第3話 後輩がご乱心な件について
途轍もない疲労感を覚えていた。
せっかくの慰労会だというのに、散々な目に遭った。
無論責めるべくは、異性に免疫のない自分自身だ。もう少し女の扱いに慣れていれば、もっとスマートに問題を解決できていただろう。なんて情けない男なんだと忸怩たる思いに気が沈む。
騒々しい同僚たちに背を向けて、最寄りの駅へと続く道をとぼとぼと歩いていると、
「あの、せんぱい」
ふと背後から声をかけられた。
顔だけ振り返ると、気まずい相手が立っていた。飯田明里だ。
街灯に照らされたその顔にはほんのり朱が差している。おそらくはアルコールのせいだけではあるまい。
「先ほどは教えてくれてありがとうございました」
俺が身体ごと向き直ると、彼女はおずおずと続けた。
「危うくお嫁に行けなくなるところでした」
「あぁ……うん」
狼狽えつつ、なんとか気の利いた返事を捻り出そうと思考を回す。
「つ、次から気をつけろよ。服装の乱れは心の乱れにも繋がりかねんからな」
言った後で、とんちんかんな返しをしていることに気づく。
いかんいかん。自分の方が年長者なんだから、上手くアフターケアしなくては。
明里は顔を上げ、まごまごと視線を彷徨わせながら言った。
「えっと……いつから気づいてたんです?」
ギクリとして、背中を冷たい汗が伝った。
俺が返答に窮していると、明里は頭を抱えるようにして、うめくように続けた。
「だから榎本さんを連れてきたんですね。ああ、いつからまる出しだったんだろ……せんぱい、正直に答えてください!」
正面からじっと見つめられ、バクバクと心音が高まる。
背徳感が忍び入り、堪らず俺は明里から目を背けた。
「い、1時間くらい前だったかな」
ぼそりと囁くように答えた。
すると明里の表情に明確な変化が生じた。驚きから目が大きく見開かれ、眉根には深い縦皺が刻まれた。
「1時間前!? ちょ、ちょっと待ってください。あたし、そんな前から醜態を晒してたんですかっ!?」
俺は苦笑して頷く。実際はそれよりもっと前だが、もはや正直に言える空気ではなかった。
明里は一歩詰め寄り、眉尻をつり上げて追及するような目を向けてきた。
「要するに、店内にいた時からですよね? なんで気づいた時に教えてくれなかったんですか?」
痛いところをつかれて咄嗟に当惑する。その隙が命取りだった。
明里はハッとした表情となり、一歩後ずさりした。それから上半身を抱きかかえるような体勢となって、ジトッと湿り気のある視線をこちらに寄越してきた。
「まさか、あたしが気がつかないのをいいことに、隣でたっぷり観賞してたんじゃないでしょうね? ……そういえば、今日は妙に口数が少なかった気がします」
「はあ!?」
あらぬ嫌疑をかけられ、思わず大きな声が出た。
道行く人々の注目を買ってしまったのを肌で感じたが、今は気にする余裕もなかった。
「他人の苦労も知らないで、ヘンタイ扱いしやがって」
「どういう事情があったにせよ、長時間あたしのブラ紐を見続けてきたのは紛れもない事実なんでしょ? そんなの、絶対いろいろ想像されちゃってるじゃないですかっ」
「くっ……」
あまりの気炎に、つい怯んでしまう。
隙あらば明里は目の色を変えて、さらなる追撃を仕掛けてきた。
「せんぱいがそんな人だとは思いませんでしたっ。いたいけな後輩をおかずにするなんて、最低です! 鬼畜です! 外道の極みです!」
「おいっ、声がでかいって……」
肩を竦めて周りをうかがう。気づけばギャラリーが集まり、好奇の視線に囲まれていた。
俺はヒートアップしている後輩に小声で促す。
「とりあえず、移動するぞ」
彼女の方も悪目立ちしている状況を察したのだろう、まだ何か言いたそうな顔を浮かべていたが、ここは無言で頷くに留めておいてくれた。
そうしてふたり並んで駅の方へと歩き出した。
5分も経たないうちにネオン街を抜け、人通りの少ない路地に入った。
静謐な夜の空気を吸い込んで、やっと心が落ち着きを取り戻してきた。
「今日はすまなかったな」
俺は正面を見ながら言った。
隣から、え? と声が返ってくる。
「俺がチキンだったばかりに、お前に要らぬ恥をかかせてしまった。派手な色だったから、他に気づいてた奴もいただろう。俺はそんな下劣な野郎どもと同類だ」
「そんな……謝らないといけないのはあたしの方です。もともとあたしの不注意が招いた粗相だったのに。恥ずかしい思いが爆発して、ついせんぱいに当たってしまいました」
本当に申し訳ございませんでした――細々とした声で、明里は最後に言い添えた。
隣を歩く彼女の様子をうかがうと、俯いた横顔は萎れていて、反省の色がありありと浮かんでいた。
俺は吹き出した。いい大人がこんなことで熱くなっているのが急に馬鹿らしくなったのだ。
明里は俺の方を見て、怪訝な表情を浮かべた。
「どうしたんですか?」
「いや。いつもそんな風にしおらしくしていれば、もっとモテるだろうにと思ってな」
明里は少しだけ機嫌を損ねたように唇を尖らせて、正面に向き直った。
「大きなお世話です」
「そいつは失礼しました」
憎まれ口を叩きつつ、静かな夜の道を足並みを揃えて歩く。生ぬるい五月の風がそっと頬を撫でた。
それからしばらくのあいだ沈黙が続いたが、不思議と気まずさは感じなかった。
地を蹴るふたつの靴音を耳にしながら、俺は榎本ちえりの言葉を思い出していた。
――あの子に気があるんでしょ?
確かに俺は飯田明里に対し、決して悪くない印象を抱いている。いちばん気心の知れた同僚が彼女であることは間違いないし、少なからず好意を持っていると認めてやってもいい。
とはいえそれが果たして恋愛感情なのかと問われたら、なんとなく首を傾げたくもなるのだった。
俺も男だ。彼女のブラ紐を見て、微塵も劣情を催さなかったといえば嘘になる。だからひとりの『異性』として見ていることは確かなのだが、それを恋愛感情とひと括りに定義してしまうのは些か乱暴な気がした。
たとえば普段の彼女と接する中で、胸のときめきなんかを覚えていようものなら、その気持ちをそのまま恋愛感情とみなしていいかもしれない。でも彼女と接していて、もしくは彼女のことを考えて、日常的にそういった感情にはならない。強いていえば今日初めて、彼女を見て胸のときめきを覚えた。しかし、その相手はたぶん飯田明里じゃなくてもよかった。同じシチュエーションであれば誰が相手でも同様にドキドキしていたと思う。ならばこれは恋愛感情というより、オスの本能に近いもののような気がする。
俺は一時の気の迷いを振り払うように、夜の空を仰いだ。満天の星空が広がっていればあるいは運命を感じたかもしれないが、あいにくの曇り空で月さえも見えなかった。
もう間もなく、駅に到着する。そんな折に、明里は言った。
「お詫びさせてください」
反射的に、えっ、と声を発して足を止める。
明里は口元に微笑を浮かべてから、明後日の方向に視線を移した。
つられてそちらに視線を遣ると、その先に小さな公園があった。
明里は小走りで公園の入り口に向かった。その端に設置されている自動販売機の前に立ち、乱れた前髪を整えながらこちらを振り返った。
「ちょっとだけ飲み直しませんか? ここはあたしが持ちます」
自販機の白光を浴びる明里の横顔は、まだ少し茜色に染まって見えた。
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