第36話 イナカマチの番犬 1

 夏祭りが終わりの時間を迎え、騒ぎ疲れた人々が寝静まった頃。

 空に上った月にちょうど雲がかかり、若利の屋敷は夜に沈んでいた。


 その暗闇の中で、駒に宛がわれた部屋の障子戸が、音もなくスウ、と開かれる。

 誰が入って来たのかは分からない。

 だが夜の闇とは違う、黒い影が示す体格から考えると、それは間違いなく男であった。

 男はその手に、ギラリと冷たく光る刀を握りしめている。


「…………」


 男は息をひそめ、部屋の中を確認した。

 視線の先にあるのは布団だ。

 男はその位置を確認したあと、足音を立てないように畳を踏んで歩く。


 布団の中では独楽が寝息を立てていた。

 男は静かに近づき、真上から独楽を見下ろせる位置まで辿り着くと、その手の刀をゆっくりと縦に構える。


 男は小さく息を吸った。

 そして、一瞬の間のあと。

 躊躇いなど一切感じられない勢いと力強さで、その刀を振り下ろした。


――――だが。


 振り下ろした先に独楽はいなかった。

 刀身が独楽の体を切り裂くよりも早く、独楽はするりと横に回転し、その刃を綺麗に躱したのだ。


「…………!」


 男はぎょっと独楽の方へと顔を向ける。

 驚く男に向かって独楽はニッと笑いかける。

 そうしていつの間にか手に持っていた錫杖をつくと、シャンと鳴らして立ち上がった。


「いやはや、危ない危ない。あやうく真っ二つになるところでした。借り物の布団を血で染めるなんて洗濯が面倒な事をしたら、小夜ちゃんに申し訳がない。……しかし、夏祭りの立ち回りといい今といい、一切合財、容赦がないですね。少しばかりは躊躇って欲しいものです」


 肩をすくめ、おどけた調子で独楽は言う。

 余裕のあるその口ぶりに、刀を振るった男の方が動揺していた。


「其方、なぜ……」

「なぜ、というのは、食事に入れられた睡眠薬の事についてですかな? いやぁ、生憎とわたし、鼻が良いんですよ」


 独楽は自分の鼻を指差してニコリと笑う。

 そして手を下ろして表情を戻すと、少しばかり寂しそうにその金色の右目を細めた。


「バケツプリン、大変楽しみにしていたんですよ。――――甘栗さん」


 独楽の言葉と同時に月を隠していた雲が晴れた。顔を現す満月の強い光が、闇の中から男の姿を映し出す。


「…………それは、申し訳ない事をした。――――独楽殿」


 刀を下ろし、呆然と立っていた男。

 それはイナカマチ区画の居候、侍の天津栗之進、その人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る