第十九話:嵐の後、二日目の朝靄


『どん底に堕ちて気付く。

 眠れる幸せの慈悲、朝起きる幸福と絶望の人間性。』


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 朝靄の香りが漂うような鳥のさえずりの音が、ぼやけた頭の中で反響を繰り返していた。

 不快に触れない、その澄んだ音色が意識に届き、まどろみから目覚める。


 リプカはパチリと瞳を開くと、がばりと勢い良く上体を起こした。


 ――靄のような不安が、頭の奥と胸内に纏わりついていた。その理由をすぐに思い出し、右隣に視線を落とす。


 手を伸ばせば触れるような間近で、クインが丸まりながら、すうすうと寝息を立てていた。


 昨晩の騒動。

 あれからクインは、涙を寝巻きの袖で拭い取るとリプカへ罵詈雑言の激情を吐き出し、それが済むとリプカの毛布を奪い取り、くるまると、そのままそこで寝入ってしまった。


 あまりの急展開に、リプカはぽかんと口をひらけたまま、しばし呆然と佇んで――ふと今更に、その騒ぎで起きてしまったアズの存在に気付き、口を半開きにする二人、顔を合わせたまま、またしばしの茫然を浮かべた。


 真っ先に無事の心配を向けてくれて、それからアズと話し合ったが、明日のために今は眠ったほうがいいかも、というアズの助言を受け、その晩はそれで眠った。――頭が真っ白になっていたせいか、あんなことがありながらも、すんなりと眠れてしまった。

 そんなことがあっての、翌朝である。


「おはよう、リプカちゃん」


 ぼうっとした意識に、朝の陽ざしのような声が射し込む。

 それだけの挨拶であるのに、不思議と気分に晴れ間が訪れたような気持ちになり、リプカははにかみながら、身を起こしたアズを窺った。


「おはようございます、アズ様」

「ん! いやー、昨晩は大変だったねぇ……」

「ええ……。――正直、楽観していた部分もあったんです。ご破算の意向を書き記した書状を送ってしまったとはいえ、フランシスならば、必ずどうにかできると考えていたから……」

「なるほど。自然な考えかも……」

「…………」


 リプカはしばし、寝入るクインを見つめると、再びアズへ顔を向けた。


「あの、アズ様、私いまから、フランシスのところへ窺ってみようと思います。あの子はすぐにでも他の要件で、またここを離れてしまうでしょうから、いまの内に」

「ん、わかった。クインちゃんは私が見ておくよ」

「お願いします」


 アズに頭を下げると、またクインへ視線を注いだ。


 クインの寝顔は静穏そのもので、二人の会話の中、起きる気配もなかった。

 もしかしたら自分と同じような性分なのかもしれない。――リプカも、一度寝入ってしまえば、並大抵のことでは起きないという悪癖を持っていた。


 ふと、考える。

 彼女がお国に帰れたとして――そこに、こんなふうに安眠できる、彼女にとっての平穏があるのだろうか?


 全ての責任を擦り付けられたディストウォール領域。そこはいま戦争に関わった他国から、またもしかすれば、仲間内であったはずの元オルエヴィア連合の領域からも、ほとんど軟禁と同義の厳しい監視の目を向けられているはず。


 見れば、昨晩遅くに来てほんの少し眠っただけだというのに――幽鬼のようであったその顔に、僅かに人肌の赤みが取り戻されていた。


 ひょっとすると今の今まで、まったく眠れていなかったのだろうか? 蝋より青いあの肌色の悪さを考えると、それもあり得る話だった。

 本当に、このまま彼女をお国へ返して大丈夫なのだろうか……?

 


 不安に襲われる。急にその安らかな寝顔が、儚く見えた。


 手を伸ばし、髪先にそっと触れる。柔らかな、自分と変わらぬ少女の髪――。


 そのあたりも、フランシスと相談しよう。

 リプカは考えをまとめると、立ち上がった。


 

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