第一の王子・2

 悲鳴を上げ父を引き摺ってゆく母をぼんやりと眺めていると、後ろから、淡く笑いを含んだ柔らかな声がかけられた。


「随分なお父様をお持ちのようですね」


 振り向くと、少しだけ眉を下げたクララの微笑みの顔があった。

 一瞬クララの事が頭から吹き飛んでいたリプカは赤面し、おどおどと頭を下げた。


「ご、ごめんなさい。お恥ずかしいところを見せました……本当に……」

「いいえ。噂通りのお方のようですね、リプカ様は」


 クララはにこりと微笑み、そんなことを口にした。


 噂通り。

 いったい国を跨いだ規模でどのような噂が流れているというのか。リプカは青ざめた。


「悪い噂ではありません。本当ですよ」

「そ、そうなのでしょうか……?」

「ええ。――さて、リプカ様、せっかくですし腰を落ち着けて、色々お話ししませんか?」

「は、はい。ええと、じゃあ、すみません、今すぐお紅茶を用意致します……」

「え? 使用人の方は…………いえ、申し訳ない、なんでもありません」


 クララはすぐに何かを察し、腰を上げて歩み寄り、リプカの手を引いて席に導くと、懐から水音のする小さな保管容器と、手のひらにちょこんと乗るサイズの水飲みを取り出した。


「携帯のもので申し訳ございませんが、私が一番に好きなお茶なんです。是非お試しになってください」

「あ、ありがとうございます、頂きます」


 注がれた、一口で空になる量のお茶をどきまぎしながら口に含むと、リプカは思わず「ほう」と息をついた。

 甘くも苦くもないが香り高い、不思議な味のお茶だった。


「お、美味しいです。初めて口にする味です……!」

「気に入っていただけたならよかった!」


 にっぱり笑ったクララの明るい顔を、リプカは不思議な面持ちで見つめた。


 いったい彼女は、どういった心境でここを訪れたのだろう? これからどうするつもりなのか。どういった経緯でこのような事になったのかは計り知れないが、このあり得ぬ縁談をどう収めるつもりなのだろうか? ――疑問は尽きない。


「――さて、リプカ様。少しだけ、此度こたびの事についてお話しさせてください」


 空になったリプカのグラスにお茶を注ぎながら、クララはまさにリプカが疑問に思っていたことについて言及する姿勢を見せた。


 水筒容器を丁寧な手つきで脇に置くと、吸い込まれるように美しく輝く金色の瞳で、目の前のリプカを真っ直ぐに見つめて、クララは話し始めた。――覚えのない情動に頬を染めて、リプカは僅かに身を捩り、どぎまぎを浮かべている。


「まず、この縁談は、私の国にとって正式な申し出であることを理解して頂きたいのです。私の国では、同性婚が認められていますから」

「あっ! そ、そうなのですね……!」


 リプカの知らなかった、他国の習わしであった。


 しかし、だとするなら――。

 先程、同性であることで動揺しリプカが取った態度は、大変な失礼に当たる失態である……。


「あ、あの、先程は……私、とんでもない態度を……」


 奇しくも父が言った通りの、態度の間違いに、リプカは青褪め頭を下げようとしたが――。


 ふわりと、リプカの髪を優しく包むようにして、クララはそれを止めた。


「気にしていませんわ。知らなかったのなら仕方ありませんもの」

「で、ですが……あの……知らずの事とはいえ、し、失礼を致しましたわっ!」


 結局ガバチョと頭を下げたリプカだったが、クララは不自然なくらいの、しかし企みの一切感じられない優しい手つきで、リプカの頭を胸に抱いた。


「大丈夫です……頭を上げて」


 おどおどと頭を上げれば、そこにはクララの優しい顔がある。


(――――なぜ、私にここまで?)

(なにか本当にのっぴきならない事情があるのかな? フランシスの姉である私をなんとしてでも取り入れなければ、個人のみならず家々まで立場が危うくなるような事情が――)


「では、先程の続きをお話させてください。――先程もお話ししました通り、私の国では同性婚が認められています。故に、私が縁談の候補者に選ばれても、私たちの側から見れば……それは別段の不自然ではないのです」

「な、なるほど。それは理解しましたわ」


 また一つにっぱり笑うと、クララは先を続けた。


「私は大恩あるウィザ連合との親和を形にするため――そしてフランシス・エルゴール様との繋がりを築くために、エレアニカ連合セラフィア領域から遣わされた婚約者候補です」


 フランシス・エルゴールとの繋がりを築くため。

 クララは顔色一つ変えず、躊躇もなくそれを口にした。


(やっぱり、無理矢理に……)


「ですがこの縁談自体は、私が望んだものなんです」

「――え!?」


 リプカの瞳が白黒に明滅した。


 クララはそんなリプカを真っ直ぐに見つめたまま、僅か、間を置いた。


 ――リプカは混乱しながら問うた。


「望んで……? どうしてです……?」

「――噂は聞き及んでおります。貴方様が、妹のフランシス様を救ったというお話を。妹様に差し向けられた腕利きの刺客を、たった一人で殲滅した話を」


 そう。

 それこそが、先の戦争でリプカが残した、栄光ある活躍の内実であった。


 フランシスこそが戦争を指揮する要、心の臓だと見抜いたオルエヴィア連合は、フランシスに精鋭たる刺客を放った。


 フランシスが一時、ここエルゴールの屋敷に帰還し、一息をついたタイミングであった。

 帝国国家の精鋭は、恐るべき手腕をもって、瞬く間に屋敷を制圧した。最終的にその凶刃は、今まさにフランシスの喉元を切り裂かんところまで差し迫ったのだ。



 ――そこに、獰猛な獣を越える覇気を纏った英傑が現れた。



 いつもそうだった。幼い頃から、感情がある一線を越えると獣性が如き衝動が溢れ出し、痛烈無比たる無双の力に支配される性質たちを宿していた。


 神が遣わした獣神の力を見た。

 瞬く間にリプカの手により昏倒させられた刺客の一人が、茫然と口にした言葉である。


 無くていい才能。

 令嬢にはおよそ必要のないその力が、勝負の分かれ目を栄光に導いたのだ。


「聞けばそのお方は、おいえにおいて酷い扱いを受けている、災難を背負うお人であるといいます。失礼ながら、俯きがちなお人であると。――私はそのお話を聞いたとき、思いました」


 目を瞑り、クララは静かに語った。


「――ああ、そのお方は本当に、慈愛に溢れたお人なのだろうと。俯きがちなその人が、大切な妹君のためとあらば、無双の力を発揮する。私はこれより美しい感情を知りません」

「そ、そんな……。た、大切な妹です……たった一人の妹なんです……。あれは姉として、当たり前の感情で――」

「リプカ様」


 目を開き、再び真っ直ぐにリプカを見つめたクララの瞳には、誠実の焔が宿っていた。


「私は、貴方様のその感情が好きです。貫く強さを持った強靭なる意思、そして何よりも尊い、深い慈愛を宿した貴方様が好きなのです。分かりますか? 私は望んでここに来たのです」

「――――な。――なにを……何故――私にそこまで――?」


 言葉に詰まるリプカへ、クララは微笑みを浮かべた。


「覚えていませんか? あの大広間にいたのはフランシス様だけではなかった。屋敷に招かれた要人と守衛、そして、賓客の椅子から崩れ落ち、その下で震えている女の姿があったはずです」


 ――そうだ。

 リプカはようやっと、それに思い至った。


 あのとき、あの場所にいたのはフランシスと守衛だけではなかった。エレアニカ連合から遣わされた要人もが揃うタイミングで、刺客は躍動したのだ。

 言われておぼろげに思い出せる程度ではあったが――確かにあのとき、自分と同じ歳の頃の少女を一人見たことは思い出せた。


「……あのときの?」


 フランシスに差し迫った、心の臓が凍りつくような危機という事情があまりにショッキングすぎて、それ以外のことはよく覚えていなかったが――そこに、彼女クララが……?


「そう」


 クララは目尻を下げた。


「……素敵だった。女性でありながら無双の強靭を宿す貴方に心惹かれました。そして貴方様の置かれる事情を聞いた後は、もっと、もっと。……だから私はこの度、エレアニカ連合を代表する婿候補に立候補しました」

「――――……」

「――これ以上の言葉は、不要な飾りにしかなりませんね」


 クララはリプカの手を取ると立ち上がり、揺らめく誠実と愛情が躍る瞳でリプカを見つめて、その手を、ぎゅっと握った。



「私は今、貴方様のことを心から愛しています。あの鬼神の如き神性を発揮したお人と、遠くから見つめた、気弱な貴方様が同一人物であるなんて信じられなかった。私はその二面性に慈愛の尊さを見つけて、いつしか、触れてもいない貴方様に、愛するほどの想いを寄せるようになりました。――私は貴方様と、悠久、一緒の道を歩みたい。どうか私との婚約を真剣に考えては頂けないでしょうか……?」



 瞳と同じ、真っ直ぐな言葉。


 リプカは現実が信じられなかった。


 私はいま、好意を向けられている。

 自分に好意を向ける人がいる。ただ一人であったフランシス以外で、今、ここに。


 ――鏡を確認するのが嫌いだった。

 だが今なら……以前ほどの暗い気持ちは抱かないような気がした。


 リプカが何も答えられないでいると、クララはそっと包んだその手を放し、感情に満ちた心深い微笑みを浮かべた。


今日ほんじつは、この辺で失礼致します。――ああ、そうだ、もう一つ、ちょっとだけズルい方法を……」


 言うとクララは、それまでの表情からは予想もできなかった企みの含まれた笑顔を浮かべて、こそっとリプカに耳打ちした。


「元々、我が国エレアニカ連合からは、オーレリア領域からレクトル・オーレリア様が貴方様の婿候補として遣わされる予定でした。それで問題のなかったところを、私が上方に掛け合い、無理を通したのです。それによってセラフィア領域が見込める利益は何一つありません。調べればすぐに分かることです」


 耳打ちを終えると、クララはさっと背を翻し数歩リプカから離れると、振り返り、またあの柔らかな微笑みを、愛しい彼女リプカへ向けた。


「今まで私が貴方様にとった態度は、誰にも向ける平等ではありません。それを、どうか分かってくださいませね……リプカ様」


 最後にそれだけ言って、深く礼をすると。

 今度こそクララ・ルミナレイ・セラフィアは、柔らかな雰囲気損なわぬ後ろ姿を見せ、去って行った。


 浮世離れした表情で茫然と立ち尽くす、リプカを残して。



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