第四十話:はじめての当主代理

 扉を叩いたのは、出迎えたクララが知らぬ顔である、お屋敷の使用人であった。


 巻き癖のついた、艶やかで豊かな茶の髪が印象的な女性。礼の体勢から顔を上げると、髪色とのコントラストが妖艶な、透き通る黄色の瞳が露わになった。


「お話し中に失礼致します。旦那様からリプカ様への伝言がございますので」


 女性は機械調子の平坦な声で用件を告げた。


 リプカが立ち上がると再び礼の姿勢を取ったが――その態度は、どこか余所余所しい。


「あ……ヴァレットさん。……お父様からの言伝ことづて? なんでしょう……?」

「お伝え致します。旦那様は先程、奥方様と共にオルフェア家の領域へ発たれました。所用にかかる日数は数カ月を要するようです」

「え!? ――も、もう発たれたのですか……?」

「はい。つきましては旦那様方が戻られるまでの、しばらくの間、屋敷の全権限がリプカ様に委ねられます。旦那様から屋敷の維持は命ぜられておりますが、その他のことに関してはリプカ様から私たちにご命じくださいませ」


 ヴァレットなる使用人の言葉に、リプカは髪を散らせて口を半開きにした。――クララの顔も、優れないものに変わる。


(お父様とお母様が――オルフェア家のお屋敷に赴いた……? なぜそんな突然に? フランシスがいないときに家を空けることなんて、いままで一度もなかったのに)

(…………)

(お客人方がいるときくらい、一言くらい声をかけてくれても……いいのに……)


 いや、どうせ面と向かい合えば、私が代理当主を務める不安を、人間性の否定を交えて小一時間も浴びせてくるのだろうし、これでよかったのかも……。


 あまりにも明確に見通せるそんなイメージを思いながらも、この度の両親の仕打ちに、リプカは眉を下げて表情を暗くした。


 その冷遇に、悲しみと憤りを抱いて、クララも表情を俯けたが――。


 ヴァレットは続けて言った。


「この件につきましては、旦那様からリプカ様へ直接お話しするご予定でしたが――前日負った打撲の具合から医者に止められてしまったので、私のほうからお伝え致しました」

「「…………」」


 自業自得なところもあったらしい。

 二人は頬に汗を浮かべながら黙り込んでしまった。


(……もしかしたら。これも、フランシスが画策した計らいなのかもしれない……)

(私が当主代理……。皆様に迷惑がかからないようにしなくては……!)


「わ、分かりました。ありがとう、ヴァレットさん」


 リプカが礼を言うと、ヴァレットは深々とリプカへ頭を下げた。

 彼女が顔を上げて背筋を伸ばしたそのに、クララは彼女の胸元に注目した。――左胸辺りに縫い付けられた、エルゴール家の家紋が刺繍されたワッペン。彼女のそれは、よく見れば他の使用人のものより上等なアンティークであった。年季がありながら、素材の良さと丁寧な作りが光り、くすみのない美しさを表している。


(――それに『ヴァレット』という、男女どちらにもありそうな名前。おそらく彼女が【名を継ぐ者】――代々エルゴール家に仕えてきた家系の末裔でしょう)

(エルゴール家の事情に精通するお人。……あとでお話しできないでしょうか)


 クララがそんなことを思っている間に、ヴァレットは半歩下がると再び礼をして、扉を閉めて去ってしまった。


「なんというか……淡泊な性質たちのお方ですね」


 椅子に着きながらクララが言うと、リプカは苦笑を浮かべて頷いた。


「ヴァレットさんは、そうですね、そのようなお人です。でも、ああ見えて剽軽ひょうきんなところもあるんですよ。お酒が入ったときだけですが……。なんにしても、私にとっては接し易いお方です」

「そうなのですね」

「ええ。――あの、ところでクララ様……中断が入ってしまいましたが、先ほどのお話しの続きを窺っても……よろしいでしょうか?」

「あ……」


 思わず、言葉を詰まらせてしまう。

 話の腰が折れて、情動任せの言葉を伝えるには、いまは間が悪いように思えた。


「い、いえ……あの、なんでも……」

「…………? そうですか……?」


 リプカは首を傾げたが、何か大切なことを口にしようとしていたことを察したのだろう、気を遣うように深く追求はせず、話を切り上げてしまった。

 逆側に気を遣ってしまったことは、仕方がないとしか言いようがない。またしても決定的な場面はお流れになってしまった。


 クララは内心で項垂うなだれ、地にへばり付く思いで肩を落としたが――。

 しかし、「あの、このお化粧、本当に嬉しいです……!」と無垢な笑顔を浮かべるリプカを見つめているうちに、気付けば沈んだ気分もどこへやら、自然と微笑んでいた。


 まあ、今日はこれでいいか。

 そんな納得を思った。――今この時が、狂おしいほどに願い望んだ、大切な時間であることに気付いて。


 些細な不運など、もうすっかり忘れて。

 微笑みの一つに満ち足りた幸せを抱きながら、クララはしばしのあいだ、恋い焦がれた思い人との、他愛のない雑談を楽しんだ。


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