ボクシングの日


 ~ 五月十九日(水) ボクシングの日 ~

 ※病入膏肓びょうにゅうこうこう

  病的なまでに、趣味に走ること




 赤コーナー。

 倒れ込みながらも。

 切れ味鋭いフックを放つ。


 舞浜まいはま秋乃あきの選手。


 青コーナー。

 同じく倒れ込みながらも。

 重たいアッパーを叩き込む。


 夏木菊香選手。


 両者ノックダウンで幕を閉じた第12R。

 激しいゴングの代わりに。


 泥をはね上げながら走る俺の靴音が響く。



「大丈夫か!?」

「ぺっ! ぺっ! いやあ、転ぶのは慣れたけど、まさかパンチを食らうとは……」

「あ、あたしも、いい右いただきました……」


 必死なのは分かるけど。


 雨上がりのグラウンドで。

 泥んこになったところで練習にゃならんだろ。


「もう、今日はやめとけよ。こないだのゾンビよりひでえことになってるぞ」

「そ、そこまで……?」

「そうだよマッドマン」

「ぐすん」

「だれがマンよ! こんな水も滴るいい女つかまえて!」

「滴ってる水が茶色いんだよねっとりしてんだよ」

「ぐっとくるでしょ?」

「俺にそんな特殊なアレはねえ」


 面白がって、両手を前にあげて。

 二人仲良くこっちに向かって来るけども。


 お前らと違って体操着じゃねえんだ、やめてくれ。



 ……テスト前だというのに。

 二日休んだら体が鈍るとか、得意の根性論を持ち出して。


 きけ子が、ぬかるみ同然の特訓場へ秋乃を連れて来ちまった放課後。


 どうせすぐに諦めると思って、先に帰らず付き合ってみたら。

 こいつら、体中一部の隙も無いほどチョコでコーティングされても。


 まだ諦めずにスタート地点に立とうとする。


 やれやれ。

 元気なこと。


 ……でも。


「ねえ、舞浜ちゃん。あたしを信じて、全力出してよ!」

「う、うん……」

「ねえ。……なんで信じてくれないの?」

「し、信じてるよ? ほんとに……」


 そうは言いながらも。

 視線を泳がせる秋乃の姿。


 今日はなんだか。

 いつもより険悪なムード。


 でも、そこは『▽引く』って書かれたでっぱりが付いてる竹みてえな性格のきけ子だ。


 くるっと空気を換えて。

 秋乃の背中をばしんと叩きながら元気な声をあげる。


「よっし! もういっちょよ!」

「う、うん……。それじゃ、せーの……」


 足も速くて。

 歩幅も広い。


 そんな秋乃にしてみれば、よっぽど加減が難しいのか。


 いつも転ぶときは……。


「ぶべっ!」

「ひゃわっ!?」


 こんな感じで。

 きけ子が前に出過ぎて転んでる。


「……楽しんでないか?」

「ぶっちゃけるとね。泥んこ遊び、ちょー楽しい!」

「吹っ切れた瞬間、違う世界が見えて来る……」

「だから両手上げて近寄って来るな!」


 二人から距離をとりつつも。

 面白いから、カメラでパシャリ。


 ひとまず甲斐には送っておこう。


「ただの泥んこ遊びだったら帰るぞ俺は」

「そう言いながら帰るそぶりも見せずに写真まで撮って。あたしたち、そんなに映える?」

「なわけあるかい。誰がマッドマンなんか……?」


 いや?


 そういやさっき。

 パラガスに見せられた動画……。


「……なにその間」

「いや、泥まみれ女子を見て萌えるってヤツがいるらしい……」

「萌え? 舞浜ちゃん、分かる?」

「さ、さっぱり……。この、ぬとぬとがいいの?」


 しまった、いらんこと言った。

 このピュアコンビに、男子のフェチ的なサムシングを教える訳にはいかん。


「もうそれ以上考えるな。下手に理解されたら俺が変態みたいに思われる」

「あーっ! じゃあ、萌えじゃなくてエッチな何かじゃん! このど変態!」

「萌える人がいるらしいって話をしたまでだ。俺は何とも思わんし、げんに近寄って欲しくねえ」

「ほんとにほんと?」

「何度も言わすな。俺にそんな特殊なアレはねえ」


 身から出た錆とは言え。

 誤魔化すの面倒だなおい。


 でも、時すでに遅し。

 秋乃が泥だらけの指を、比較的汚れて無かったあごに押し当てて。

 むむむと唸り始めてる。


「ろくでもねえ話だから! それ以上考えるな!」

「で、でも。立哉君は泥だらけ女子に萌えないんでしょ?」

「そう言ってる。俺にそんな特殊なアレはねえ」

「だったら当てても……」

「よかねえよ」


 きつめに止めたのに。

 こいつらお互いに、泥まみれな姿を確認しながら。

 なにが萌えるのか考察してるけど。


「や、やっぱりわからない……」

「だね?」

「はいはい、この話も練習も終わり。まったく、下らんこと考えるわ体操着ドロドロにするわ……」

「あ。だったらいっそ、水着でやれば……」

「ぶふっ!?」

「「…………ぶふ?」」

「ななな、何でもねえ!!!」


 しれっと核心に近付くなよ!

 それもこれも、全部あの変態のせいだ!


 俺にはほんとに、なにがいいのかさっぱり分からねえし。


 しかも元々。

 女子のプロレス自体好きじゃねえし。


「水着……。泥んこ…………?」

「パ、パックかな?」

「泥温泉とか?」

「もう考えるなって!」


 このままじゃほんとに当てられる!

 俺は、もう誤魔化すのは無理と悟って逃げの一手。


 鞄を掴んで帰ろうとしたんだが…………。


「そ、それじゃひとまず、水着に着替えて……」

「そうね。そんで検証してみましょうか」

「やめてくれ後生だからこの通り!!!」


 なんというふりだしに戻る作戦!

 きびす返すしか選択肢ねえじゃねえか!


「……やっぱり、水着は正解なんだ」

「勘弁してください!」

「じゃあ早速、水着に着替えて……、ね?」

「ほんとやめろ俺じゃなくてお前らが変態認定される!」

「そんで泥んこだらけになって……」

「やめろおおおおお!!!」

「プロレスしてみる?」

「うはははははははははははは!!! 分かっててからかってやがったのか!」


 ほっとして大笑い。

 からの怒り心頭。


「さっきパラガスが見せて来てさ」

「き、気持ち悪いだけだった……」

「ほんとふざけんな思春期男子もてあそびやがって!!!」

「でも、保坂ちゃんの反応見て分かった」

「だ、男子ってあれが萌えるんだ……」

「ええいうるさい黙れ! 俺にそんな特殊なアレはねえ!」


 きけ子と秋乃に。

 ダブルデコピンだ。


 そう思って近づいたら。

 こいつら、息もピッタリ。


 同時に。


 顔全体に泥を塗りやがった。


「「どこからでも来てみろ」」


 なんという完璧なディフェンス。

 確かにこのままでは泥が全ての衝撃を吸収する。


 だが。


 完璧な防御というものは。

 結構簡単な所にほころびがあるもんだ。


「……今の、もう一回言ってみ?」

「「どこからでも来てみろ」」

「もう一声」

「「これでどこを攻撃しても、泥が衝撃をきゅうしゅ……、ぶへっ!?」」

「うはははははははははははは!!! 引っかかったな愚か者どもめ!」


 泥だらけの状態でしゃべったら。

 ぜってえ口に入ると思ったんだ。


 見事に反撃完了。

 ミッションコンプリート。



 ……なんて。

 浮かれてた0.1秒くらい前の俺にデコピンくらわしてやりたい。



「ぺっ! ぺーっ!!!」

「ぺっ! ぺっ!!」

「うげっ!? きたなっ!!!」


 策士、策に溺れるとはまさにこのこと。


 やってくれやがった。


 つばというか泥というか。

 散々攻撃を浴びて。

 体中が水玉模様。



 俺は、体操着で帰る姿を想像して頭を抱えながら。

 泥だらけ女子二人を置いて、教室へ向かった。



 あーあ。

 まったく、ひでえ目に遭ったぜ。



 ……うん。



 ほんと、酷い目に……。


「ねえ? 保坂ちゃん、今一瞬、嬉しそうな顔してなかった?」

「してた……、よね?」

「なんで?」

「むむむ……」



 言っておくが。



 俺にそんな特殊なアレはねえ。



 だから。



 もうそれ以上考えるんじゃねえ。


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