Ι 「藝術」は長く「時」は短い Sisyphos 1948,5,5(WED)
Ⅰ尨犬 Mephistopheles
そらごらんなさい、何ともない犬でございます。
悪魔なんぞは何処にもおりません。
うなったり、怪訝そうにしたり、
腹ばいになったり、尾をふったりしています。
犬の習性そのままではありませんか。
ゲーテ『ファウスト』
夜の闇は益々深まり、いつの間にかに月明かりも消えた。辺りにあるのは闇、闇、闇。闇がすべてを包み込んだ。夜気は相変わらず重苦しい。岩田の肌に夜の闇が張り付いた。それとも自分が闇に張り付いているのか……。
岩田はマリヤと別れた後も夜の闇の髑髏の丘で暫くぼんやりとしていた。岩田の中には幾つもの想念がこの闇のように渦巻いていた。
亜里沙の悲しみ、事件の狂気、マリヤの安寧、運命の悪戯。岩田は渦巻く想念の全体を見ることができずに苛立っていた。自分もこの久流水家の事件に欠片として関わっている。もっと何か役割を担っているのではいか。抗い難い運命が自分を取巻いている。
岩田が漠然とした渦に思いを廻らせていると、岩田の視界にチラリと小さな灯のようなものが入ってきた。岩田は想念の遊弋から覚めると、光の方向に眼を凝らした。
ちょうど髑髏の丘の白の十字架と北西に見える聖堂を結んだ直線の延長線上に目的の光が窺えた。光はちらちらと瞬き、時折その位置を変えていた。その光が聖堂と丘の間に小さな建物から発せられている。
ああ、判った。その建物に誰かいるのか。その人は闇が深まってもそこで小さな灯りの下で何かを目論んでいるのだ。岩田はその人物が何者か気になり、光の方向へ向かっていった。光の漏れる所に行ってみると小さな白色の石造りの建物があった。暗闇ではっきりと見えなかったが外壁一面に様々な怪物の浮き彫り装飾がなされている様であった。バジリスク、リヴァイサン……。この世のものならぬ生物が月光も射さぬ闇の中で生命の息吹を持ったように清冽していた。何とも不気味だった。光は窓から漏れていたものらしく、その光は窓下の地面に桟で十字の影を作っていた。岩田は聊かの薄気味悪さを覚えながら扉の前に立った。扉には七支燭台を模った銀の飾りが嵌められていた。鍵は掛かっておらず、岩田がそっと扉を押すと難なく開いた。
扉を開くと廊下が真っ直ぐに延びており、ぼんやりだが内壁にも外壁同様に薄気味の悪い装飾がなされていることが窺われた。内壁には孔雀にペリカン、山羊などの剥製が左右の壁に飾られていた。廊下の突当りには草原の獅子の絵が掛けられていた。突当りの左右にはそれぞれ扉があり、光は右側から漏れていた。岩田が扉に近づくと中から、硬質ななにかを叩く様な音が聞こえた。
かんッ、かんッ、かかんッ。
岩田が僅かに細く扉を開けると、燭台の灯りに照らされた男の姿があった。男は扉に背を向けているため、顔を窺い知ることはできないが、蚤と槌を持って、石を削り起こしているようだった。男は上下カーキ色のつなぎを着込んで、頭には手拭を巻いていた。
かんッ、かんッ、かかんッ。
男の周りには様々な大理石像があった。羽を持つ少年の裸体像から均整の取れた肉体美の弓引き、鎧兜を身に付けた女子等が見えた。それらはギリシア神話の神々だった。
かんッ、かんッ、かかんッ。
男は時折り手を休め額の汗を拭った。何度目かの小休止の時に男が間延びをした。男の顔が一瞬、こちらを向いた。
その顔は穂邑でだった。穂邑の職業は彫刻家だったはず。岩田は昼間見ていた喪服を洒落て着ていたあの久流水穂邑と目の前にいる作業着で額に汗している男が結び付かなかった。男の正体が藝術家穂邑であることに気付いて直ぐだった。
「誰だ、そこにいるのは!」
穂邑が突然扉の方に向かって大声で怒鳴った。岩田の気配に気付いたらしい。
穂邑は眉間に皴を寄せて扉を睨み付けていた。岩田は観念して穂邑の様子を見て大人しく部屋の中へ入ると扉をそっと閉めた。岩田は部屋に入るなり素直に非礼を謝った。
「すみません、穂邑さん」
穂邑は岩田の姿を確認すると険しい表情をやや緩めて皮肉混じりに言った。
「探偵小説家という人種は、覗き見もするのか?」
「ただ余りにも鬼気迫った様子だったので、声を掛け難くて……」
岩田がそう言うと、穂邑は鼻で哂って息をふうッと吐くと続けた。
「まあいい。休憩しようと思っていたところだ。突っ立てないでこちらに来い」
岩田は言われるままに部屋に入り、今まで穂邑が刻印していた彫刻を見た。
穂邑が製作しているのは大理石のピエタであった。ピエタはほぼ完成しており表面の大理石は滑らかに現実の皮膚感を再現しようとしていた。
だが岩田が最も驚いたのは穂邑の腕の達者ではない。その聖母マリヤの顔こそが先程別れたばかりの久流水マリヤの顔だった。 あの柔らかな波打った髪、柔らかな皮膚がすべて再現されていた。先程まで語り合った顔がそこにあった。聖母像が抱くイエスも桐人がモデルになっているのだろう。イエスの両手や肋骨には今まで彫っていたであろう聖痕が刻まれていた。
「聖痕を彫り忘れていてね、今まで聖痕を彫っていたのさ」
いつの間にか穂邑の手には大きく『S』と描かれた洋酒の瓶が握られて、先程まで巻かれていた手拭も取去らわれていた。穂邑は酒瓶に口付けると三分の一ほどを一気に飲み干した。昼間とは違い、穂邑の眼は眼窩に落ち窪み炯炯と輝いていた。全身からも疲弊の色が窺え、動きも緩慢になっていた。穂邑は焦点の定まらぬ眼で岩田をじっと見ていたが、口角をキュッと上げて訊ねた。
「なあ、どう思う? このピエタ、美しいと思うか?」
「ええ、聖母はまさにマリヤさんの生き写しですね。」
岩田の返答に穂邑は鼻で哂って、再び酒を口にした。
「なあ、この酒のことを知っているか?」
穂邑は話題を変えて岩田に聞いた。岩田の洋酒に対しての造詣はなかった。炭酸ガスが噴出していることからシャンパンであることは想像が付くが、銘柄などは判るはずがない。岩田が返答に窮していると穂邑はそれを見越したかのように岩田の答えを待たずに話を続けた。
「これは『SALON』というヴィンテージシャンパンだ。普通、シャンパンというやつはアサンブラージュして(複数の年の葡萄を混ぜて)作られるが、こいつは特別にできの良かった年の葡萄のみを使って作られるシャンパンだ。完璧な物しか世の中に出荷しないという品質への拘りから生まれた至高の一品だ。
酒はしばしば藝術品のように取り扱われる。酒神ディオニソスに愛された酒としてな。だが俺は酒が藝術品ではないと思う。藝術が絶対的で普遍な真、善、美に近付く行為とするならば、酒は三つの内のどれにも近寄っていない。単なる究極の嗜好品には成り得ても藝術でない。
俺の作品もそうだ。一部の好事家の嗜好品には成り得ても、真にも、美にも、善にも届いてはいない。夢想するも、魂は影の世界より跳躍することはない。どんなに魂が恋焦がれようと、イデアには程遠い。コンディヤック『感覚論』の『生気を吹き込まれた大理石』を創りたくとも創れない」
穂邑の言うことも判らなくもない。目の前にあるピエタは確かに美しい。だがその美しさは技術的な繊細さからくる美しさであり、見る者の魂を揺るがすものとは言い難かった。穂邑がどれ程の美を目指しているか判らないが、神々しいものは抜け落ちている気がした。
「『僕は何千ともない絵画の中に/あなたを見ます。/マリヤ様よ、その愛らしい姿を。/でも、何れにも描き出されてはいません、/僕の魂に見えるほどには……』。ノヴァーリスでしたっけね。完全なる理想形を夢見ても、具現化はできない。ダンテが天国の素晴らしさに接した時も似たようなことを言っていた様な気がしますが、表現者は対象物の美を凌駕することができないのでしょうか」
岩田の文言に穂邑は唇を歪めた。
「ダンテ曰く『藝術家にはみな限界があるのだ』、『悲劇、喜劇の作者で主題に力負けして これほど圧倒されてしまった人は他にいなかったろう』。
貴様は何も判ってないな。俺が創造したいのは神々しさではない。至極の美だ。俺は神に興味はない。 俺が希求して已まないのは美だ。神は愚かな奴隷の精神だ」
神に興味がないだと! なぜ穂邑は久流水家にいるのだ? ここは神を信じる者が集まっている所だ。それ程にまでに百合子を愛したからなのか?
岩田は穂邑の告白に戸惑った。岩田は暫し思案にくれていたが、穂邑は構わず続けた。
「信仰と藝術は、本質からして交わることは難しい。藝術はその一部に信じるという過程を必要とはしているが、その根底には疑うという要素がなくては成り立たない。 君の小説だってそうだ。作家は目の前にある現実を疑うことから始まる仕事だ。現実の醜悪を覗き見る状態が作家なのだ。
信仰という奴はそれとは真逆だ。現実の醜悪を覗かないようにすることこそが、信仰というのだ。その醜悪から離れていくことこそが信仰の目的だ。現実に何も不満もない人間は信仰を求めない。信仰はルサンチマンから生まれた。藝術家である事は現実の醜悪を嫌悪しながらも、その醜悪を愛することなのだ。両者のベクトルの始点は同じくともその方向は百八〇度反対だ。藝術家でありながら信仰屋である奴は確かにいるさ。だが彼らが描き出す藝術は現実の醜悪から人々を救うための藝術であって、人々に嘔吐させる藝術ではない。優しいことを言うのが藝術の役割か。 頭を撫でてやるのが藝術の役割なのか。俺は不思議に思う。そんなことはわざわざ藝術作品に表すよりも、標語にして町中の壁という壁に張り付ける方が、遥かに確実で健康的だ。 壁という壁に、『愛は素晴らしい』、『信じれば救われる』なんて有史以前から人間が飽く事も無く何万回と唱えてきたテーゼを貼り付ければいいじゃあないか。
だからこそ、俺は美を追求するのだ。現実の醜さを見詰めた先にある美を。だが俺はその美が判らない。不思議なものだな、希求すればするほど、その本質が判らなくなる。それは生命と同じだ。様様な倫理や哲学、道徳なんかが古来より生命に規制を設けようとしているのにも拘らず、肝心の生命自体の定義付けをなした者は誰一人いない。生命とは何かと問えば、大半は大切なもの、尊いものといったことを応える。だがそれは生命の本質ではない。何故大切で尊いのかと訊くと、唯一無二だと応える。ならば何故唯一無二なのか、何故そう言い切れるのか、俺とお前の生命の違いは何か、それとも同じものなのか。同じならば、何故俺とお前の苦しみはこうも違うのか。無限と疑問が沸いてくる。
だがな、それを『神の御心』と、一言で片付ける奴がいる。無限の謎をたった一言で終わらせるのか。俺には神というヤツが単なる思考停止のための単語にしか思えぬ。人類に気を狂わせないためのね。天才が狂人と紙一重という言葉がある。俺は思うのだよ、思考停止の神の壁の先に真実があるのではないかと。天才と呼ばれた者たちはその先に飛び込んだ者のことではないか。神という思考の壁を突破した時に人は孤立して狂気を孕む。俺が神を信じない理由は其処にあるのだ。信じることが真実から盲目にする様な気がしてな。奇異しなものだ。信じなければ、気が狂う。信じれば、目暗になる。あはは、あはは」
岩田は穂邑の狂人の振る舞いに呆気に取られながらも、言わんとしている事は朧げに判った。御堂の考えに中てられた所為か、岩田は生命を探偵小説に置き換えれば理解できそうな気がした。
探偵小説には『ノックスの十戒』や『ヴァン・ダインの二十則』というものがある。現実性や公正性を守らないと読者は激怒する。けれども彼らに『探偵小説とは何か?』と尋ねると、途端に発言の内容が曖昧になる。巷には一億年後の未来を描いた探偵小説もあるし、犯人不在の探偵小説だってあるのだ。彼らに続けて石を投げると、『探偵小説だからそうあるべきなのだ!』と一言で片付けてしまう。だが屡々探偵小説は探偵小説の枠組みを凌駕することがある。探偵小説を超えた探偵小説だってあるのだ。
岩田は、御堂が『探偵小説も一つの信仰』と言っていたことを思い出した。けれども岩田はこうも思った。
「素晴らしい探偵小説が書きたい」
ぐるる、ぐるるッ、るるるるる。
岩田が思案に耽溺していると、いつの間にか部屋に入って来た尨犬が岩田の足元に纏わりついた。真ッ黒な尨犬は、後足をひょこひょこと跛を引いていた。
尨犬は岩田の周りを興味深そうに周り続いて穂邑の足元にくるりと蹲った。穂邑は酒瓶を片手にして暫く黒い尨犬を覗き込んでいたが口角をキュッと上げて言った。
「この尨犬の名前はメフィストというのだよ」
「メフィスト? ゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔ですか? ああ、そういえばメフィストが初めてファウスト博士の前に現れるときの姿は尨犬でしたね」
「世を知り尽くしたファウスト博士に刺激を齎すために現れた悪魔、メフィストーフェレス。俺はこの悪魔が好きだ。穢れた世に堕された無垢の藝術家の様な気がしてね」
メフィストが小さく唸り声を上げていた。
私は常に否定する精神です!
それも至当です。なにゆえなら、生起するいっさいのものは
ほろびるにあたいするのですから。
してみれば、なにも生起せねば一だんとよかったでしょうに。
そこであなたがたが罪悪とか破壊だと呼ぶもの、
つづめて言えば、悪とお呼びになるいっさいのものが、
私の本来の成分です。
ゲーテ『ファウスト』
Ⅱヴァルプルギスの夜 Walpurgis Nacht
羊をその右に、山羊をその左におかん。 マタイ傳第二五章三三節
長い沈黙だった。部屋の隅にあった燭台の灯がフッと揺らめき消えた。辺りが一瞬にして無間の闇と化した。岩田は突然の闇の到来に僅かばかりの孤独感を感じた時だった。メフィストが突然として唸るような声で啼き始めた。
ぐるる、ぐるるッ、るるるるる……。
岩田はメフィストの突然の威嚇行為に聊かたじろいだが、その矛先が自分や穂邑ではなく扉の向こう側であることに直ぐ気が付いた。岩田は扉の方向に視線を走らせた。辺りにはピンと張り詰めた空気を創られた。
ぐるる、ぐるるッ、るるるるる……。
メフィストは猶も扉の向こう側に警戒を払っている。
がたり、がたり、たりたり、たりり……。
耳を澄ますと扉の向こうから何者かが蠢いている音が聴こえてくる。
がたり、がたり、たりたり、たたり……。
暫く二人と一匹は扉の前に対峙していたが、意を決し、穂邑が扉をソッと開いた。岩田が闇に目を懲らすと扉の正面にあるもう一つの扉が口を開けていた。岩田がこの建物に入ったときに左側に見た扉だった。その扉の向こうに何者かがいるらしい。怪人の持っている灯りが闇にぼんやりと浮かんでいた。相手は二人に気が付いていないらしく、相変わらず音を立てていた。
がたり、がたり、たりたり、たりり……。
ぐるる、ぐるるッ、るるるるる……。
「誰だ! そこにいるのは!」
穂邑が扉の先の闇に向かって大声を上げた。声を掛けられた闇の住人はその声に慌てたらしく、がちゃんッ、と何かを落としたような音が立った。怪人は手に持っていた灯を落としたらしい。再び一面が真ッ暗になった。岩田と穂邑が意を結して闇の怪人に飛び掛ろうとした時であった。
どんッ。
怪人は飛び掛らんとした二人を突き飛ばして逃げ出した。その勢いに体を廊下に投げ出してしまった岩田は直ぐ様起き上がると玄関に向かった怪人を追おうとした。岩田がぼんやりと見える怪人の背中を目指して走り出した時だった。玄関の向こう側の夜外に、ぼうッ、と新たな灯の光が現れた。何者かが灯を持って穂邑の工房に入ろうとしていたらしい。
どんッ。
その何者かも怪人に突飛ばされたらしく、手に持っていた灯が、ひゅんッと宙に舞った。怪人はそのまま夜外に飛び出していった。岩田が玄関に着いた頃には怪人の姿は闇に消えていた。
逃がしたか。岩田は怪人の追跡を諦めて、怪人に突飛ばされた何者かが誰なのかを確認しようとした。その人物は既に起き上がっていたらしく再び灯を手にして服に付いた砂をもう片方の手で掃っていた。
岩田が目を凝らすと灯の光に照らされた顔は益田老人だった。
何故今の時間に老人がここにいるのだ? 何か穂邑に用があったのかしら? 老人の方も岩田に気付いたらしく燭台の灯を岩田の方に向けると、「ああ、あんたか。今飛び出した者は何奴じゃ!」と訊いて来た。
岩田が問いに応えようとした時だった。工房の中から「おおッ」と穂邑の呻く様な声がした。岩田と益田老人はその声に気付き、工房に急いで引き返した。穂邑は怪人が外に逃げようとしたとき、怪人を追うではなく作品が破損されていないかの方が気になったらしい。怪人のいた左側の部屋に飛び込んだようだ。岩田と益田老人が同時に部屋に入ると、穂邑は火の点いた燭台を片手に部屋の中心で腰を落として呆然としていた。
岩田が周囲を見渡すと辺りには右側の部屋で見た部屋にあった彫刻像とは違う意匠のオブジェがあり、中心にいる穂邑を取り囲んでいるようだった。オブジェには大理石象の他にも石膏像やブロンズ像、石像も見受けられた。だがそれらは先程見た神々のオブジェとは全く殊を異にしていた。
おお、何と奇怪! いつの間に夜はワルキルブスの夜になっていた。 怪物達の饗宴ではないか。
それは怪物たちのオブジェだった。半人半馬の賢者ヒロンに、スフィンクス、妖女ジレーネ。嗚呼、フォルキュスの三人娘の媚態もあるではないか。水の哲学者ターレスに、優美の女神ガラテーも、フォルキュアス姿のメフィストもいるではないか! 『ファウスト』の世界ばかりでない。 ヨブを飲み込んだレピヤタンに、蝿の王ベルセブブ、『トビト書』のアスモデウス。バフォメットもバビロンの大淫婦も! それにサタン!
岩田は目の前にある禍禍しき怪物たちに驚嘆した。それぞれ一体一体が得も言われぬ狂気に満ち溢れている。先程見たピエタや神々の像はどこか空虚であったのに対して、こちらの怪物像は鬼気に充ちている。穂邑の才能は美を描くことではない。悪を描くことなのか。この世に満ちる一種の本質である悪を再現すること。だがそのことが返って穂邑を美に掻き立てているのだろう。
暫し岩田は驚嘆に暮れていたが、次第に穂邑の様子の奇異しさに気付き始めた。穂邑は何故呆然としている? これらの像を創ったのは何より穂邑本人ではないか。自分の創ったものに自分が驚くなんて莫迦なことはない。穂邑は何を見たのか。岩田は呆然としている穂邑を見た。岩田は穂邑の視線がある一方向に注がれていることに気が付いた。岩田は穂邑の視線を追った。
穂邑の視線の先には黒色に塗られた石膏の女性像があった。女性像は裸体で背中より鳥の様な羽が生えていた。岩田はその女性像を一瞬天使の像かと思ったが、それならば何故怪物たちの像と一緒に並んでいるのかという疑問が起こる。それならばこの女性像も魔物ではないのか。
そう考えた時に、ふと右側の部屋にあった像が聖母像であることを思い出した。
『羊をその右に、山羊をその左におかん』。ならば左側の部屋にあるこの像は聖母と反対のものではないのか。右側にギリシアの神々が並んで、左側には怪物たちが並んでいる様に。右と左で善と悪が対称に配置されているとすれば、この像は聖母と対になっているのではないのか。聖母の反対は何か? アダムの妻エバか? エバならば腰に無花果の葉を着けているはずだ。だがこの像には腰を覆うものすらない。況してエバなどありえない。
マグダラのマリヤか? ならば、全身を覆うほどの長い髪でなくてはならない。だが像の髪は肩までの長さしかない。それにマグダラのマリヤを悪とするにも疑問がある。そう考えていると岩田の頭の中にあることが閃いた。
リリトに違いない! 聖書に関わる女性で翼を生やしたものといえばリリトだ。『イザヤ書』のリリトでなく『ファウスト』やユダヤ秘教カバラの秘本『ベン・シラのアルファベット』に描かれているアダムの最初の妻リリト。肋骨の女エバより前にアダムの妻だった女リリト。アダムとの正常位での性交を拒み、翼を生やして自ら進んで楽園から飛び去った、神に逆らった女リリト。この像はリリトだ。清純の証であるはずの白百合を語源にもつ魔女リリトだ。黒い聖母。聖母マリヤに対応した神に呪われた女ではないか。岩田は像の正体を掴み、改めてリリト像に燭台の灯を近づけた。光がリリトの顔を撫ぜた時、岩田は息が止まらんばかりの驚愕に襲われた。
――リリトが泣いている! 血の涙を流している!――
嗚呼、どういうことだろう? リリト像の目から真ッ赤な血の涙を流しているではないか。 妖しく哂ったリリトの眼から、とろり、とろりと血が流れ出している! 世界各地で聖母像が涙を流す現象は確認されている。だがリリトの目から涙が流されるのは報告されてはいないだろう。そもそもリリトが何を悲しむ。アダムやその妻と違い、進んで天国を捨てた女。神に逆らった初めての女。聖母マリヤのように人の世の醜さを悲しむことがあろうか。リリトよ、お前は何故泣くのだ?
ファウスト あれはだれだ?
メフィスト ようく見つめなさい!
リリトです。
ファウスト だれだって?
メフィスト アダムの最初の妻です。
あのきれいな髪に用心なさい。
あれが無類にご自慢の飾りですからね。
あれで若い男をものにしたら、
すぐにゃ放しませんよ。
ゲーテ『ファウスト』
Ⅲ 神は死んだのだ。 Gott ist tot.
先に出でたる者は赤くして射中裘のごとし其名をエサウと名けたり
創世記第二五章二五節
穂邑の立会いの下でリリト像の警察の検分が行なわれた。リリトの眼孔部は脆くなっていた。穂邑によれば、この石膏像は戯れに胎内納品仏として創られたものであり、当然に像の中は空洞だと言う。軽く叩いてみると澄んだ音がするはずであったが、実際に叩いてみると、ごんッと鈍い音がした。
リリト像の中に何か血を流すモノが入っているのではないかという推測は当然の帰結だった。警察は新たな遺体がリリト像の中にあるのかと色めき立ち、慌てて久流水家の人々全員の所在の確認に走ったが、久流水家の人間の全員の所在が確認された。ならばこのリリト像の中身は何だということになり、結局はその場で石膏像を叩き壊すことになった。
「それではこの石膏像を叩き壊します」
平田警部は部下の若い警官に命じて、穂邑から借りた木槌を構えさせた。岩田や御堂、阿見と、穂邑、益田老人を始めとする久流水家の一族が見守るなかで木槌がリリトの妖美な微笑に叩き込まれた。
がちりッ、がちりッ。
若い警官が振るった木槌は、リリトの顔を少しずつ壊していった。まず鼻が潰れて、眼が潰れ、唇が潰れていった。
がちりッ、がちりッ、がらッ、がらッ。
リリトの顔が崩れて行くのと同時に新たな顔が露出し始めた。形の良い鼻は潰れた丸鼻に、妖艶な眼は眼窩に落ち窪んだ濁った眼に、柔らかそうな唇は荒れた唇に。様子を見ていた岩田や穂邑からは小さな悲鳴が上がった。がちりッ。若い警官が最後の一太刀がリリトに振るわれたかと思うと、リリトの顔が音を立てて崩れた。リリトの顔の下にあったのは若きリリトとは対照的な老いた男の顔だった。
何とも奇異しな構図だろう。リリト像で破壊されたのは顔の部分だけ。顔より下の胴の部分はリリトのまま。だがリリトの顔の部分には男の顔。翼のある若き女の裸体の上にちょこんと老いた男の顔が乗っている。老人の顔はどす黒く変色しており、死後かなりの時間が経っているのが見て取れた。蓬髪とした白頭に濁った眼、潰れた鼻。厚ぼったい荒れた唇はだらりと開いて黒い舌を覗かせていた。顔中に刻まれた深い皴が老人の人生の片鱗を物語っているような気がした。警官は続けて遺体を収集する為に顔以外の部分も壊し始めていた。
「あッ、こいつは!」
リリトから現れた顔を覗き込んでいた帥彦が大声で叫んだ。皆が帥彦のほうを見ると帥彦が潰れた眼を見開いて唖然としていた。阿見が帥彦の両肩をぐっと掴むと圧倒するような勢いで訪ねた。
「お前はこの男を知っているのか。こいつは何者だ。深見重治という名の者ではないのか」
帥彦は阿見の勢いに気圧されながらも怯えながら言った。
「名前は知らねぇ。けれどこの前に雄人様を訪ねてきた男だ」
深見重治? 何者だ。雄人氏を訪ねている? しかも阿見の慌て振りから考えて阿見もこの男を知っているようだ。御堂も岩田と同じことを思ったらしく、御堂も阿見を黒眼鏡越しに睨み付けて言った。
「阿見、この男を知っているのか。ひょっとして、昨日言っていた失踪者か?」
そうだ、昨日阿見が聖堂で言っていたではないか。叔父が『久流水家に行く』と言い残して失踪したので探して欲しいという依頼を受けて阿見は久流水家に来ていた。
阿見は御堂の指摘にぎゅっと唇を噛み締めていたが、やがて諦めたかのように肩を落として一息吐いた。
「もう黙っている必要もないないですネ。僕が探していたのは深見重治。年は六八歳。職には就いていないそうでしたネ。その内妻が先月亡くなり、その後、重治は失踪したそうです」
「深見という者は久流水家に何の用があったか知っているか?」
御堂に代わり平戸警部が尋ねた。
「否、それを調べることも兼ねてここにやって来のですよ。残念ながら僕にも判らないことはあるのですよ」
「久流水家の方々は何の用があったか知りませんか?」
平戸警部が訊くと皆一様に知らないと応えた。帥彦も雄人様のところに重治を案内しただけで何も知らないと応えた。だが今まで部屋の隅で大人しく益田老人に付き添っていた清枝がこう付け加えた。
「この深見さんが何のために久流水家に来たのかは存じませんが、この老人は死陰谷村に入るときに、襤褸を纏って、嘲笑して、『神は死んだのだ』と空に叫んだそうですわ。妾たち久流水家の人間は誰も直接には見ていないのですが、死陰谷の村人達はその様子に怯えたそうですわ」
「『神は死んだ』?どういうことだ?」
岩田の疑問に誰も応える者はいなかった。
神は死んだ? フリードリッヒ・ニーチェの『悦ばしき知識』第三書二五番の中で樽のディオゲネスの逸話を翻案した詩篇の中にあった科白だ。神から人間に主導権が移ったこと暗喩して、『神は死んだ』と書いていた。何故こんな科白を口にした?
平戸警部は部下に深見重治について調査せよと命じ、今度は益田老人の方に向けて尋ねた。
「ところで貴方は何をしに工房に来たのですか?」
益田老人は暫し瞑目してからゆっくりと応えた。
「マリヤ像を拝みに来た。わしは久流水家で起こっている変事に少しばかり不安を感じてなァ。心を落ち着けようと神に祈りたいと思った。夜更けにお休みであられよう桐人様のいる聖堂に足を運ぶのは憚れる。ならば何処に行けばいいかと考え思いついたのがマリヤ像だ」
老人が一息吐くと、阿見が言った。
「あはは、モーセの十戒『汝自己のために何の偶像をも刻むべからず又上は天にある者下は地にある者ならびに地の下の水にある者の何の形状をも作るべからず 之を拜むべからず』に抵触しているではないですか。ははは、僕には判っているのですよ。貴方は穂邑氏に密かに会いに来たのでしょう?メシュトラよ」
「その裏にある神は見失っておらんよ」
益田老人は禿頭に青い血管を浮かべながらも静かに言った。阿見は口元を歪めて、ただシニカルに哂った。
「あはは、何ともね。まあいいです。貴方は僕とまともに会話をしたがらないようだ。平戸さん、それに御堂君、老人に訊いてみたらどうですかネ」
阿見がそう言うと、平戸警部が益田老人に尋ねようとした。
「ならば益田さん、貴方は怪しげな人物に玄関先で突き飛ばされましたよね。その人物について何か気付いたことはありませんでしたか? 穂邑さんや岩田君にも同じことを訊きましたが、二人ともよく判らないと言って手掛かりがないのですよ。何か小さなことでもいいので教えてくださいませんか?」
「ああ、あの怪人がわしに突飛ばそうとした時だ。わしが工房の玄関前におると、内側からバタバタと猛然と何者かが走ってくるような足音する。わしは不審に思い燭台の灯を玄関側に向けようとした。だが、わしが灯を向けるより怪人が此方に向かって来るほうが速かった。怪人の顔に灯が当たる暇もなかったわ。気付いた時にはもう怪人はわしの目の前じゃあないか。わしはこのままでは突飛ばされると思い、さっと無意識の防衛反応で灯を持っていない方の手を前に突き出した。怪人はまったく速度を緩めることなく猛然とわしにぶつかってきた。わしはその勢いに体を飛ばされる瞬間に先程伸ばした手に怪人の腕が触れた。わしは驚いた、怪人の腕の感触に。 何ということか、怪人の腕にはふさふさとした獣の様な剛毛が生えておった!」
「獣の様な剛毛!」
岩田は万里雄と直弓の方に視線を向けた。その場にいる人々も岩田と同じように視線を二人に向けていた。
獣のような剛毛の生えた怪人! 獣の様な剛毛が生えているのは、関係者では二人しかいない。 全身多毛症の親子、万里雄と直弓。あの親子二人しかいない。これほど簡単に怪人の正体が絞れていいものか。
万里雄と直弓は少したじろいだが、態勢を取戻して反駁した。
「妾や父がそのような下賎な真似をするはずないでしょう」
直弓が真ッ黒な髭を揺らして捲し立てると、隣にいる同じような髭を持った父万里雄もそれに同意して続けた。
「直弓の言う通り。 私たちがそのようなことをするわけがなかろう。ただ人と違う養子を持って生まれただけで罪人扱いですか。人間の弱き精神は人の目に偏光を齎す」
「しかし益田老人が久流水万里雄か、その娘久流水直弓が怪人だと仰ったではないですか」
二人の反駁に阿見が言い返した。
「誰が万里雄と直弓と言ったか。 怪人の腕に毛が生えているようだったと言っただけだ」
老人が反論した。すると今まで黙っていた御堂が口を開いた。
「益田老人の言う通りだ。あくまで毛の生えた腕を持った何者というだけだ。旧約聖書創世記のヤコブとエサウの件を知っているか。ヤコブとエサウはイサクの双子の息子だ。兄のエサウは生まれながらにして全身が赤い毛に覆われていた。『エサウ』という名前も元々は『赤い毛の衣』という意味だ。ちなみに弟ヤコブは生まれた時、兄エサウの踵を持って産まれた所から『踵』という意味のヤコブの名が付けられた。二人はやがて成長した。父イサクは年を取り盲目となった。イサクは自分の死を予感し兄のエサウを呼び出して、狩りをしてその獲物でイサクをもてなしてくれたら、遺産を遣ろうと持ちかけた。エサウは勇んで狩りに向かった。併しイサクが内心ではエサウに財産を渡そうとしていることを知っていたヤコブとその母はエサウが狩りから帰る前に遺産を戴こうと考えた。そこでヤコブはエサウの着物を着て、腕や首に仔山羊の毛皮を巻き付けてエサウの振りをして、イサクに料理をもてなしてエサウが帰ってくる前に遺産を掠め取った。父イサクは老いて眼が衰えていたのでヤコブの変装は見抜けなかった。 聖書の中の探偵小説だ。最古の探偵小説かもな。これと同じことが起こったのじゃあないか? 岩田、お前がこの工房に入るときに廊下に何か毛深い獣の剥製はなかったか? 先程、俺が廊下に入ると様々な剥製が並んでいる中で一箇所だけ、さっきまで何かが飾ってあった様な空間があったぞ」
岩田は御堂に指摘されて、ハッと気付いた。廊下には孔雀や蛇の他に山羊の剥製があった。岩田がそのことを話すと御堂は哂った。
「あはは、聖書的じゃあないか。怪人は何故山羊の格好をしていたのかな。逃げるときに目の前に益田老人を確認して思わず凶器として握った物が近くにあった山羊の剥製だったかもしれないね。それを握ったまま老人にぶつかったかもしれないねェ。それならば多毛症の二人も候補からも外れないし、みんなも外れないね。まあ久流水家の城壁の入口、美麗門は警官によって閉じられているからね。
なくなった山羊の剥製も何処かから発見されるかもしれないね」
御堂が一気に語ると、阿見がいきなり崩れ落ちて警官によって片付けつつある深見重治の遺体と穂邑と益田老人、それに岩田を順繰りに見ると、阿見はいきなり隣にいた岩田の肩を掴んで先程とは違い真剣な眼をして尋ねた。
「君は本当に怪人を見たのか? 君は見間違ったりしていないな。君は幻覚を見たりはしていないな?」
「何を言っている? 幻覚など見るものか! 一体どうした?」
阿見は何を言っているのだ。幻覚を見ていたか? 見間違っている? 阿見はいきなりどうしたのだ。そういえば先程も奇異しなことを言っていたではないか。益田老人に対して『貴方は穂邑氏に密かに会いに来る必要があった』と。岩田が阿見の様子に惑っていると、何者かが岩田の背中を軽く叩いた。岩田が振り返り見上げると、御堂がそっと黒眼鏡を上げる姿があった。
「阿見、お前の考えていることは判る。考えていた推理が揺らぎ始めているのだな。この事件はお前の自己顕示欲を満たしてくれない事件だ。大人しく手を引いたほうがいいかも知れんぞ」
その時だった。部屋に若い警官が慌てて飛び込んできた。
「近くにある大きな十字架の天辺に!」
夜の闇が東から上り始めた太陽に天空の玉座を譲っていく。闇夜が空の際に追い遣られていった。太陽は地の被造物の存在を再び明らかにさせて行く。黒の世界を初めは青く、次第に赤く最後には白に色を付けていった。岩田が闇夜で見た十字架の形が明らかになる。十字架の大きさが明らかになり次に色が付き始めた。これほど醜い十字架があろうか。この十字架は神性を失っていた。十字架の頂点には山羊の頭がちょこんと載っていた。山羊。イエスに呪われた唯一の動物。左に避けられた山羊。右で祝福された犠牲の羊とは対称的な存在。悪魔バフォメットは山羊の頭をしているといわれている。
悪魔の顔が神聖なる十字架の頭を飾っていた。
ヱホバ人の惡の地に大なると其心の思念の都て圖維るところの恆に惟惡しきのみなるを見給へり 創世記第六章五節
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