転生者、X

浅井誠

プロローグ



どうやら自分は事故に遭ったらしい。




 頬に当たるアスファルトの感触を感じながら僕はそんな事を思っていた。ぶつかって来たのはトラックの様だった気がする。余りの衝撃だったのか、身体はピクリとも動かないし、頭の方からは何か温かいものを感じる。血が出ているのだろう。


 自分の体の事は自分がよく知っているとは良く言うものだが、今になって実感するとは思わなかった。


 自分はもうすぐ死ぬのだと、理論的では無く、感覚的にそう確信する。だと言うのに妙に冷静な自分がいた。


  薄れゆく意識の中、視界の端に人影が見えた。それはどんどん近づいて来て、ぼんやりとしていて全体が把握できない。しかし僕には分かった。先程まで僕の隣を歩いていた妻と、その腕に抱かれている、まだ2歳の娘だ。どうやら轢かれたのは自分一人だけだったらしい。


 無事そうな2人を見て僕はもうすぐ死ぬと言うのに、何故か笑みが溢れた。


 もう自分は最期なのだと分かっている。 


 これで妻と娘にも会えなくなる。


 僕は2人に向かって最期の言葉を言おうとした。しかし口はパクパク動くのだが、言葉が全く出ない。もうそんな力も残っていないのだと察すると無念の気持ちでいっぱいになる。ぼやけた視界で妻は必死で何かを叫んでいる様に見えた。叫んでいるのは僕の名前なのか、それとも必死に助けを呼んでいるのか、どちらにせよそこまで叫ぶ元気がある程、無事であるのは何よりだった。


 程なくして救急車と警察車両らしきものが到着しているのが見えた。そして駆けつけて来た救急隊員に、何かを話しかけられたと同時に僕は意識を完全に失った。






 僕が27歳の時の出来事だった。














 皆さんは目が覚めた時、知らない森の中に居たとしたらどんな反応をするだろうか?


 「…天国だと良いんだけどな」


 僕の場合の答えはコレである。遂に来るところまで来たかと思い、上半身を起こしてみると、事故に巻き込まれた時の記憶が一気に蘇る。確かあの時は会社が休みで、妻と娘を連れて近くの公園まで散歩をしていたのだ。そしてその帰り、交差点で信号待ちをしてるとそこにトラックが突っ込んで来た。などと言う、なんともありきたりなものだった。


 「…まさか、自分が経験する事になるとは…」


 大きく背伸びをしてまずは辺りの状況を見回してみる。…本当に一面緑の森の中だ。恐らく昼間なのだろうが、木々が太陽の光を遮っていて妙に薄暗く、天国と言うには少々雰囲気がよろしく無かった。


 次に自分の身なりを確認する。事故時に来ていた服と同じだ。トラックに撥ねられ、アスファルトを転げ回った時に出来たであろう衣服の破れもそのままだった。


 「…そのまんまじゃん。神様も親切じゃ無いな」


 僕は地獄に落ちるほど悪事を重ねてきた覚えはない。かと言ってここは天国かと問われれば首を縦に振れなかった。しかし、あの時僕は確かに死んだと思う。現に当時着ていた服が破れたままなのと、あれだけ大きな事故に遭ったのに今は身体に傷が一つも無いのが良い証拠だった。


 「人、いんのかな?」


 ともかく、ここが天国であろうが地獄であろうが、ここでじっとしていてもどうにもならない。試しに立ち上がってみても身体のどこにも痛みは感じないし、健康体そのものだ。あまりの身体の自由さに本当に死んだのかと疑問に思う。突然の出来事だったが故、自分が死んだと言う実感が全く湧かないのが実情だった。






 ___ガサッ






 すると後ろの方で草木の揺れる音がした。風が吹いた時の様な自然な音では無く、明らかに人為的なもの。僕は動物かと思い咄嗟に振り向くがそこには誰も居ない。小動物か何かだったのだろうか?






 ___ガサッ、、ガサッ__






 また揺れた。今度はハッキリと分かるほどの気配を感じた。しかも複数、明らかに僕を見ている。しかし周りをいくら見回してもそれらしき姿は無い。薄暗い森の中なのも相まって僕の恐怖心は一瞬にして高まる。






 「___おい」






 突如、自分のでは無い低い声が背後から聞こえて来た。心臓が止まりそうになる。咄嗟に振り返ると、一人、人が立っていた。良かった。安心した。人だった。野生の熊であったらどうしたものかと思ったがこれなら助かりそうだ。


 「た、助かりました!!実は僕、道に迷ってて…最初に出会えたのが人で良かったです!!」


 僕の前に現れたのは男だった。しかし何かおかしい。僕におい、と一言話しかけて以来、ずっと無言であるし、目線は僕を捉えているのだが、僕の身体のあちこちを見定める様に見つめている。


 「えっと…あの…」


 男の異様な雰囲気にたじたじとなる。よく見てみるとこの男の身なりもおかしい。髪はボサボサで中世の西洋風の衣服を着ている。それも何日も着ているのかボロボロで所々汚れで黒ずんでいた。こんな服は文化祭での衣装でしか見たことが無い。それに、腰に掛けているあれは…剣?


 それを見た瞬間、収まっていた僕の恐怖心が再び高まる。


 「えっと、その…」


 「おいお前、金はいくら持っている?」


 僕の言葉を遮る様にして男が威圧する様にそう言う。自分は武器も何も持ってない。慌ててポケットの中を弄るが、めぼしいものは何一つ入ってなかった。


 「な、何も無いです!そ、それよりあなたは!?ここは何処ですか!?天国じゃ無いんですか!?」


 乱暴されるかも知れないと言う恐怖心が一気に僕を包み込む。もはや何が何だか分からなくなっていた。死んだと思ったら突然森の中で目が覚めて、怪しい男に睨まれる。挙げ句の果てにはカツアゲだろうか。


「天国ぅ?ハッ、アッハハハハー!!」


 下品な男の笑い声に顔が引き攣る。何がおかしいのだろうか?


「山賊に襲われてるこの状況が天国たぁ相当頭のおかしい奴らしい。なぁ!!お前ら!!」


 男が森の中へ向かってそう言うと、木の陰やら林の陰やらからわらわらと人が出て来る。4人、最初に出て来た男と同じ様な身なりをした男達が出て来た。どいつもこいつも薄気味悪くニヤニヤしていて背筋が凍る。それにこの男は"山賊"と言った。山賊なんて明治か大正に絶滅したのでは無いのか?ともかく、まともな連中では無いのは確かな様だ。人数的なものも相まって更に恐怖心を煽る。


 「…どうする、この男。本当に金目のモン持ってなさそうだぞ?」


 「この森に用心棒も付けず手ぶらで来る様な奴だ。ロクな奴じゃ無い事は確かだが後で街に出られて警備団に通報でもされたら厄介だぞ」


 山賊達は僕をどうするのかと当事者本人そっちのけで会話を進めている。対する僕は足が見るからに震えていて、最悪な事にならない様、必死に祈っていた。




 「殺すか」




 山賊の誰かがそんな事を言ったのが耳に入る。耐えられなかった。その言葉を聞いた瞬間、僕は弾き出される様に山賊達に背を向けて走り出した。




 「!追いかけろ!!逃すな!!」




 背後から叫び声が聞こえる。捕まったら絶対に殺される。そう直感し、死に物狂いで山賊から逃げる。どうして僕はこんな目に遭っているのだろうか?そんな疑問も少しばかり湧いたが、それよりも今を生き抜くために僕は全力で走った。


 2度も死なない様に。






 しばらく走ったが、後ろを確認するたびに山賊が追い掛けて来ていたので僕はその内、後ろを見なくなった。怒号が聞こえてくる限り、まだ後ろに居るのだろう。見れば恐怖心に足がすくみそうになるので、ただがむしゃらに走った。もう息が切れる。しかし足は止められない。だが意思とは反して自分の足取りがどんどん重くなってゆく。


 「ああっ!?!?」


 すると手首を掴まれた。遂に捕まった。もうだめだ。掴まれた手首を引っ張られ、僕は地面に転がる。


 「ぐあっ!ご、ごめんなさい!ごめんなさい!!殺すのだけは許して下さい!!!」


 地べたに這いつくばりながら僕は必死に懇願する。もう死んでいるはずなのに。






 「お、落ち着いてください!!私は山賊ではありません!!」






 聞こえたのは女性の声だった。恐る恐る顔を上げると、僕の手首を握っていたのは先程の山賊達では無く、二十歳前後の、若い女性だった。なぜこんなところに?


 「あ、あの!!」


 「静かに…!伏せて下さい…!私が何とかします」


 何者なのかと尋ねようとしたが強引に頭を押さえられた。抵抗しようかとも考えたが、今頭を上げれば確実に山賊に見つかる。それならばと、僕はこの女性の言う事を素直に聞く事にした。しかし見通しの悪い薄暗い森の中とは言え、ずっとここに伏せていてもいずれは見つかる。しかしこの女性は『何とかする』と言った。何か山賊達を撒ける秘策でもあるのだろうか?


 すると女性は背負っていたリュックから何かを取り出す。良く見てみるとネックレスの様だった。先にはダイヤらしき立体の菱形に型取られた装飾がある。あれは確か正八面体と言う名前だったはずだ。女性はそれを垂らして、催眠術を掛けるかの様に、右へ左へとネックレスを揺らす。…本当に何をしているのだろうか?




 ____キーーーンーーー……____




 すると自分の耳にモスキート音の様な甲高い音が入った。もしかして音の元は、このネックレスだろうか?




 ___ガサッ__




 それとは別に誰かが草木を踏む音がした。山賊の一人が近づいて来ているのだろう。恐怖で咄嗟に頭を上げそうになる。


 「動かないで…!大丈夫です…!」


 動揺する僕に対して小声で諭す様に女性がそう言う。女性は依然とネックレスを揺らしている。どうやら遊んでいるわけでは無いと言うのは、真剣な表情を見れば分かった。


 心臓飛び出そうになる。身体が震えるのを必死に抑える。山賊はどんどん近づいて来て目の前5メートルと言うところまで来ていた。草の陰に隠れているとは言え、もう限界も近い。


 …しかし山賊は僕らに気付かない。一歩、また一歩と、自分達に近づいている筈なのだが、一向に気付く気配が無い。


 遂に目の前まで来た。目が合った。もうだめかと思い、目をつぶって自身の無事を祈る。


 …だが待てども山賊が何かアクションを起こす気配はない。恐る恐る目を開くとつい先程までいた山賊は、僕たちに背を向けて別の場所を探していた。その陰はどんどん小さくなり、遂には薄暗い森の中へと消えて行った。


 「…助かったのか?」


 状態を起こして周りの状況を伺う。山賊達の陰は一人残らず居なくなっていた。確かに目が合ったはずである。しかし山賊は僕らを捕まえるどころか、何も言わずに立ち去って行った。


 「…何が起こったんだ…」


 見逃してくれたのだろうか?しかし去り際に見た山賊の姿は僕をまだ探している様に見えた。




 「…行きましたね、本当に危機一髪でした」




 呆けていると、先程の女性から声が掛かった。そうだ。この女性の言う通りにしたら助かったのだ。慌てて立ち上がると僕は勢いよく頭を下げる。


 「た、助かりました!もう死ぬかと思いました!!あなたは命の恩人です!!本当にありがとうございます!!」


 「い、いえ、そんな…無事なら何よりなので…で、ですので顔を上げて下さい!」


 僕がいつまでも頭を下げているので困惑したのだろう。助けてくれたのは彼女の方だと言うのに何故かオロオロしていた。


 ゆっくりと顔を上げてみると先程まで切羽詰まっていて良く見てなかった女性の顔が僕の目にハッキリ映る。


 やはり見た目が若かった。肌は白く、黒色の髪の毛が肩にかからない程度に切り揃えられていて、目鼻立ちもくっきりとしている。身長が低めな為、少し幼い印象を受けたが、それでも美人さんと呼んで差し支えない程の容姿だった。


 そして何より目を惹かれたのは、その透き通る様な青い眼だった。肌の白さも相まって、吸い込まれそうなほどに綺麗な青色をしていたのである。


 「ほ、本当にありがとうございます。お陰で命拾いすることができました」


 27歳にもなって女性の前で緊張することになるとは思わなかった。感謝をしてもしきれないのだが、再度お礼の言葉を言う。


 「も、もう大丈夫ですよ?でも危なかったですね。あの山賊達はこの森でも有名な奴らです。もしかして金品とか取られちゃいましたか?」


 やはり連中は危ない奴らだったらしい。捕まった自分を想像すると、鳥肌が立った。


 「いえ、何も。元々何も持ち合わせて居なかったので…」


 そう言うと、女性は驚いた顔をした。


 「この森に手ぶらで来たんですか!?自殺行為もいいとろこですよ!?」




 「それが僕にも何が何だか…目が覚めたらこの森の中にいて、いきなりあの男たちに襲われたんです。…それと一つ、僕から聞いていいですか?」




 「?、何でしょう?」




 ようやくまともに話し合える人物に出会ったのだ。助けて貰って早々、何ではあるが、これだけは僕の中で確認しておきたいことだった。






 「ここって天国ですか?それとも地獄ですか?」











 女性の説明を聞いたが、信じられない。日本語なので最初は冷やかしているものかと思ったが、真剣に説明している辺り、そうとは思えなかった。


 「…なのでこの森には手ぶらで来るのは危険なんです」


 この女性が話すに、ここは天国でも地獄でも無いらしい。この森は"ウィルズレイ"と言う、聞いたこともない様な国の端にあるそうだ。国境に位置する森なので、ここ一帯は様々な山賊が跋扈していると言うことだ。


 しかし重要なのはそこでは無い。




「…それで、その魔法を使って私を助けてくれた訳ですね?」




 どうやらこの世界には魔法が存在するそうだ。 自分が生きていた世界とは違うとは薄々気付いていたが、これはあんまり過ぎる。


 これが中学生辺りなら、まだ純粋に信じられたかも知れないが、生憎僕は27と言う年齢になる。この歳になって魔法を信じろと言われても中々に難しいものがあった。




 「はい、あの魔法は"ヴェラ"と言って、自分の気配を消す基礎魔法です。…どうかしましたか?頭なんか抱えて…もしかして、山賊に殴られたとか!?」


「…いえ、ちょっと状況が飲み込めて無いだけです」


 信じ難い話なのだが、僕にはこの女性が嘘をついている様には見えなかった。もしこの世に魔法が本当に存在するのならば、僕は事故前まで生きていた世界とは別の場所に来たことになる。




 僕にはそれが怖かった。




 当たり前だろう。山賊が跋扈し、魔法が存在し、国の名前すらも聞いたことのないものときた。


 この世界はいつ死んでもおかしくないのでは無いか?


 先程、自身が殺されかけた事を思い出して、そんな感情が一層強くなる。


 「本当に大丈夫ですか?顔色が悪いですよ?」


 女性が心配する様に僕の顔を覗き込む。僕はこれからどうなるのだろうかと考えると途端に不安になって来る。


 本当に自分は何処へ来てしまったのだろうか?


 「大丈夫です…えっと、重ねて聞きたい事があるんですが、まず僕はウィルズレイと言う国は見たことも聞いたこともありません。その国は地球の、どこにあるんでしょうか?」


 しかし、聞きたい事はまだ沢山ある。違う世界に来てしまった絶望感を必死に抑え、この女性から情報を得ようとする。



 「え!?本当ですか!?シーア大陸でも1番の大国ですよ!?」


 また知らない単語が出て来た。そんな大陸の名前も聞いたことはない。ウィルズレイの位置を事細かに説明されたが、聞いたことのない地名のオンパレードだった。彼女の説明を聞くたびに、ここは自分の居た世界では無いと言う事を感じさせられる。


 「僕はあなたの言う他の国も、シーアと言う大陸の名前も知りません」


 「そ、そんな…」


「それに僕が住んでいる、いや僕が存在していた世界では魔法というものはフィクションや書物の中にしか存在しません。それに…」


今度は 僕がいた世界について説明する。しかし、彼女に"日本"と言う言葉を言っても分かっていなかったし、地球の大陸の名前を言っても首を傾げていた。






「…これが僕が知っている世界です」


 「……」




 女性は絶句していた。あり得ないと言った表情だった。最後の望みを懸けて僕の生きていた世界を説明し続けたがどれもこれも信じられないと言った表情で聞いていた。彼女が嘘をついていたらどれだけ良かった事だろう。説明中、彼女の反応を見るたびに、改めてこの世界は自分の生きてきた世界とは全く違うものなのだと痛感する。




 「…もしかしてあなたは、"異界者"なのではないですか?」




 すると、女性からそんな言葉が飛び出して来た。いかいしゃ?医科医者?医師免許など取った覚えは無いが…幾つか考えたが、意味が理解できず首を傾げる。


 「何ですか?その、"いかいしゃ"って」




 「私達の世界で、"外"の世界から来た人の事を指します。あなたの服装を見ても、私達のものとは随分と違うようですし…何より、あなたの話を聞く限りではそうとしか思えません」




 "異界者"


 それはこの世界での知識が無い、全く別の世界から来た人の事を指すらしい。正に自分の様な存在。




 「…異界者が最初に現れたのは500年前で、その人達に共通するのは、"多大な魔力を持っている"との事らしいです」




 女性の説明に頷く。本当に小説の中の様な話だった。昔、会社の後輩から異世界転生なるものの小説の話を聞かされたことがある。…何でもある日、突然主人公が自分とは知らない世界に飛ばされ、その世界で何かの能力に目覚め、敵やら魔物やらを強大な力で倒していく。みたいな内容だった気がする。


 女性の言う通りなら、僕は多大な魔力を持っているらしい。しかし、もしそれが本当なら、あの山賊達を一瞬で倒せただろうし、そもそも魔力をどう使うのかも分からない。本当に魔力なるものを自分が持っているのかも甚だ疑問だ。現実は小説の様に話は上手くいかないものである。




 「…その、僕がその異界者だったとして、僕はもう、元の世界には戻れないんでしょうか?」




 しかし僕にとって、魔力があろうが無かろうが、知りたい事はこの一点だけだった。そもそも僕は向こうの世界では死んだ事になっているのだろうか?嫁は?娘は?僕が居なくなったらどうやって二人は生活して行くのだろうか?…もし、永久にこの世界に閉じ込められたままだったら、僕はずっとこの世界で生き続けなければならないのだろうか?


 考えれば考えるほど絶望的な方向へ思考が回って行く。




 「…あなたが本当に異界者なら、一つだけ元の世界に帰る方法があるかも知れません」




 絶望の中、女性からそんな言葉が飛び出た。


 「ほ、本当ですか!?」


 初めての希望の見える言葉に僕は飛びつく。帰れるならば、こんな世界からはさっさとおさらばしたい。まだ会社に行ってやらなきゃいけない仕事も残っているし、何より妻と娘を食わせていかないといけない。僕が居なくなったらあの二人はどうやって生きていけば良いのか。


 「え、ええ。シーア大陸の端の端、"シロン公国"と言う国にある、"ハジマ遺跡"と言う場所に行けば、帰れるかも知れません」 


 「そ、そうですか!!」


 この際、聞いたことのない国名や遺跡名などはどうでも良い。ただ、"帰れるかも知れない"と言う事実だけが今の僕の、唯一の希望だった。


 「は、はい。伝説では異界者達はそこにある"異界の扉"と言う門を通って帰っていったと伝えられています」


 「そうですか!!ありがとうございます!それで、そのハジマ遺跡は何処にあるんですか?」


 帰れる手段があるならそれに越した事はない。自分はもう死んでいるかもしれないが妻と娘に会える希望があるなら、それに賭けるつもりだ。


 「え、ええと、その、言いにくいんですが…」


 しかし女性は文字通り言いにくそうな顔をして口籠る。帰れる手段があると言うのに、何を戸惑うことがあるのだろうか?


 「ど、どうしたんですか?」


 女性の反応に、嫌な予感を感じた。 


 「うぅ…その、シロン公国なんですが、えっと…このウィルズレイとは全く逆方向の場所にあるんです…」


 「…え?」


 逆?それはつまり、この場所からかなり離れていると言うことか?シーア大陸がどれ程の大きさなのかは分からないが"大陸"と名が付くほどである。


 一体、幾ら日をかければ着くのだろうか?


 「…因みに、ここからどれくらい掛かります?」


 聞くのが怖いが、戻る為だ。覚悟して彼女の口が開くのを待つ。








 「…陸路で、馬車などを使ったとして、早くても3ヶ月です…」








 そんな覚悟もすぐに折れるくらいの日数だった。


 「そんな…3ヶ月って…」


 再び自分の顔が絶望の表情に染まる。 この世界の何もかもを知らない僕にとって3ヶ月は途方もない日数だった。






 「…え、えっと!落ち込まないでください!まだ死んだわけじゃ無いんですから!!」


 あまりに露骨に落ち込む僕を不憫に思ったのか、いくつも下であろう年の女の子に励まされる。そんな自分が情けなく思えて、さらに落ち込んでしまった。


 「と、とりあえずこの森は危険なので近くの街まで案内します!!行きましょう!!」


 強引に女性に手を引っ張られ、僕らはやっと歩き出す。対して僕は山賊にもう一回襲われて、殺された方が、元の世界に帰れるのではないかなどとと思い始めていた。








女性は道中、僕がその、"異界者"である事を前提に色々な事を聞いてきた。落ち込んだ僕を励ます為に興味深々に聞いて、明るく振る舞おうとしていたのだろう。

 そのおかげか、僕の心も少しばかりか晴れやかになっていた。


 「へぇー、そっちの世界には”鉄道”と言うものがあるんですねー」


 「はい。僕のいた国ではどこもかしこも鉄道が走っています」


 女性には色々な事を聞かれた。あなたが住んでいた世界は何があったのか?どう言う景色があったのか?何が流行っていたのか?


 答えるたびに新鮮な反応をしてくれたので、なんだか後輩が出来たみたいで嬉しい。


 「僕の話、信じるんですか?」


 しかし、話をあまりにもまともに受け入れていた為、こっちの方からそんな疑問が出る。仮に逆の立場だったとして、元の世界で彼女が魔法が使えるだの、山賊がいるなどと話をされたら僕は全く信じれる気がしない。そもそも異世界から来たことさえ信じないだろう。


 「はい、どれもこれも興味深い話です。実は私、今から帰る”ゾルバ”と言う街で考古学者をしているんです。あの森にいたのも、遺跡を調査をした帰りだったんですよ?私の格好を見て気づきませんでしたか?」


 そう言われて彼女の姿をもう一度見る。


 大きいリュックを背負っていて、その外側には巻き付けた地図がある。少し大きめの黒色のハット帽を被っていて、上は白色の長袖のワイシャツを着ている。下はジーンズ系のショートパンツで、靴は焦茶色の長いブーツを履いていた。


 …言われてみれば確かにそんな服装だった。もっとも、後ろに背負っている大きいリュックと地図がそれっぽさを出しているのだろうが。


 「それで、考古学者と同時に異界者についての研究もしているんです。異界者はもう200年程現れて無いですからね。そこへあなたが現れた。信じない方がおかしいですよ」


 「は、はは、そうですか…」


 そうであろうか?初めて出会った人物に『異世界から来ました』などと言われてすんなり受け入れられるものなのだろうか?僕が異世界から来たという証拠なんて今着ているボロボロの服だけだろう。異界者と言う言葉があるこの世界では、僕みたいな人間も受け入れられるものなのだろうか?まだお互いの名前も知らないのに…


 ん?名前?


 「そう言えばまだあなたの名前を聞いていなかったですね。聞いても良いですか?」


 短い付き合いかも知れないが、命の恩人の名前くらいは知っておきたい。それにいつまでも”女性”と言う呼び名では失礼だ。


 「あ、そうですね。自己紹介がまだでした。私はユーカ。『ユーカ・リーブランテ』と言います。ユーリーと呼んでください」


 にっこりと笑って丁寧にお辞儀をする。やはり美人さんだからか、様になっていた。


 「よろしくお願いします。リーブランテさん」


 「ユーリーでいいですよ?」


 いきなり渾名で呼ぶのは気が引けたので、苗字で呼んだのだが、リーブランテさんからあだ名で呼ぶ様に言われた。


 「そうですか、じゃあよろしくお願いします。ユーリーさん」


 それならば遠慮する必要はないので僕は彼女をユーリーと呼ぶ。


 「はい、よろしくお願いします」


 名前を呼び直すと一転、ユーリーは笑顔になる。苗字で呼ばれるのはあまり好きでは無いのだろうか?


 「…えっと、よろしければあなたの名前も教えてくれませんか?異世界の人がどんな名前なのかも気になります」


「はい、良いですよ」


 確かに自分から名前を聞いといて僕の名前を言わないのは失礼だ。日本人的な僕の名前はどの様に映るのだろうかと思いつつ、自己紹介をする。


 「僕の名前は…」


 あれ?


 「えっと…僕の名前は…」


 僕の名前だ。会社でも先方と話すときに何度も自己紹介したじゃないか。


 「…えっと…ちょっと待ってください…」


 必死に記憶を辿る。しかし自分の名前だけが出てこない。妻と娘の下の名前はすんなり出るのだが、その上が思い出せない。


 「……」


 自分の母親と父親の下の名前は思い出せるのだが、その苗字が思い出せない。あれほど交換した自分の名刺を思い出そうとしても、その名刺にはモザイクがかかった様に何も思い出せない。






 自分の名前の記憶だけが、無い。






 「?どうしましたか?」


 立ち止まって無言になった僕に心配したユーリーさんが声を掛ける。僕は冷や汗をかいてて、山賊に襲われた時のように、またしても救いを求める様にユーリーさんを見ていた。








 「僕の名前、何でしたっけ?」








 声は、震えていた。












 「…とりあえず、今日はここで寝てもらって良いですか?」


 あの後、ユーリーさんの住むゾルバと言う街に着くまでにどうにかして自分の名前思い出そうとしたが、てんで駄目だった。友人、親戚、上司、部下、色んな人を思い浮かべて自分が何と呼ばれていたのか思い出そうとしたが、どれもこれも自分の名前に関する記憶だけ、すっぽりと抜け落ちていた。


 考えている内に気付けば街に到着しており、もう日没も迫っていた為に、今日はユーリーさんの家、つまりリーブランテ家にお邪魔することになった。


 「…ちょうど空き部屋があって良かったです。…布団を持ってくるんでちょっと待ってて下さい」


 空気は重かった。と言うよりかは、僕が勝手にまた落ち込んでいるだけだった。何から何までユーリーさんの世話になっていると言うのに、考えているのは元の世界に帰りたいと言う思いだけだった。

『き、きっといつか思い出せますよ!!』

 道中、健気にも励ましてくれた彼女のことを思い出す。しかしどうすれば良いのだ?このまま布団の中で眠って起きれば再び戻れるとでも言うのだろうか?


 「あ、あの…布団、持ってきました…」


 部屋の中央で立ち尽くしていた僕に、ユーリーさんが声を掛ける。


 「…すみません、何から何まで…」


 落ち込んでいると言っても最低限の礼儀は忘れたつもりはない。いつ借りが返せるかは分からないが、今はこの厚意に甘えておかないと、野垂れ死んでしまう。


 「…今日はもう寝ましょう。難しい事は明日考えれば良いんです」


 確かに今日はもう色々と疲れた。借りを返すとかどうとかは抜きにして、今はもう寝たい。


 「…明日、この世界の事を色々と教えます。それから考えるのも悪く無いと思いますよ?…それじゃあ、お休みなさい…」


 ユーリーさんが最後にそう言うと僕の背後でドアが閉まった。振り返ると、もう布団は敷いてあって、後は寝るだけだった。


 「…本当に、出来た子過ぎるなあ…」


 そんな独り言が出るほどだった。布団の中に入ると、久しぶりの温かさに、疲れた心が落ち着いて行く。思えばこの世界に来てからずっと気を張りっぱなしだった。目を瞑り、眠りに入ろうとする。意識がなくなるまで僕が考えていたのは、妻と娘の事だけだった。










 翌朝、目覚ましが鳴る前に起きた。珍しい事だ。今日は月曜日なので会社に行く準備をしなければならない。確か今日は雑誌のゴミの日だった筈だ。朝食は妻が先に起きてもう作っているだろうから、隣で寝ている娘を起こさなければならない。寝ぼけ眼で隣にいるであろう娘の肩を揺らす。




 ___筈だった。




 「…あ…」




 当然、隣には誰もいない。知らない部屋で何があったのかと寝ぼけながら頭を回そうとする。


 何で僕、ここにいるんだっけ?妻は?娘は?


 ゆっくり起き上がって周りを見回してみる。石造の壁に木製の机と椅子。床も木の床で、窓が一枚。いかにも西洋の古民家といった様な部屋だった。


 そうだ、この部屋は昨日ユーリーさんに泊めて貰った部屋だ。残念ながら朝起きて元の世界にただいまとは行かなかったらしい。


 「ふあぁぁぁ……」


 大きく背伸びをして欠伸をする。立ち上がってまずは窓の方向に向かった。外の様子を見たかった。窓から見る景色は眺望が良く、ここが2階からの景色だと分かった。


 「…日本じゃ無いな」


 部屋が西洋風なら、外の景色も西洋風だった。昨日はずっと下を向いてたので気付かなかったが、石造の壁の建物が多く、屋根はオレンジ色を基調としたものが家の壁よりも高く立っている。まるでファンタジーの世界にやってきた様な風景だ。いや、あながち間違ってはいないのかもしれないが。


 一晩寝て、だいぶ心も落ち着いた様に思う。まだ少し不安ではあるが、昨日の情緒の荒さよりかは大分マシになっている様に思えた。


 ___クぅーーー____


 その時、お腹が鳴った。思えばこの世界に来てから何も食べてない。安心したら腹が減ったのだろう。


 「部屋、出ちゃおうか…」


 もしかしたらユーリーさんが朝ごはんを作っているかもしれない。人の家を勝手に歩き回るのは気が引けたが、空腹には勝てず、僕は部屋の外に出た。


 廊下に出ると、匂いがしてきた。トマト系の匂いだ。恐らくユーリーさんが朝ごはんを作っているのだろう。階段を降りて行く。降りた階段の右側、反対側の少し離れた場所に台所があった。そして、そこには何やら料理をしている女性の後ろ姿もあった。




 「ユーリー、あんた昨日、晩御飯の当番すっぽかしたでしょ?」




 僕が階段を降りる音が聞こえていたのか、女性は振り向かないままそう言い放った。ユーリーさんでは無かった。後ろ姿からの容姿でもユーリーさんより長い髪の毛をポニーテールにまとめていたので別人だと直ぐに分かった。


 「ちょっとユーリー、聞いてんの?あんた昨日…」


 このタイミングで女性は振り返り、僕と目が合った。表情は固まっていた。




 「お、おはようございます…」




 無言の中、とりあえず挨拶だけはしておく。挨拶は大事だ。3秒ほど沈黙は続いただろうか?女性の顔はみるみると青くなっていった。




 「…き、キャアーーーーー!!!」




 朝の台所で、綺麗な女性の声が響き渡った。








 「お、落ち着いてください!!怪しいものじゃありません!!」




 「信じられるか!そんな見た事もない様なボロボロの服でどこを信じればいいのよ!!」


 朝の台所で、僕は女性に包丁を突き出されていた。喧嘩をした時の妻にもこんな事はされたことが無い。両手を上げて危害を加える事はないと必死にアピールするが、女性は興奮しているのか、僕の話に耳を傾ける素振りは無かった。


 「早く出て行け!!さもないと命はないぞ!!」


 「だから話を…!」

 女性にしてはあまりの剣幕だったので僕もかなり気圧されてしまう。本当に刺されそうな勢いだった。無理もない。朝起きて、自宅にボロボロの服を着た知らない男が紛れ込んでいたら、誰だってまともな人だとは思わない。


 …どうやってこの状況を切り抜けようか。そんな事を考えていると、2階の方から忙しない足音が聞こえて来た。凄い勢いで階段を降りてくる。




 「ちょっとお姉ちゃん!!なにやってるの!?」




 慌てた表情で降りてきたのはユーリーさんだった。僕と包丁を突き出している女性の前に立って"お姉ちゃん"と言った女性を睨みつけている。…ん?




 「え、お姉ちゃん?」




 その言葉が出たのは、僕からだった。










 「いやー、すみません。いきなり知らない男が現れたもので、まさか妹の男だとは知りませんでした…」




 「ちょっと!?お姉ちゃん!?」


 悪びれもせずそう言うユーリーさんの姉に僕は「は、はぁ」と、苦笑いすることしか出来なかった。先程の鬼気迫った表情とはえらい違いで、快活に笑っている。


 リビングのテーブルには僕の隣にユーリーさん、対面にそのお姉さんと言った様な形で座っていた。 机の上にはトマトのスープが置いてある。


 「あたしは『シェリン・リーブランテ』、ユーカの姉です。妹と同じでこの街で考古学者をしています。よろしくお願いします」


 「よ、よろしくお願いします…」


 ユーリーさんの姉、シェリンさんが軽く頭を下げて挨拶したので僕も深く一礼する。


 姉妹とは言うが、妹のユーリーさんとはまた雰囲気が違った。栗色の腰までかかる長い髪の毛をポニーテールにまとめていて、目もユーリーさんみたいな青色では無く、明るめのブラウンの色をしていた。それに背が高く、出るところが出ているからだろうか、"大人の女性"と言う風な第一印象だった。


 「いやー、19歳にもなって男の一つも出来ないんで心配してたんだけど、ようやく連れてきてくれた様で安心したわ。しかも年上と来た」


 「う、うるさいよ!!お姉ちゃんだって22にもなって彼氏いない癖に!!」


 「あぁん!?」


 シェリンさんの圧に、ユーリーさんが怯んでしまった。


 「うっ・・・と、とにかく!!この人はそう言う人じゃ無いって!!」


 顔を真っ赤にして必死に弁解するユーリーさん。しかし、若いとは思っていたが、まさかまだ19歳だとは思わなかった。


 …それにしては反応が生娘過ぎる気がするが、絶対に口に出してはいけないと思い、口を紡ぐ。


 「分かった分かった。それで、あなたの名前は?彼氏じゃ無いにしろ、名前くらいは教えてよね」


 「え!?は、はい。えっと…」

 心臓がどきりと跳ねる。そうだ、今僕は、自分の名前を忘れてているのだ。どうしようかと目を泳がせていると、言葉を発したのはユーリーさんの方だった。




 「…お姉ちゃん、この人はこの世界に来たばかりで、自分の名前を忘れているの」




 大真面目な顔でユーリーさんがそう言うが、シェリンさんは案の定"何を言っているのか?"と言う風な呆けた顔をして聞いていた。








 「はぁー!?異界者ー!?」


 呆けた表情から、信じられないと言った表情に変わってシェリンさんはユーリーさんの説明を聞いていた。森での一件からここに至るまでの経緯を包み隠さず説明していたが、どれもこれも信じられないといった表情だった。


 「うん、このままだと死んじゃうかもしれないから家に連れてきたの」


 まるでペットの様な物言いだ。シェリンさんは依然、唖然とした表情で僕の方を見る。


 「…確かに着ている服は私達のものとは違うっぽいし、その…異界者さん?が嘘を吐いてるとも思えないわ。…でも…そんな事って…」


 恐らくこれが正しい反応だろう。あの森でユーリーさんは無条件で信じてくれたが、本来なら中々信じてもらえないのが現状であろう。


 「…ちょっと確かめたい事があるわ。少し待ってて頂戴」


 シェリンさんはそう言うと立ち上がってリビングから立ち去った。何かを持ってくるつもりだろう。








 「…お姉ちゃん、これって…」




 シェリンさんが持ってきたのは一冊の資料集の様なものだった。ユーリーさんが驚いた顔をしている。


 「…これは?」


 「…私達の兄が集めていた"異界文字"に関する資料です。異界者が最初に現れたのは500年前、まだ人間と魔物が戦争をしていた時代です。…ちょうどいいですからここら辺の話もしておきましょうか」


 シェリンさんがそう言うと、この世界の歴史について教えてくれた。






 異界者が最初に現れたのはおよそ500年前、その頃のシーア大陸では人間と魔物が戦争をしていた。魔物との力の差は圧倒的で、人間はあっという間に追い詰められた。大陸の殆どを奪われ、もう人類が絶望の淵に立たされた時、異世界から4人の人間が来たと言う。その4人は、今までのどの人類とも比べ物にならない程の膨大な魔力を持っていた。4人はその力を以って、次々と魔物を倒していった。奪われた国土を次々に取り返して行き、遂には魔王と呼ばれる最後の敵を倒した。


 この功績を讃え、異世界から来たこの最初の4人は"救済者達"と呼ばれる様になった。




 「…これが異界者と呼ばれる人たちの、最初の伝説です。その後も何人か異界者は現れました。しかし200年前、最後の人が現れてから、この異界者と言う存在は半神話的な存在になって行きました」


 シェリンさんの説明を聞いたが、本当に神話の様な話だなと思った。しかし、僕が知りたいのはそこでは無い。


 「…えっと、その後の異界者達はどうなったんですか?一生このシーア大陸で暮らしたんでしょうか?」


 僕が聞きたいのはその後だ。魔王を倒し、この大陸を救ったと言われる救済者達も、その後に来たと言う異界者達も、元の世界に帰れたのだろうか?


 「…私が森の中で言った遺跡の事を覚えてますか?シロン公国にある、ハジマ遺跡の事です」


 そうだ。ユーリーさんはあの森の中でその遺跡に行けば帰れるかもしれない。と言っていた。


 「ハジマ遺跡には"異界の扉"と言うものがあって、異界者達はその扉を潜って元の世界に帰って行ったと伝えられています。その扉は異界者じゃ無いと開けられないと言われていて、もう何年も扉は閉まったままだそうです」


 ユーリーさんの言葉に頷く。そりゃ200年も異界者が来なかったなら、今生きている人が、その扉が開いているのを見た事は無いだろう。


 「…それで、異界者についての説明はこんなものですけど、あなたが本当に異界者なのか確かめさせて貰っていいですか?」


 そう言ってシェリンさんは一冊の資料集をテーブルの上に置く。表紙には日本語では無い、よく分からない言語が書いてあった。アラビア語と、古代のエジプト語を組み合わせた様な、見た事もない文字だった。




 「…何ですか?この文字」




 これが異界文字と言うものだろうか?こんな文字は僕のいた世界では存在しなかった様に思う。


 「いえ、この文字は私達の言語、"アムリ語"です。…と言うか、読めないんですか?アムリ語で私達と会話出来てるのに?」


 ユーリーさんがそう言って怪訝な顔をする。アムリ語?何だそれ?今僕がユーリーさん達と話しているのは日本語では無いのか?


 「今僕が話しているのは日本語じゃ無いんですか?」


 「ニホンゴ?…そんな言語、このシーア大陸に存在したっけ?」


 ユーリーさんは考えている様だが、どうも思い当たる節が無いようだった。


 「…しないわ。…異界者さん、あなた本当にアムリ語を全く知らないんですか?」


 「は、はい…」


 僕の顔をじっと見ると、シェリンさんは少し考える素振りをする。


 「…そうですか。ともかく、異界文字を見てもらいましょう。何か分かるかもしれません」


 そう言って、シェリンさんはページを数枚捲る。


 「…異界文字は異界者達が遺したとされる文字です。私達の兄はその研究をしていて、色々資料が残っているんです」


 ユーリーさんがそう付け加えると、シェリンさんがあるページを見せつけて来た。




 「こ、これって…!!」




 日本語だった。書かれていたのは、かなり下手な字ではあるが、紛れもなく日本語だった。


 「日本語じゃないですか!!これです!僕が使っていた言語は!!」


 ユーリーさんは驚いていたが、シェリンさんはやはりな、と言った表情だった。


 「…やっぱり。あなたの言うその日本語が私達の世界では"異界文字"と呼ばれています。…因みにこれがなんて書いてあるか分かりますか?」


 そう言ってシェリンさんは資料のある一文を見せてきた。


 「えっと、"今日は魚を食べた。鮭に似た様な味で、名前はオスボールと言うらしい。かなり美味しかった"と書かれています。日記か何かですかね?」


 ユーリーさんとシェリンさんはかなり驚いていた。なんでその文字が読めるのか?そんな表情だった。


 「す、すごい!すごいです!!お兄ちゃんでさえ異界文字を解読するのに8年も費やしたのに!本当に異界者さんは異界から来たんですね!!!」


 ユーリーさんが興奮して僕の手を掴んで来た。自分では普通に文字を読んだだけなのだが、こうも尊敬の眼差しを向けられるとなんだか照れる。


 「…ハァ…本当に異界者らしいですね。…まさか本当に存在したなんて思わなかったわ…」


 「え、えっと、事情は分かりました。それで僕は、この世界では異界者であって、その、ハジマ遺跡にある異界の扉を潜れば、元の世界に帰れるかもしれない。と言う訳ですね?」


 要点をまとめるとこうだ。500年前やら200年前やらの昔話に縋り付くしか無いのは不安しか無いが、今のところ、帰る方法はそれしか見当たらない。


 「ええ、ですがこのウィルズレイからハジマ遺跡のあるシロン公国まで3ヶ月も掛かります」


 シェリンさんの言う通り、問題はそこだ。この世界のことを何も知らず、手ぶらで3か月も生き延びられるかと聞かれたら、僕は全く生きていける自信がない。先日のように山賊に襲われて死ぬのが関の山だろう。


「…それで、あなたが本当に帰りたいと言うのなら一つ、提案をします」


 シェリンさんが真剣な顔で僕を見つめてそう言う。


 「これから1ヶ月間、私達の元でこの世界の常識や、アムリ語を、教えてあげます。その後に、シロン公国に向けて出発すればいいでしょう。その代わり、条件があります」


 条件?何だろうか?この世界の事を何も知らない僕が、何かできるとは思えないが・・・


 「私達にもあなたの居た世界の事を教えて下さい。私達も考古学者の端くれ、あなたの、”異界者”の居た世界の文化や歴史、言語には興味があるんです」


 シェリンさんの提案、それは、”僕が生きてきた世界の情報提供”だった。考古学者の彼女たちにとって、200年ぶりに現れた異界者の情報は参考になるのだろう。僕としても嬉しいものだった。しかし、金も稼げない自分がただお世話になるのは気が引けた。


 「そんな・・・一か月もお世話になるなんて・・・」


 「このまま行ったらまた山賊に襲われるかもしれませんよ?大丈夫です!!私たちがちゃんと面倒を見ますから!!それに、私たちは考古学者ですから、異界者さんの話を聞くだけもでお金になるんです!」


 ユーリーさんが推すようにそう付け加える。・・・確かに、今ここで旅に出て野垂れ死ぬよりもこの家でお世話になった方がいい。それに仕事があるのも大きかった。何もせずにお世話になるより、随分と気持ちも楽になるだろう。


 しかし、素性も分からない僕を匿ってくれるその優しさに、まだ遠慮がちになる。


 「・・・本当にいいんですか?」


 恐る恐るそう聞いてみる。しかし二人は笑顔だった。シェリンさんは優しく、ユーリーさんは元気のいい笑顔で。


 「ええ」


 「はい、大丈夫ですよ。むしろ私はそうして欲しいです!」


 胸から熱いものがこみ上げる。不安しかなかったこの世界で初めて希望を持てた。この二人の優しさが心に染みた。




 「ありがとうございます・・・一か月間、お世話になります・・・」




 不安が和らいだ途端、なぜか涙が出てきた。

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