伊達巻の日


 ~ 五月二十四日(月) 伊達巻の日 ~

 ※催眠術師さいみんじゅつし

  素直に信じている頃が少年。

  百パーセントあり得ないと言うのが青年。

  信じてみたくなるのが中年。

  もうすがるしかと言い出したのが親父。




「散々言っといたのに、黙っとけって」

「なに……、を?」

「凜々花が昨日、風呂上がりの親父に言ったんだよ」

「なんて?」

「今日はお風呂でしっかり目に剃って来たんだね、月代さかやき

「あちゃあ」


 テスト初日を終えて。

 すでに二人っきりになった教室で。

 明日に備えて勉強していた俺たちなんだが。


 そろそろお昼時を迎えた頃合いで。

 俺は、パリッとした板前風の白衣に袖を通した。


「……今日は、どうしたの?」

「さらにねじり鉢巻き」


 威勢よく、パンッと音を鳴らして広げた手拭いを額にねじねじ。


 伊達男。

 鉢巻き。

 と来ればもちろん。


「へいらっしゃい! なに握りやしょ!」

「……は、はまち、下さい」

「ねえよ!」

「じゃあ、タコ……」

「そいつもねえなあ! お任せでいいかい、お客さん?」

「あ、はい。それで」

「伊達巻一丁!」

「……これは、まさかの全編ノーカット」


 まるっと一本の伊達巻を前に。

 力なく苦笑いするこいつは。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 飴色のさらさらストレート髪を揺らしてかぶりを振ると。


 皿に両手を添えて、丁寧に押し返す。


「食えよ」

「……我慢中」

「そうはいかねえよ、テスト中にもうとうとしてやがって。おかげで消しゴムが半分無くなった」

「で、でも……。夏木さんより速く走れるようにしなくちゃ……」


 心配していた通りの結果にため息をつきながら。

 俺は、根本の問題について考える。


 きけ子の方が速いはずなんてねえんだ。

 百メートル走の記録だって。

 結構直近のデータで秋乃の方が上。


 それを知ってるから。

 きけ子が『全力を出してない』って怒ってるわけだし。


 秋乃が全力で走ってるのに。

 きけ子の方が前に倒れる理由。


 こんな時、ほんとはスポーツに詳しい甲斐に聞きてえとこなんだが。


 頭カチンなあいつのことだ。

 ぜってえきけ子に話すに決まってる。


 ……まあ、そんなことより。

 こいつにものを食わせる方が優先だ。


「ネットでいろんな情報あさってみたけど。食わねえで速くなる、なんてこと書いてなかったぞ?」

「でも……」


 テスト期間中とは言え。

 こいつにとっちゃ、優先度は当然きけ子の方が上。


 食わないうえに、夜も悶々としてろくに寝てないんだろう。


 体を壊したら元も子もねえ。


「で、だ。ネットを渡り歩いてる時、こんな問題にうってつけの物を見つけてな?」

「な、何か解決法が……?」

「ああ。任せておけ」

「さすが立哉君……」


 ほっと肩から力を抜いた秋乃の瞳が。

 そのままスッと閉じて呆れのため息。


「あなたは段々、伊達巻をたべたくなーる」


 紐で五円玉吊るして。

 秋乃の前でゆーらゆら。


「こら、何だその顔は。まずは信じること。この素晴らしいアイデアを称賛するところから始めるんだ。3、2、1、はい!」

「ないわー」

「真面目に取り組め。四往復の間に一呼吸。あなたは段々、伊達巻をたべたくなーる」

「もしも信じてると催眠術にかかるなら、立哉君が先に伊達巻食べたくなるんじゃない?」

「…………そう言われれば、美味そうだな」


 俺の反応に、苦笑いを浮かべた秋乃だが。

 ちゃんと集中しろってんだ。


「そ、そんなことされても、食べない……、よ?」

「そうはいくか。春姫ちゃんからお前が食べたいもん聞きだして、朝までかかってやっと焼き上げたんだ。何としてでも食ってもらう」

「あ、朝までって……? それじゃ、寝てないの?」

「そうだな。思いのほか難しくて……」


 ゆったりと、会話のペースを五円玉の揺らぎに合わせて。

 よしよし。

 秋乃が段々五円玉に集中し始めた。



 ……催眠術とは。

 誘導された自己暗示。


 理性で抑え込んでる欲望に。

 言い訳を付けてあげる心理トリック。


 罪を擦り付ける存在が生まれれば。

 あとは欲望に任せて転げ落ちていく。



 そのための手助けが。

 この五円玉。


 何のためにこれを眺めているのか。

 理論的に全く説明がつかない。


 理解の範疇を越えた物に直面した時。

 人は、思考を止める癖がある。


 思考のクロックを落として。

 呼吸をゆっくりと。

  

 

 じっと揺らぎを見つめて。


 右、左。


 右、左。



「あ…………。た、食べたくなってきた、かも……」


 よしよし。

 あともうちょっとだな。


「でも……、ね?」

「余計なことは考えるな。じっと五円玉だけ眺めてろ」

「立哉君、ちょっとでいいから寝て? それが気になって集中できない……」

「ああ、了解。でも、お前がこれを食べてからだ。あなたは段々、伊達巻を食べたくなーる」


 五円玉が。


 右、左。


 じっと揺らぎを見つめて。


 右、左。


 右、左。



「後で起こしてあげるから。ここでお昼寝して?」

「あなたは段々……、伊達巻を……」

「立哉君は段々、お昼寝したくなーる」

「さあ、重くなったまぶたを閉じ……。一番やりたい事を……」

「まぶたを閉じて。机に突っ伏して」

「あな…………。だんだ…………。ぐう」




 ………………

 …………

 ……




 ――何があったのか。

 まるで思い出せねえが。


 目を覚ましてみれば。

 隣で勉強する秋乃の姿。


「あれ!? えっと……、あれ!?」

「寝ぼけてる?」

「いや! 俺はお前に伊達巻を食べさせようとして……? それからどうしたんだっけ?」


 携帯を確認してみれば。

 あれから三時間は経ってる。


 半ばパニックに陥りながら立ち上がった俺に。


 秋乃はクスクスと笑いながら。


「催眠術……。信じてる方がかかりやすいって、言ったよ?」

「まさか! 俺が食べちまったのか!?」

「うん。……自分で全部食べちゃって。お腹いっぱいになって寝ちゃったのよ?」

「まじか」


 呆れて物も言えねえ。


 そういや、五円玉見てるうちに。

 思考が停止していった覚えがある。


「うわ、なんかごめんな? お前のために作って来たのに……」

「平気。丁度、減量中だから。……じゃ、帰ろ?」

「そうだな。……いや、なんかずっとつき合わせて悪い」



 すっかり静まり返って、いつもとは別の空間に感じられる教室から足を踏み出すと。

 途端に感じた空腹感。


 伊達巻一本食っておいて。

 寝てる間にすっかり消化しきっちまったのか。


 でも、俺なんかより。

 こいつの方が腹ペコに違いない。


「腹減ったろ。起きるまで待っててくれた礼にご馳走してやるから、食べてくか?」

「あ、えっと……。あたしは……、減量中だから、平気」

「いや、それ良くねえって。お袋さんが心配するといけねえから、夜はちゃんと食えよ?」

「…………はい。一杯、食べます」


 なんだか楽しそうにしてやがるが。

 ほんとに食えよ?


 ……そうだ。


 俺は、いつもよりくっ付き気味に歩く秋乃と一緒に校舎を出ながら。

 携帯を取り出して。


「お前、夜も我慢しそうだからな」

「ううん? ちゃんと、食べる……」

「いいや信用ならん。だからいい手を思い付いた」

「いい手?」

「レシピを教えて、春姫ちゃんに作っておいてもらおう」

「なにを?」

「伊達巻」


 するとどういう訳やら。

 今までご機嫌だった秋乃がどんより肩を落として。


 せめて違うものを食わせろ。


 ふくれっ面を俺に向けながら。

 恨みがましく、そう言った。


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