作品

 何のために作品を書いているのか、と問われれば、逡巡したのち、自分のために書いている、と私は答えることができる。では、自分にどういったことをもたらすためなのか、と言われたらこれは難しい。私が感じている理由は複雑すぎてどこに根を張っているのか、自分自身ですら分からないものだからだ。

 そこで作品について考えてみると不思議なものでぱっと見は現実世界の模倣、またはそれを改変した世界でのとある視点から語られる、人生の一時を描写しているに過ぎないからだ。それは詩や音楽、絵にしても同じことが言える。すると、では何のために自分は、いや人間という存在はそういったものを考えるのだろう、と不思議に思うわけだ。一時抽象的なことだけを扱おうとした時代もあったようなのだが、結局は現実とつながっていなければ、見たことがあるものが無ければ我々は想像し、理解し、納得することはできないわけである。

 愛とはなんぞや、正義とはなんぞや。こういった抽象的なものというものは、その言葉を作った我々人間ですら認識していないのである。漠然とした、見たこともないものである。物質ですらない、単なる概念である。ただ、このような言葉ができたのかは細かいことは専門家に任せるとして、私が思うに、様々なシーンを見てのなんかしらの共通点を見出したから、出てきた言葉であるのだろう。ただ数学のように細かく定義することはできない。数学における例えば分母に0を置くことができないという例外のような、見ないふりをすることもできない。確かにあるはずなのに、上手く言い表せない。それを人間という存在はもとめているのであろう。人間の存在理由の一つを知りたいわけであるから。普段私たちはそんなことを考えるわけではないが、ふと立ち止まり思いつくと、自分の中には何もないかのような感覚を持つ。それは別に不思議なことでもない、当たり前のことだからだ。基本私たちは私たちの生命活動を維持することを優先し、その重要性がそのままであるにせよ、考える余裕というものが存在するとやはり他の物を見つけようとする。自らの欠陥を補おうとする。自分の中にある不確かな存在を見つけようとする。

 そうなると作品を書くことは何なのか、と言われると、一種の再現を通して私たちが見たいとするものを見ようとする努力の結果なのかもしれない。書かなければ私たちの頭は漠然とした思考になってしまうから、書くことによって整理し、理解しようとする。ただ模倣しただけでは、それは表面をなぞっただけで、何も得るものがないのである。いわゆるパクリが悪いことであるという認識は、確かに作者の権利を守ることであるが、それだけではなく作者が人間の存在理由を見つけ出すためにした功績を奪い、我がものでいる存在がいることに作者に対する尊敬の念を踏みにじられたので腹を立てているから、なのかもしれない。

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