第5話 積年の夢

「……うん。人は、やらずに後悔するよりやって後悔するほうがいい」


 ある日、MIPは腕を組んで背筋を伸ばし、外を見ながら一番近いSPに言った。外は薄暗く、強い風が吹いており、そして強い雨が降っている。MIPの口調には、強い決意が見え隠れしていた。眼光は鋭く、言葉を述べた後の口は固く結ばれている。遠くで雷鳴が響いた。


「怖い顔をして、どうしました?」


 返事はかえってこない。MIPは微動だにしない。辛うじて、瞬きと呼吸が見て取れる程度だった。本来の戦闘力では恐るに足らないこのMIPだが、並々ならぬ何らかの覚悟を感じ取ったSPは思わず背筋が震えた。何かを、あまつさえ警護対象を見て震えるなど、SPとして慚愧に堪えない。しかしこのMIPには恐ろしいほどの畏怖を抱くことが多々あるのもまた事実。獣医学を極めしMIPだが、ひとつのことを極めることは時として全てを極めることと同義であるとも言う。

 このMIPは、これまで警護した経験のあるVIP──後天的な努力の塊、先天的な才能の塊、そして運の塊──とは違う。SPというのはセキュリティポリスの略だと言われているが、サーバント召使いポリスだと自嘲気味に話し合う者もある。警護対象も含め、外からはただ黙々と滅私で警護をしているように見えるが、実際は警護対象の細かな変化を逃さず、次の挙動を推測して邪魔にならないよう常に心がけている。こうした弛まぬ努力の果てに「無」となり、警護終了時に「空気が薄かったね」「いるのかいないのかわからなかった」と言われることがSP至高の名誉である。

 MIPは違っていた。時々雑談などを話しかけて来る。警護に支障がない程度であれば、雑談にも応じることが許可されている。これまで詳細に様々なVIP達を見てきたからこそ、SPにはわかる。このMIPは努力家にも天才にも運が良くも見えない。しかしいずれも兼ね備えていることは火を見るより明らかである。努力、才能、運、どれもその程度が計り知れない。

──おそらく一周以上まわって、そうそう凄くは見えないのだろう

 MIPはまだ無言で微動だにしない。「姿勢を変えないこと」もまたひとつのスキルだが、MIPにはこのような能力もあるのかとSPは舌を巻き、しかし思い直した。MIPは元上席王宮獣医官、このような儀礼的行動も多少は身についているのかもしれない。ともあれ、こちらからの返事はした。これ以上、SPの側から突っつくこともない。 


「人は、退いてはならない時がある──」

「だから、どうしたんですか?」

「──今がそうだ」


 MIPはフッと全身の力を抜いた。


「『異議あり!』を、やりたいんだ」

「やればいいじゃないですか、いくらでも。聞いてて差し上げます。証人尋問ごっこのために何人か呼んできましょうか?」

「そうじゃないよ」

「バク転裁判でしたら来週に新作が出ると聞いておりますが」

「バク転裁判でもないよ。本物の法廷で、検察側か弁護側に立って、『異議あり!』ってやりたいんだ。こないだ弁護してくれた軍司法官※1を呼んで」


「お見えになりました。今は軍司法弁護官になっていらっしゃいます。こちらに起こし頂いていることは彼女の本来業務ではありませんで、あくまでもご好意に頼っているとご理解ください」


「久しぶりだね。もう軍司法弁護官だって?」

「あのあと少しして、拝命致しました」

「求刑と被告人の希望をうまく掬いあげた判決に導いた、良い弁護だったと思ってるよ。ありがとう」

「恐縮です。本日は折り入った御用と伺いましたが?」

「弁護官は学生のときどれくらい勉強した?」

「は?いや、全然勉強しないで遊んでましたが」

「検察側でも弁護側でもいいんだけど、『異議あり!』がやりたいんだ。全然勉強しないで遊んでても出来るようになれるの?」

「帰らせていただきます」

「待って、ちょっと待って」


軍司法弁護官は事態を理解して、ため息をついた。


「要するに、MIP先生は本気で司法試験を受けるおつもりなのですか?」

「受ける。そういう嘘はつかないよ」

「法廷で異議申し立てをしたい、ただそれだけのためだけに?」

「司法試験を受けなくても出来るならそうしたいけど、受けなきゃ出来ないなら受けるよ」

「わかりました、そのお覚悟はわかりました。それで私に出来ることは?」

「何かわからないことがあったら質問させてもらえないかな?」

「わかりました」

「あと参考書の相談も乗って貰えるかな?ネットで調べた押さえておきたい本として『やさしいほうりつ』と『たのしいほうりつ』それから『超高難度挑戦的最難関法解説』の三冊と六法全書は準備して、あとネットのe-Gov※2はブックマークに入れたんだけど」

「その三冊があれば、ひとまずは問題ないと思います。注意点として『やさほう』では条文の読み方に絞って勉強すること、『たのほう』では法律の下の、政令や施行規則などの概念※3、『超法』では文字通り最終関門として位置づけていただければと思います。六法全書は当然として、e-Govまで押さえていらっしゃるとは、さすがです」

「何年くらい勉強すればいいかな?」

「確定的なことは言えませんが、早い人で1〜2年、遅ければ永遠に受かりませんね」

「なるほど……」

「MIP先生は獣医師業の傍ら勉強されることになりますので、けして楽ではないと思います。とはいえ何度落ちても何度でも受けられますし、幸運をお祈りします」

「ありがとう、助かったよ。明日から本気出す」



※1 不死の刑

https://kakuyomu.jp/works/16816452219827618889

※2 e-Gov 各種法令検索を含む政府ポータルサイト(日本国の場合)

※3 法律で、条文が煩雑になる場合や臨機応変さが求められる事項については法律の下で発令される政令や施行規則で定める

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