それぞれの事情~クララ~・1-1

 ――場所は変わって。


 エルゴール家の邸宅からは遠い、ウィザ連合ラクリマ領域に置かれた、エレアニカ教徒のための聖堂、その祈りの場で――クララと、きちりと後ろに撫でた髪に白の混じる、壮年の男性とが向かい合っていた。


「――決心は、変わらないのだね?」


 クララと同じ青色の瞳で見つめながら、男は聞く者に落ち着きを与える声色で問うた。


 クララはそれに、確かな頷きを返した。


「そうか」


 男性は頷き、微笑みを漏らした。


「心の赴く方向に進みなさい。お前は若い。然るに、無限の選択肢を道にできるのだから」

「――はい、お父様」


 クララも微笑み、父と抱擁を交わすと礼をして、祈りの場を後にした。


 馬車に乗り、フランシスが手配してくれた宿泊場所へ向かう道中で、クララはあの日のこと――ウィザ連合とエレアニカ連合の会談の際、フランシスが刺客に狙われた、忘れられないあの一幕の時を思い返していた。


 父の補佐役として、クララもその会談に同席していた。

 始まりは静かだった。会談の最中に、自然な所作で開けられた扉。


 父とフランシスだけが即座に危機を察知して身構えた。会談中は立ち入りの禁じを厳命していた――。


 刺客が目で追えぬ速度で部屋に踏み込んだ。五人、六人、それ以上だったかもしれない――。


 フランシスの怒声、私を背に隠し立つ父、遅れて広間を満たした、混迷と慄きの悲鳴――。


「くッ――」

「クララ、下がるんだ」

「お父様!」


 無秩序な喧騒の中、応戦するフランシスの苦しげな声と、その混乱の中ですら冷静を乱さなかった父の声だけが、はっきりと聞こえた。


 クララはただ震えていた。父の背後で、腰を抜かしながら。


 情けない。――度々その時のことを振り返る度に、奥歯を噛み締めるほどの悔いを覚える。無様を、不甲斐なさを見せていた……。


 時間にして一分にも満たない一時だったが、体感は延々に思えた。


 護衛は全員倒れ伏している。フランシスの応戦も限界が近づいていた。

 そしてあわや、フランシスの喉元にナイフの切っ先が届きそうになった――クララが息を飲んだ、そのときであった。


 最後に部屋へ踏み入った刺客が施錠した、重い木製の扉が、爆破のような音を立てて蹴破られた。



 皆の動きが止まった。

 フランシスの命に手が届いていた、刺客さえも静止して、そちらに視線を送った。



 皆、何かを感じ取っていた。



 ――扉の向こうには、少女の姿があった。



 自身クララよりも体躯の小さな、少女の姿だった。

 それがあった。


 少女は見開いた瞳で、フランシスの喉元に刃物を走らせようとする刺客の姿を捉えた。


 ――ビキリと。

 正体不明の確かな音を聞いた。


 幻聴には違いないが、おそらくそこにいる全員が、確かにそれを耳にした。


 そして、次の瞬間。

 少女の姿が、消えた。


 その場から忽然と姿を眩ましたわけではなかった。

 ただ、少女の姿が別のモノに変わり果てただけだ――。


 表情に闇のような影がかかっていた。

 肉体からは無数の筋が浮いている。


 その眼は。

 クララの知る人間の色から致命的に外れた輝きに満たされていた。

 獰猛な獣とも違う、紛れもなく人にしか浮かべられない情動。

 人が人に、絶対の暴虐を約束したときにだけ浮かべる、原色だった――。


 空間が歪むような音を聞いた。

 聞いたこともない恐ろしい音だった。

 次いで、神を目全にしたような畏怖の伴う叫び声が部屋を満たした気がするが――それも幻聴だったのかもしれない。


 そして、刺客が動きを取り戻そうとした刹那に、今度は比喩でなく、少女の姿がその場から消えた。


 刺客の叫び声は聞こえなかった。ただ、舌を異様なほどに伸ばしながら吹き飛んでゆく、刺客の格好だけが視界に映り、遅れて奇妙な、形容し難いグロテスクな音が響いた。


 少女の姿はどこにもない。


 続いて、何かが何かに潰されたような音が轟いたが――同時にクララは頭を抱え蹲ったため、その後、何が起こったのかは分からなかった。


 再び顔を上げたそのとき目にしたのは、最後に残った刺客を見下ろす少女と、完全に戦意を喪失した、少女に見下ろされる刺客の姿だった。


「――――許して下さい」


 やがて、細かに震えながら。

 感情の欠落した声で、あれだけの超越を存在で体現していたその刺客は、茫然の恐怖を口端から漏らした。



 少女の拳が振り下ろされた。

 星全体が揺れたような衝撃があった。



 動く者は誰一人としていなくなった。


 クララは恐ろしさに支配され、震えるばかりで動けずにいた。闇に覆われた表情の下で確かに光る、少女の瞳から目が離せない。


 ――と。


「――フランシス!」


 その怪物が、突然、涙交じりの泣き声のような声を上げた。


 その途端、少女の姿に、人間が取り戻された。


 衆目が見守る中、少女は妹君の元へ駆け寄った。


 彼女は妹をしっかり抱き留めると――フランシスの顔に僅かに走る、刃物で切り裂かれた赤の線を見て、瞳を見開いた。


「ああ――あぅ、あぅ――」


 少女は先程の姿からは想像もつかない気弱な動揺を漏らしながら、懐からハンカチを取り出し……その傷を拭き取ろうとするようにゴシゴシと擦り始めた。


「ちょ、お姉さま、やめ――いや傷が拭い取れるわけないでしょ」


 衆目の誰もが思っていたことを言うと、フランシスは、少女の頭をぽんぽんと撫でた。


「フ、フランシス……無事ですか……?」


 少女はぼろぼろと涙を流していた。


 そんな少女を見て、フランシスはフッと微笑み、少女の頭を胸に抱き留めた。


「だいじょぶ。ありがと、お姉さま……」

「遅くなってごめんなさい……。無事でよかった――」

「うん。ありがと、ありがと、お姉さま――」


 先程まで鬼神の如き圧倒を見せていた少女は、今はその歳より幼げな心底の安堵を表情に浮かべて、ぼろぼろと、涙を流していた。


 よかった。……よかった。

 そう、繰り返しながら。

 少女は衆目の目も気にせず、幸いに喜びを表し、温かな春のあけぼのみたいな微笑みを浮かべて、涙を頬に伝わせていたのだ。



 ――クララは、いま目の前にあるこれより美しい光景を見たことがなかった。

 この世の知られざるルールを見ているような感慨を抱いた。二人の周囲にだけ、光が射し込んでいるようにさえ見える――。



 少女は全身全霊を体現していた。

 人の全身全霊――今さっき、それを初めて見た。そしてそれは、妹を思う心が故に引き出されていた、それを理解した。


 妹。――彼女がフランシスの姉であることも、最初に察していた。少女がフランシスに向けた、あの表情……あんな表情は、妹を思う姉にしか、浮かべられないから――。


 場が騒然とし始めた。

 行動を起こす者がちらほらと現れ始める。クララも、父に助け起こされていた。


 刺客は拘束され、別室に運ばれた。

 会談は当然、一旦の中止を挟むこととなった。


 その場にいる誰もが、少女に畏敬の視線を送っていた。当の少女は、刺客を運ぶ従者と同行してフランシスが席を外したため、今は所在なさそうに、きょどきょどとしている。


 ――ふと、少女と視線が合った。



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