第百六話:ヘタレ

 貴族令嬢の格好をした女が、他人様のお家の廊下を全力疾走しているという奇妙奇天烈な光景に、それを目撃したお家の者は目を丸くして――そんな中。


 セラもすでに屋敷にはいないのではないかと不安を抱いたリプカだったが、激走の末、シィライトミア邸の立体的な造りである廊下を降っている途中で、その姿を捉えることができた。


 不自然でない程度に、視線を四方に散らして――彼女もまた、誰かを探している様子であった。


「セラさ――」


 足を更に踏み込みながら、大きな声で呼びかけようとしたのだが――その声は途切れることとなってしまった。


 またしても、リプカらしくなく。


 セラに意識を向けた瞬間、なにか段差のようなものに足を取られて、躓いてしまったのだ。


 相当な速度を出したままに。

 ……目の前には、階段。


「――――」


 声にならない声を絶叫しながら、せめてもの抵抗に、崩れた体勢で思い切り、踏み込みに力を入れた。


 辺りに大きく響いた踏み切りの音に気付き、セラがそちらへ顔を向けてみれば――そこには、両手を前に突き出し広げて、腰から下をエビ反り気味の体勢で上向けにした、空飛ぶリプカの姿があった。


「ええええええ」


 その言い難いシュールを体現した姿に、思わず彼女らしからぬ声を上げて。

 それでも僅かに慌てる程度で狼狽は見せず、スルーしてもリプカならそこから問題なく着地できることを承知の構えで、セラは受け止める体勢を取った。


 ぽふんと、速度はあったが質量故に軽い衝撃を受け止めて、セラはリプカを抱き留めた。


「だ――大事ありませんか? リプカ様」

「…………あ、ありがとうございます、セラ様……」


 セラの胸に埋もれたリプカは、微かに震えて赤面しながら、か細い礼の事を口にした。


 そして顔をセラの胸から引き抜くと、セラの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「セラ様、お話があります。伝えたいことがあるのです」


 この状況で、話を進めるのか――……。


 驚きと、幾ばかりかの感心が滲んだセラの表情を、リプカは赤くなりながらも、構わず見つめて続けた。


 頭を悩ます多くがあったことで見失っていた、アリアメルの地へ赴いた動機そのものである、本当に告げたかったこと。

 それを今ようやっと、リプカは長い回り道の末に――セラへ伝えた。


「絶対、大丈夫ですから!」


 それは確信を込めた、けれど柔らかな、明るい言葉であった。


 深刻を交えるでもなく、気持ちを無理矢理奮い立たせようと呼びかけるでもない、ただ自然と話しかけるみたいにして、けれど確かな意思の見える声音で――リプカを支えたセラの手を握りながら、たった一言、そう告げたのだった。


 ゆっくりと瞳を見開いたセラに、リプカは彼女に抱き付いた奇妙な体勢のまま、微笑みかけた。


「絶対、大丈夫です。色々あるけれど――セラ様は大丈夫。きっと、上手くいく! きっと、物事は良い方向に向かっている。沢山の人が力になってくれるでしょう。大丈夫。セラ様は大丈夫。――私も、付いています」


 己の力量不足や、その人の重要における影響などの諸々――。

 そのようなこととは関係ない情緒でそう伝えると、リプカは微笑みを一層明るくした。


「絶対、大丈夫」


 ――――場に、沈黙が訪れた。

 それは空気を読むことを外したような、気まずい静寂ではなかった。


 口を、少しだけ開けてリプカを見つめるセラの瞳が――僅かずつ、水気を帯びて、滲み始めた。

 ゆっくりと、染み渡るように。

 涙の渡りに痛みすら伴うような緩やかさで、やがて、浮いた滲みが光彩を暈した。


 それが水滴になってこぼれる前に、慌てて袖で目元を隠して、セラは口元をぎゅっと窄めた。


「…………。……ありがとう、リプカ様」


 抱き留めていたリプカを地に降ろしながら、いつもの声色で礼を口にして。

 影で目元を隠したまま、セラは微笑んだ。


「…………。――わざわざ、そのことを伝えに、そのためだけに、来てくださったのですか?」

「はい。これで用件は全てです」

「……ありがとう。心強いです」


 やっと表情を見せたセラの顔つきは、先程までよりも大分に、柔らかだった。

 良い具合に力が抜けていて、顔を暗く覆っていた影も薄れ、いまはその表情に、厚雲から射し込んだ光の筋のような、幾ばかりかではあったけれど……晴れやかな情緒すら表れていた。

 リプカも、陽だまりのような微笑みを返す。


 ――――ようやっと、今この時確かに、セラと向き合えた実感を得た。


「それでは、本日は、私はこれで」



 ……そう、思っていたのに。



 それを分けられた者を安堵させる、温かな情を胸内に湛えながら、リプカはセラの手を取った。


「なにかあれば、声をかけてください。そうでなくとも、お話ししましょう。そうさせてください。嫌だと言われても、私は傍にいますから」


 抱いていた思いを、隠すことなく彼女に告げて。

 それを本日の、別れの前の言葉とするつもりだったのだが――。


「――――……」


 本当に、急のことだった。


 握られたリプカの手を払い、尋常ではないというほどではないが、それに準ずるほどの強さでリプカの腕を掴み上げて。


 逆の手では、腕元辺りに手を回し、腕を掴んだ手と逆側の方向に力を込めて、力のバランスで押し付けるようにして。


 セラは豹変したような態度で、唐突の事、リプカを拘束するように押さえつけた。


「えっ」


 押さえ付けられながら漏れた、意識の抜けた呆け声。

 何が起きたのか分からず、茫然を浮かべるリプカだったが――。


「……………………」


 しかしその茫然のまま、ただ、時が過ぎていった。 


「…………?」


 ――その次に起きる行動はなかった。そのままの体勢で、空白状態の奇妙な硬直をもって、両者しばし、固まる形を取っていた。――理解は相変わらず追い付かなかったが、徐々に、その緊急の事に、鼓動が不穏な高まり方を見せ始めていた。


 ……どうして?


 頭を白く染めたまま、リプカは反射的に、いくつもの疑問を浮かべていた。――なにか、間違えてしまったのだろうか? 踏み込むべきでないところに立ち入ってしまった? 気に障ったことがあった? 彼女にとっての無遠慮を見せてしまった……?


 瞬間で様々な思いが流れたのち

 そっと顔を上げて、セラの表情を窺ってみれば――。



 そこには、血が沸騰しているのではないかと思われるほどに顔を真紅に染めた、大変な羞恥を表す表情があった。



「…………???」


 茫然と見開かれた、美しい青色の瞳と、目が合う。


 ――青色の輪郭が、僅かに揺らいだ。しかしそこに至っても、セラが何かの行動を起こす兆しは見えない。

 ワケも分からずその表情を見つめていると、自分自身に驚愕を浮かべていたセラは、ゆっくりと、手に込めていた力を緩めて、一歩、二歩と後ずさり、リプカから距離を置いた。


「…………申し訳――あの、大変な……失礼を働きました……」


 口元を押さえながら、セラは真紅の表情とは対極の、真っ青な情感の声を上げた。

 見る間に、その表情にも、蒼白の白みが現れ始める。


「…………忘れてください」


 そして一言そう言い残すと、蒼白と赤がせめぎ合う、混迷を極めた大変な表情を体ごと背けて。

 背を向けたセラは、逃げるような速足で立ち去ってしまった。


「…………???」


 セラの去った方向を見つめながら、リプカは口を半開きにして、棒立ちになってしまった。


 何も分からない。現実に起きた一連のことに、どんな事情も見出せないなんてことがあるのかと、現実を疑ったが――実際にどうしようもなく、どんな何も、理解できないでいた。


 静寂に満ちた間に、ぽつんと一人。

 茫然と佇む他なかったけれど――動揺から覚めても、セラの後を追おうという考えは持たなかった。


 去り際に浮かべたセラのあの表情は、「今ばかりは一人にしてほしい」という類いのものに思えたから。自分もそういった心情をよく思うので、それが分かったのだ……。跡を追って顔を合わせても、傷つけるだけかもしれない。


 今ほどのことが何であったのか気にはなるが、なんとなく、繊細な事情が窺えた。それに――。


 伝えたいと願った想いは、全て明かした。

 あとの問題は、セラがそれに応えてくれるかどうか、その一点。それについてはもう、どうしたって、何かをどうこうできる問題ではないだろう。


 だから、結果としてわかだまりの気持ちも残してしまったけれど……今日のところは、今度こそこれでお暇しようと、待たせている王子たちの元へ戻ろうと気持ちを切り替えた――まさに、その瞬間のことであった。



「不器用というよりは、ヘタレたところがあるでしょう?」



 ……誰の気配もない、何もなかったはずの空間から――もっと言えば耳元付近の真後ろから、突然、人の声が湧いて出たのは。




「――――エあ゛あ゛あ゛あああアアアァアあ゛あ゛あ゛ァアーーー!!!!」




 遠慮容赦のない、原初を思わせる野味に溢れたリプカの絶叫が、シィライトミア邸全域に響き渡った。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る