私、水精霊は好きだけど雷精霊は嫌いです ~やたらと命を狙われます~

スミレ

第1話 頭皮には反射光を、手には魔法のステッキを。

 腰まである長い髪が顔にかかって邪魔っぽい。

 ついでに無駄に大きな胸も机につかえて邪魔っぽい。

 家に近いからという理由で通っている高校の、二年次教室の窓際中央席。に、突っ伏す私。

 今日も今日とて、空は青くて雲は白い。

 BGMが世界史教諭の”堕落する呪文”でなければ、ぐっすりと眠れそうなのに。

 せめて何か書いているフリくらいはしてくれよ……、という中学時代の恩師の言葉をふと思い出す。たしかに少し悪いことをしたな、と反省したものだ。

 私は残り僅かな集中力を総動員して、右手に掴んだボールペンを動かしていった。

 綿々と教え伝えられてきた世界的な偉人の載った教科書に、私なりに必要だと思う部分を書き足していく。

 頭皮には反射光を、手には魔法のステッキを。

 これは……。

 意図せずに偉人の業を深めてしまった。

「私にこんな才能があっただなんて、まさか……私って天才なのでは?」

 正面やや斜めから撮られた被写体は、顔をきりっとこちらに向けて姿勢正しく立っている。ボタンの上まできっちり締めた堅苦しい濃紺色のワイシャツに身を包み、口元を固く結んでいる。

「に……には、にはは……」

 笑ってはいけないと思うのに、頬が弛む。偉い人なんだ。敬意を、敬意を感じるんだ、私!

 見れば見るほど、威厳のいの字も感じられない。

 笑うな、笑うな。

 第一の門、エクボは解禁され、続いて食べる時には便利な大きな口が開いていく。これで、喉にある警鐘が盛大に揺れた時には既に遅しだ。

「には、にはは……ふぅ、っく…………にははは……ふう」

 腹筋がひくつく。

 不規則に息継ぎをしながらボールペンを赤に持ち替える。現状を好転させようと――鎮魂の気持ちもちょいと込めて、諸悪の根源に三本の短い斜線を加えた。

 頬を染めた真面目な尊顔と目が合う。

 私の絵心の才は天邪鬼的にも作用するらしい。

 可愛くない! っぷ! これじゃーまるで、ギャグマンガに出てくる大人に成りきれなかった変態オヤジみたいだ。

 喉の奥がにはは! と笑いたくてウズウズする。この果てしない笑動は、限界に近づいた尿意を堪えるより難しい。

 お願いだから、そんな目で私を見詰めないで……。

「にっはははは!!」

「――今から約百二十年前、近藤 康介(こうすけ)は晩年に光精と親しくなり、それまで謎の多かった光精の生態の一部を解き明かしました。どのようなことを解明したのか、具体的な例を……川澄さん、答えていただけますか?」

「には! ふーぅ。にはは……ぷぅ、…………はい? え、私?」

 舌の付け根で出たり入ったりしていた笑いが、嘘のように消え失せ、頭がパチンと切り替わる。

 三十名いる室内が静まり返っていた。

 密かにふざけ合っていた他生徒たちも、私の二の舞は演じまいとじっとしている。

 『真面目に授業を受けない生徒はこうなるぞ』という見せしめにされた。

 これが偉人を貶めた罰だとでもいうのか。

「にはー、はっ、は…………は……考えます」

 乾いた笑いが勝手に漏れる。

 女教諭の色のない笑みに気圧されて、私は教科書に逃げ込んだ。しかし、ここはまるで迷宮だ……。

 と、とりあえず、考えるフリだけでもしておこう。

 私たちの身近には古くから精霊が側にあった。

 水辺に行けば水精がいるし、火山に行けば火精が、雷雲には雷精、山奥や洞穴には土精がいる。暗精と光精は明るさに拠(よ)ってどこにでも現れる。

 しかしまあ、人間社会に馴染んだ精霊はこの傾向が薄い。

 一度公園へと赴けば、蜂や蝶を見かけるような手軽さで、水精や土精に出会うことができる。

 件の光精は、精霊の中でも希少な存在で、人に懐くことはほとんどない。何かに固執することなく、すべてのものを遍(あまね)く照らす、これが光精の性質だからだ。

 極々例外的に、人間と共にあろうとする光精が存在する。これらは変わり種と呼ばれ、世界に十匹だけ確認されている。

 ――いや、だからなんだって話だよ! 分からないものはいくら考えたって分からない。だってそもそも知らないんだもん!

 黒板を背にした美スタイルのアラサーの女教諭と視線を交える。

 教科書の変わり果てた偉人が、今までの私の中ボスとするなら、彼女はこの教室を牛耳る大ボスだ。

 ここ!

「……っ」

 私は数々の修羅場を乗り切ってきた表情筋を使って、ヒント哀願攻撃を仕掛けた。

「…………」

 にこりと微笑む女教諭。

 く、効果は今ひとつのようだ。

 女教諭は顔を伏して、手にした教科書を指で繰り返し小突く――私を急かしているのか? 攻め入る隙を見い出せない。堅牢な要塞だ。取り付く島もないとは正にこのこと。

 降参。ギブアップ!

「すみません。わかりません」

「そう言わずに、川澄さんもうちょっと頑張ってみてちょうだい」

 無慈悲かよぅ。

 優しいのは声色だけだ。その心には鬼でも巣食っているのか。いくらなんでも酷くないかな。

 高校という場所は、実社会での生き方を甘々な環境で学べる場所ではなかったの? こんなに必死に助けを求めている可愛い教え子に、ムチを与え続けるなんて。

 私に飴をくれる心優しい人はいないの?

「なに答えに詰まってんだ? 教科書に普通に書いてあるだろ」

「へ、そーなの?」

 重圧に溺れてあわや窒息しかけていた私に、後方から助け舟がやってきた。

 これか!? 私はたゆたう船に乗り込んで、弱気から奮起してビックウェーブに対峙する。心境的には『いざ往かん! 鬼退治へ!』って感じだ。

「光精がよく死骸の近くに出現するのは、魂を浄化するためと古くから考えられてきたが、その身の光を当てることで腐敗を促進し土地の負担を減らすためである、と彼は突き止めた……です」

「はい、川澄さんどうもありがとう」

 女教諭は一段と顔をほころばせた。――鬼が泣きながら去っていくのが見えた。気がした。

 や、やった……私の心は平和を取り戻した!

 私はいつの間にか正していた背筋を再度丸めて、頬をほの字に染めた近藤 康介をすこし恨んだ。 

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