紀良氏、桐人君から訊き出したよ。御堂君に言いたまえ、僕が一歩先んじていることを。ああ、マリヤさん。見送り有難う御座いました。ここで結構ですよ」

 岩田はほっと胸を撫で下ろすとともに自分の粗忽さを恥じた。マリヤの阿見の言葉にこくりと頷くのを確認すると、阿見は扉に向かって歩みを進めた。

「精々頑張り給え、岩田君」

 阿見は聖堂の扉の外に出て行った。

 後には俯いたままの聖母マリヤと貧粗な男の二人きりになった。沖天を過ぎた重く熱い空気が二人を取り巻いていた。お互い暫く無言で佇んでいたが、岩田の疲れ切った神経はマリヤに話し掛けた。

「どうしても貴女に会いたくて」

 岩田が言うと、マリヤは視線を向けて静かに応えた。

「外部の方が巻き込まれるようなことになってしまって申し訳ありません」

「申し訳ないなんて。僕は自ら進んでこの久流水家の事件に踏み込んだのです。それに事件に巻き込まれたからこそこうして貴女に出会えたのです。真ッ黒な絶望の淵に愛という純白の華を見出したのです。罪に縛られた五體は貴女の愛によって解き放たれた」

 岩田の声は知らずの内に大きくなっていた。声は聖堂に響き渡り、上部壁を埋めていた硝子が揺れたような気がした。祭壇に設えた金の十字架は硝子よりの数条の光を反射して、岩田の眼を眩ませた。

 マリヤは暫く間を置いて口を静かに開いた。

「罪を救う愛? 貴方の仰る愛はどの愛ですか?」

 岩田にはマリヤの言う意味が解からなかった。 岩田の困惑を察したのか、深く呼吸をした。

「直弓が罪がSinとCrimeとTransgressionの三つがあると言ったそうですね。では同様に愛も3つあることは御存知ですか?」

「いいえ、初めて聞きました」

 罪と同じく愛にも複数の構造をなしているのか。『貴方は自分のことしか考えていらっしゃらないのね』という言葉が不意に浮かんできた。何かが沸々と心底から湧き上がった、この愛はなんだろうと

 岩田が沈思黙考していると、マリヤは静かに歩み出て岩田の横を通り過ぎて聖堂の中央に立って、改めて岩田の方に振り返った。岩田を見詰めるその斜視掛かった瞳は潤み、すべてを呑み込まんとする深遠さがあった。その瞳は神秘的でもあり、恐ろしくもあった。マリヤは岩田を暫し見詰めた後、口を開いた。

「愛も罪と同じように希臘語の複数の愛に見合う訳語が『愛』一つしかなかったことによる始まったものです。人類と神を一体とさせる愛という感情、概念、普遍法則は複数に種類訳ができるのです。希臘語には『愛』を複数の言葉によって使い分けられてます。自己犠牲的、普遍的な愛であるAgape、友情の様な愛であるPhilia、本能的愛のEros、遊戯的愛のLudus、狂信的愛のMania、実利的愛のPragma、肉親への愛Storgeなどがあります。これをAgape、Eros、Ludus、Mania、Storge、Pragmaといった六つに分けたり、人間学的にAgape、Eros、Philia、Stogreの四つに分けたりする場合もあります。ですが一般的な分け方は、古典希臘語の概念に従い、且つ基督教の主題として適した分け方は、Eros、Philia、Agapeの三つへの分類と言われています。おそらくManiaとLudusとPragmaはErosに収斂され、StorgeはPhiliaに収束したのでしょう。三つの中で基督教が重きを置いているのはAgapeです。神への愛。普遍の愛、そして隣人愛を指します。Eros、Philia、Agape……」

 マリヤはそこまで言うと、岩田を穢れなき瞳で見詰めた。その瞳は慈愛に溢れて、すべてを包み込まんとしていた。

「Agape……。Philia……。Eros……。愛……」

 岩田は三つの愛を小さく口ずさんだ。暫しの間の後、マリヤは再び口を開いた。

「『創世記』ではアダムとエバが善悪の実を食したことによって、人間の罪が始まったとされています。蛇に、『失楽園』ではサタンに唆されたとはいえ、人間は自ら進んで罪を負いました。妾は思うのです。神は絶対者で万能。万能にも拘らずに何故か、人間に裏切られて善悪の実を食べられてしまう。神は絶対ながら裏切られる。神は愛の尊さを人類に教えるために罪を背負わせたのでないのかと。アダムとエバが善悪の実を食べたのは神の掌中にあったのではないのか、と。絶対たる愛を知るために敢えて罪を先に創ったのではないか、と」

 マリヤの言葉が岩田の胸中に重く響いた。愛を育ませるために罪を負わされた。神が罪を負わせた? ならば……。

「ちょっと待って下さい。そうしたら僕たちは、人間は……」

 岩田は眼を伏せたままのマリヤに向かって言葉を発した。マリヤの周りは硝子色の空気に包まれていた。岩田はその硝子色に眼が眩みながらも……。

「人間は?」

「人間の愛は、僕の愛は、僕のものではなくなってしまう」

 「僕の愛? 愛は個人の掌中にあるものなのですか?」

 圓華窓の混色が二人を照らしていた。色硝子が二人を包み込んだ。赤、青、紫、白。目まぐるしく変化していった。 

「貴方の愛とは何ですか?」

 圓華窓の光泉は二人を一瞬、無色に染め上げていた。それは次第に混沌とした色に変化していった――。


イエス言ひ給ふ『「なんぢ心を盡し、精神を盡し、思を盡して主なる汝の神を愛すべし」これは大にして第一の誡命なり。第二もまた之にひとし「おのれの如くなんぢの隣を愛すべし」律法全體と預言者とは此の二つの誡命に據るなり』

                   マタイ傳福音書第二二章三七―四〇節



Ⅲ神との関係 god sibb


人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべきばなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。

                       マタイ傳福音書第六章二四節


 気鬱だ。マリヤよ、どうして僕に素っ気ない? 僕と君の間にあったのは愛だったのだろ。どうして僕に愛をくれない。

 岩田がマリヤの何処かしら素っ気ない返答に呆然と立ち尽くしていると、マリヤはそっと岩田に会釈いて地下聖堂に去った。ぽっかりと区切られた真ッ黒な空洞の中に。

 岩田は高く伸びるゴチックの天井を暫し見上げると、肩を落として項垂れて、乾いた足音を立てた後、聖堂の重い扉を押した。外には黄昏れた空が広がっていた。

 落胆を負ったままに御堂のいる部屋に帰れそうにはなかった。あの何でも見透かしたような冷笑的な顔と対面するには自分の心はあまりにも脆くなり過ぎていた。きっと御堂はシニカルに哂うに違いない。硝子細工の人形にそっと力を入れて粉々に砕くだろう。その硝子の破片は綺羅綺羅と輝きはしないだろう。重力に任せて地面に落下する。

 岩田は重い足取りのまま、南に逍遥を始めた。右に黄水館を眺めて進み、左に時計台を見つけたときだった。  

「あら、岩田さん」

 声の主は清枝だった。清枝は時計台の扉から出てくるなり、岩田に話しかけた。岩田は気が進まなかったが、無碍に相手をしないわけにもいかずに返答した。

「ああ、清枝さん。ちょっと散歩のようなものです」

 岩田は自分に触れられるのを避けるために話を清枝に向けた。清枝は太り肉に人の良さそうな笑顔を見せていたが、その笑顔は岩田の言葉によって途切れた。

 そういえば清枝は直弓と共に教司神父殺人の際に写字室への犯人を目撃しなかったという証言をしていた。それによって神父殺人事件は密室ならぬ密室を生み出し、同時に皆が嘘を付かないという前提によってのみ、犯人が割り出せるという奇異しな現象が生じてしまった。だが御堂のこのような理屈はあくまでも砂上の城の如く脆いものである。嘘を絶対に付かなかったという前提は極めて脆い。直弓と清枝が揃って嘘を付いていれば密室は崩れる。岩田は清枝に対してあの証言を確認してみようと思った。

「清枝さん、刑事さんから何度も聞かれたとは思いますが、あのとき本当に犯人らしき人物を見ていないのですね」

「ええ、間違いありません。見ていません。妾は久流水家の人間でなくても耶蘇久流水教を信じる者です。モーセの十戒の『汝その隣人に對して虚妄の證據をたつるなかれ』を破戒する様なことはしません」

 清枝は岩田の問いに応えた。

「僕のような他所者にしてみればやはり嘘を付かないというのは感覚として理解しにくかったもので、不快にさせたならば謝ります。ですが久流水教の方たちは皆さん敬虔ですね。そういえば貴女は村の人間ではありませんよね。なのに貴女はどうして信者となったのですか?」

 死陰谷村は久流水姓と益田姓の二つのみだったはずだ。だが清枝の姓名は大浦清枝であり、姓から清枝は生来からの死陰谷村の人間ではないと窺える。しかも益田老人と籍を入れていないことから、穂邑のように政治的理由があったとは考えにくい。ならばこの中年の女性は何故にして耶蘇久流水教にいるのか。岩田はずっとそのことが気に掛かっていた。

「妾が村の人間でもないのに久流水家にいるのか。よく村の人に陰口を叩かれているのですけどね。『余所者がまんまと久流水家に取り入ったものだ』やら、『誑し込んだ』やら……。ですけれどね、岩田さん妾は本当に敬虔な気持ちで久流水教を信じているのです。先代の久流水哲幹様を本当に慕って久流水家に使えているのです」

「久流水哲幹。貴女が仕えているのは益田老人ではないのですか?」

 岩田は聊か驚いた清枝は益田老人の愛人のはずである。益田老人に見初められて久流水家にいるものと思い込んでいた。けれども哲幹を慕ったことが切っ掛けだったいう。

「確かに旦那さんもお慕い申し上げています。それも哲幹様があってのことです。妾は元々哲幹様を愛した女なのです」

 清枝は哲幹の愛人だったということか。益田老人はその愛が編曲した末のということなのだろうか。

 岩田が唖然としていると、清枝は哲幹との来歴を話し始めた。

「妾は寒く貧困な農村に生まれました。破瓜期を迎えてまもなくです。村に大飢饉が訪れました。妾は口減らしとして男に売られました。可愛い弟や妹のために妾は白粉臭い町で働くことになりました。そして妾は肉鍋を売っていたからなのですよ。妾は下品な男の間を縫って生きていきました。男達が悠々と落として行った僅少な金を雪降る故郷に送るために妾は辛酸を舐め続けました。金、金、金……。金さえあればこの苦汁の日々から逃れられるのに、金さえあれば下品な男達に侮蔑されないのに。妾は己が貧村に生まれたことを呪い、妾の腹の上で眠る男達を呪いました。金さえあれば……。

 愛の街外れの仕事に慣れて暫くしたときです。妾はある学生さんの相手をしました。その学生は妾とそう歳の変わらない、どこかの裕福な家の跡取りらしく、湯水の如く花街にお金を落としていました。同じ年嵩なのにこうも生きる世界が違うのだろう。一方は裕福で学もある。妾は学でいつも金を羨む。妾は天を怨みましたわ。私がお相手していると、その学生は御猪口をクイッと傾けながら妾に言いました。『君ィ、そんなにお金が欲しいのかい? だったら僕にお金を預けてみないかい。倍にしてやるよ。今度、僕がここに来るときまでに金を用意しておきなさい』と。妾は学生の嘲笑したゆな態度に腹を立てましたが、同時にこれはいい機会かもしれないとも思ったのです。その学生の口振りがとても自信ありげに見えたからです。今にして思えば妾はなんと世間知らずだったのでしょうね。妾は次に学生さんが来たら、貶しの金を預けようと考えました。

 そんなときです。哲幹様のお座敷に上げてもらうことになりました。哲幹様は他の花街に来る男達とは違い、そこはかとなく品をある方でした。妾が哲幹様にお酌をすると、哲幹様は低く響く声で私に言いました。

「『人の誘はるるは己の慾に引かれて惑さるるなり』。『貴き御名にかけてむなしき誓ひしべからず』だよ。身を焦がすなよ」

妾は哲幹様に学生さんのことなんて言っていません。どきりッとはしましたが、その言葉を真に受けずに聞き流しました。それに天を怨んでいる妾にはそんな預言なんてものは信じる気にはなりませんでした。ですが程なくして哲幹様の言葉を信じざるを得なくなったのです。妾は哲幹様の忠告を無視して学生に金を預けました。あはは、もうお解かりでしょう。そうです。学生は二度と妾の前に現れませんでした。哲幹様のいう通りだったのです。妾はすべての財産を失うことになりました。妾は絶望の淵に立つとともに、それを預言した哲幹様に強く引かれていきました。哲幹様こそ私の信じる人。哲幹様こそすべて。

 気が付いたら、死陰谷村に入っていました。

 程なくして月経が止まりました。妾は哲幹様の子を産む喜びと同時に不安を抱えるようになりました。マリヤ様に相談してみても『月経? 何ですか、それは? 妾には初潮すらありませんでしたから良く判りませんわ』と大きく膨らませた腹を撫でながら、処女性を保ったまま仰る調子ですし、妾は哲幹様の子を生むことの重圧に耐えねばならなかったのです。

 ですが、その重圧に耐えることなど無意味になりました。流産したのです。二度と子を産めぬ体になってしまったのです。子が産めなくなった女が哲幹様の側にいるのは申し訳ない。哲幹様は『石婦、兒産まぬ腹、の哺ませぬ乳は幸福なり』と仰いましたが、哲幹様に申し訳なくて、妾は哲幹様の側から離れました。久流水家のために年老いた旦那さんに仕えることにしたのです。妾が旦那さんにお仕え申し上げているのは哲幹様を愛したが故にです」

 大浦清枝はホウッと息を吐き出した。先程と変わらぬ莞爾とした微笑を湛えていた。笑みを絶やさぬ清枝にも複雑な過去がある。岩田は清枝の話を聞き、呆然となった。同時に岩田は久流水哲幹の預言者としての力に恐れを抱いた。久流水哲幹、彼は何者だったのだろう。彼は何でも見通せていたのだろうか。ならば、哲幹はその死後において起こっている陰惨な久流水家殺人事件を見通せていたのだろうか。


されど預言する者は人に語りてその德を建て、勤をなし、慰安を與ふるなり。

                    コリント人への前の書第一四章三節



Ⅳ神を称えよ Theophilus


この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。

                       マタイ傳福音書第六章三四節


 空には片鱗を僅かだけ輝かせた月が浮かんでいた。数日後の日蝕に向けて月は新月に近付いていた。目の前に広がる地は死者がひっそりと息を潜めている。

「『わが欲する所の善は之をなさず反つて欲せぬ所の惡は之をなすなり』と『ロマ書』にも書かれています。そんなに自分を責めることはありません」

 マリヤは優しい声で岩田を慰めた。聖母の声は岩田の全ての悲哀を包み込んだ。岩田は昼間のマリヤの言葉を受けて亜里沙への愛について考え悩んでいた。亜里沙への愛は僕にとって何だったのだろうかと。過去のそれを認識することで目の前にいるマリヤへの今の愛とは何か判るような気がしていた。

「僕がやはり悪かったですよ。僕は我が儘だった。まだ探偵小説家として駆け出しの頃だ。二〇歳を越えたばかりの若手作家が妻帯することは無謀だったのだ。『貧乏が戸口から入ってくると愛は窓から逃げ出す』。僕はちっとも上手くいかない仕事の苛立ちを亜里沙に八つ当たりした。汚い言葉で罵り、ときには酒の酔いの所為にして暴力さえ振るった。亜里沙はそんな僕の愚挙をただ黙って耐え続けていたよ。僕は何も言わず抵抗しない亜里沙に益々腹が立って更に酷く打った。僕は甘えていたのですよ。幼子が母に泣きじゃくるように。あの頃を思うと僕は辛くなる。現在という時が過去の延長線上にあることが疎ましいと思う。現在というやつは過去の延長線上にあって、それは不可逆なものだ。やり直したくともやり直させてはくれない。それは時間という縦軸の観念だけじゃあない。横軸の世間というヤツが遣り直しをさせない。僕はすべてを遣り直したいけれど僕は相変わらず売れない探偵小説家のままだ。じゃあ僕が探偵小説家を辞めてしまえばいいのか、そうじゃあない。僕は探偵小説家を辞めることはできない。否、辞めさせて貰えないんだ! 世間は探偵小説家以外の僕を受け入れてくれないんだ! 僕は嫌で嫌で仕様がないのに」

 岩田は心情をやや熱っぽく吐露した。昨日とは違って小さな灯りが墓場の二人を照らしていた。マリヤの桜桃の飾りの付いた堤燈が二人を静かに照らしていた。マリヤは黙って耳を傾けると柔らかな声で言った。

「ねぇ、こんなこと考えたことありません? 此処にいる自分は本当の自分でなくて本当はこの現実は夢の世界で、本来の自分は何処か別の世界にいる、と」

「つも思っていますよ、今の世界は僕のいるべき所でない、と」

 闇は二人を取り囲もうとするが僅かな灯りが抵抗した。灯りはマリヤの顔を妖しく純潔に無垢に照らす。マリヤは自分と同じ年頃だ。何故こんなに少女に見える? 桐人を処女で生んだときよりずっと男を知らぬのか? 未だに処女なのか。マリヤはそっと言葉を次いだ。

「アインシュタインの相対性理論がどうやって実証されたか知っています? 一九一九年の阿蘭陀の物理学者ド・ジッターの提唱をエディントンが皆既日蝕の際に観測をして、その一部を証明したそうです。二九年前の日蝕による証明なんてロマンがありますわね。その相対性理論と双肩にあるのが量子論」

「原子の位置と速度を同時に記録出できないというアレですか」

「そう、不確定性原理。原始の位置を確定するには先ず光で照らさなければ顕微鏡でその位置を測定しなければならない。けれど光を照らすことはエネルギーを与えることになるのですから、原子の運動状態、速度を変えることになってしまう。位置を図ろうとすると結局速度が判らなくなる。ならば速度を量ろうとすれば、その位置がぼやけてしまう。ただ其処にあるであろうという確率性しか残らない」

「原子が確率的ならば、原子で構成される我々の世界も確率的でしかない。先程言った別の世界も確率的にあり得ると? よく空想科学小説で見かける平行世界の事を言わんとしているのですか?」

「そうではありませんわ。不確定というのは、妾達が観測できないだけであって、そのために確率性でしか物を見ることができないだけです。本当にそんな平行世界があったらどうしますの。別の世界には別の私がいるなんて。返って人間自身の自己同一性を失わせることになりますわ。確定された未来を約束するラプラスの悪魔を否定しようと懸命になって、人間の行為があらかじめ決まっているという宿命を否定しようとして、人間は文明科学を発展させた。それ故に不確定性原理が誕生した時に人類は快哉を挙げた。でも不確定だと判ると今度は忽ち浮遊した蓮の不安を嘆く。妾達が欲しいのは、確定した未来なのでしょうか。確定しない現実なのでしょうか。確定も不確定も都合よく創り上げる過去なのでしょうか」

 都合よく創り上げる過去。岩田は亜里沙を思い出した。

あれは亜里沙が出ていて一週間ほど経った頃だった。岩田が空虚を抱えて酒に溺れて街を彷徨っていた時だった。色街の女の白粉の薫り、濁った眼の初老の汗、夜を彷徨う家無き少年。岩田の馴染んだ世界は爛れていた。同じく岩田の心も身も爛れていた。岩田は幾人もの男に抱かれて体の線を崩した女と一時を過ごした後、堕ち逝くことに喜びすら感じて夜の街を歩いていた。冬の冷たい風、乾いた足音、華美たネオン。世界が閉じ始めていた。

 岩田は定まらぬ足取りで雑踏を進んでいった。何故世の中はこうも上手くいかない。岩田の顔にはそんな事が明らかに窺えたと思う。人々はそんな岩田を様々な眼で見ていた。好機の眼、蔑んだ眼、哀れんだ眼、岩田と同じ眼……。どう見られようともう慣れている。好きな様に見るがいいさ。

 岩田が雑踏をぼんやりと彷徨っていた時だった。岩田の視界の端に懐かしい顔が飛び込んできた。亜里沙! 岩田の目の端に飛び込んできたのは亜里沙の顔だった! 岩田と一緒にいた時には見せなかった笑顔していた。それは本当に心の底からの笑みだった。声を立てて生き生きと笑っていた。岩田と一緒にいた時も確かに笑っていた。無上のものではあったが、生気のない笑いだった。別れた時に掛けていた紫水晶の十字架はもう亜里沙の首にはなかった。

 亜里沙の隣には背の高い男がいた。亜里沙は別の男の許に走っていた。岩田梅吉を捨てて……。亜里沙に生きた笑顔を与えた男。死んだ笑いしか与えられなかった自分。すべてが空しくなった。

「岩田さん、私たちの新世界はどこでしょうね?」

 岩田が過去から現実に引き戻された先には柔らかなマリヤの顔があった。

「一緒に行きませんか、新たな世界に」

「冗談なら止して下さい」

「いいえ、本気です」

 灯が闇夜に揺れた。目睫の世界を揺らせた。その揺らめきは、世界を不安定なものにしていた。

「ありがとう……。言葉だけでも受け取っておきます」

 ぽうッと燃えた灯が、マリヤの悲しげな顔を浮かばせた。マリヤは悲しげな顔を歪ませて言った。

「神が貴方をお守りしますように」

「また貴女にも、貴女の僕です」


傳道者言く空の空 空の空なる哉 都て空なり      傳道之書第一章二節

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