シィライトミア領域・1-2

「……でも、お山を開くなんて、本当に大変な苦労だったでしょうね。その苦労が成果として結実して、よかった」

「まあ、自然の場所である無人の山を切り開いたから、『不思議のシィライトミア領域』なんてヘンテコな場所になったなんて、そんなことも言われてますがね」

「不思議のシィライトミア領域……」


 ――ようこそ、不思議のシィライトミア領域へ。


 と出会ったあの晩の光景が脳裏に蘇った。


「他の領域よりも、起こる不思議に恵まれるということですか? 私はまだ、霜奔りしか不思議を目にしていないけれど……」

「アリアメル連合の不思議というのは、目に分かりやすいものだけでなく、当たり前みたいな顔をして身近に根差している現象だって多くあるんですよ。リプカ様もシィライトミア領域突入初日から、ずっと目にしているはずですよ」

「え……。な、なんだろう……?」


 リプカは頭を悩ましたが、アンはもったいぶらずに、海岸沿い方向と逆の後方を指差した。


「シィライトミア領域入り口のお宿は高所にあったと思いますが、あそこも他と変わらず、水量豊かじゃありませんでした?」


「ええ、アリアメル連合らしい景観に、高所の景色の美しさが不思議に混じり合った、幻想的な――……あれ?」


 言っていて、おかしさに気付いた。

 ――おそらくだが、通常、水は上方向には登らない。


「――だとしたら、あれは、湧き水ですか?」

「そうなんですけどね、――どう観測しても、山が貯蔵できる限界水量と、見合わないんですよ。観測できないそれ以上が、どこかしらから湧いて出てきているというワケ分からん現象が、いたって普通みたいに起こっているのに、まあ、そういうもんかと、そんな感性で片付けられているわけです。そんなんばっかですよアリアメルは」

「…………」


 そんなふうに沈黙してから、「なるほど……」なんて返答をして。

 そうして、その会話も一区切りを見て、四人はなんとなしに、アリアメルの地を見渡した。


 僅か潮の混じった風が吹き抜ける、心地よく平和な時間。


 しかし、新しく聞いた話を踏まえると、また違って見えたその輝きの風景に――リプカは僅か、灰の薫りを嗅いだ。


 光を遮る暗い雨雲を刹那、幻視する。

 そんなはずはないのに。


 目を瞑って、意思を持って、瞼を開く。光が正常に溢れて、あるはずのない幻視は掻き消えた。



 そんな、ゾッとする予感が刹那過った、その僅かのちだった。


 形容するのなら、他者と自身の存在が、一瞬の間に、どうしようもなく証明されたような――そんな温もりに包まれたのは。



「…………!?」


 突然、本当に突然――背に、柔らかいものを感じて。


 驚き、首を回してみれば、オーレリアがわざわざ靴を脱ぎ、椅子に乗りながら、人目も憚らず、リプカを肩からそっと、抱き締めていたのだ。


 特別な親愛を向けた者にしかしないような密着。まばらにあった周囲の目も集まる――。アンもサキュラも、目を丸く開いて見ていた。


「オ、オーレリア様!?」


 リプカは素っ頓狂な声を上げたが、返ってきたオーレリアの声は、人に落ち着きをもたらす、水面を撫でるような優しい、平静の凪だった。


「リプカ様、もう一度、ここからの景観を瞳に映して」


 言われて――リプカはなんだか分からないながらも、言われるまま、落ち着いた心情でもう一度、見晴らしのよい景観を望んだ。


 別段、先程と変わらない景色がそこにある。


「あの……ええと、オーレリア様、どうすれば……?」

「リプカ様」


 リプカの戸惑いには答えず、オーレリアはいっそうにぎゅっと、リプカを抱き寄せた。


「えぇ……っ!?」

「リプカ様、変なことを聞きますが――私は温かいでしょうか?」

「え――あの、は、はい……。とても……」


 混乱の中、『事案じあん』という言葉も吹き飛んだ思考で、ただ正直な答えを返した。


 雰囲気がふわりと和らぎ――肩越しに、オーレリアが微笑んだのが分かった。


「では、今一度、景色を望んでくださいまし」


 今度は優しくリプカの顔を景色のほうへ向けると、オーレリアは体の全面に手を回して、リプカの手を取って、言った。


「人はなかなか、景色の一つ一つを覚えてはいられないものです。たとえ、そこに覚えておかなければならない重要があったとしても。目が滑るということもあります……いいえ、そんなことばかりです。切迫、恐れ……様々な感情が視野を狭めることもありますし、気を付けていたとしても……」

「……そうかもしれません」

「だから――。リプカ様、どうか、ここから望む景色の全てに、いま背に感じている私の熱と同じ感情を、覚えてくださいませ」


 いっそうに、優しく、小さな手に力がこもる。

 小さな手は心地よくひやりとしているのに、温かかった。


「今日のこと全てに、鮮やかな温度を感じていて。そうすればきっと、貴方様は今日見た大切なことを、決して忘れないから」

「…………それは……ど、ういった、意味でしょうか……?」

「ぼんやりと眺めるだけではいけない、けれど見逃すまいと必死になっていても、多くの景色は零れ落ちてしまうものです。大切な箱の引き出しに仕舞っておきたいのなら……心で覚えた感慨で記憶しなければ」

「感慨……」

「人の温かみに触れるようなそれを、景色の一つ一つから受け取っていって。そうして初めて、未来で、色鮮やかな景色は瞳に映るのでして。――そして、それは簡単なことでして、そのためには、ねっ、私たちの温度を忘れないで。そうして、今日を過ごしてください。そうしてくだされば、私たちとしましても、とても嬉しいです」


 オーレリアは真紅に赤面しながら、それでも柔らかく微笑みかけてくれた。


「さあ――この見渡せる景色を、私たちの温度で彩り塗って。絶対、忘れさせませんよ? ね、サキュラ様、アンヴァーテイラ様」

「――うん……。この景色に、私を見せて……あげる……」

「……まあ、いいですけどね、勝手に彩り加える分には。ただ私はキャラが薄いので、忘れてしまっても、私のせいにはしないでくださいよ?」


 最後にぎゅっと、オーレリアは再び、リプカの手を握った。


「どこに行き着くのかは分からない。けれどあなたはやると決めました、そうでしょう? ――今日という日を過ごしましょう、リプカ様」


 ――僅か、沈黙して。

 リプカは静かに、その手を握り返した。


「――はー、往来で、少し大胆でした」


 真っ赤に染まった顔をぱたぱたと仰ぐオーレリアへ、少しの沈黙の後、リプカは静かに問うた。


「どうして、こんなによくしてくれるのですか?」


 エレアニカの、皇女が――。


 その問いに、オーレリアは、慣れない勝ち気な笑みを浮かべて、言った。


「そこに、押したい背中があるからでして」


 もっと早く出会いたかったな、と、ふと思った。


 なぜそんなことを思ったのかは分からない。けれどそのとき、そんなことを思って、リプカは柔らかに、微笑み返したのだった。



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