偏愛メズマライズ

蒼天 隼輝

その魔女に出会ってはならない

 ―――――裏路地の奥深く。癒やしに狂う心がなければ嗅ぎ当てられない退廃の底に、その店はあるという。どんな手を尽くしても、何をしても、一向に癒やしを得られぬその時にのみ……主であるは、その姿を現す。


**********



「……俺は一体どこに来ているんだ」


 深夜の夜道、分厚い雲のせいで月が出ていなくて正確な時間はわからないが、俺はゴミまみれの裏路地を歩いていた。適当に曲がっているだけなので、もうどこを歩いているかもはっきりしない。足元には飲みかけのままこぼれたビール缶が転がっているから、この辺りにも多分人は住んでいると思う。思うが、さすがにこの時間ともなると人がいないらしい。

 ……ああ、なんでこんなところを歩いてるんだっけか。仕事をクビになって、同期に散々笑われて、それどころか説教もされて。そこからなんだかいろいろなものがどうでもよくなって……そうだ、自殺もやる気が出ないから、適当に襲われればいいとか思って小銭だけ持って家を出たんだった。人気の少ない道を選んで好んで餌になりに来たのに、肝心の暴力が全然こちらに寄ってこない。ニュースで見る度、憂さ晴らしに抵抗しない相手を誰かれ構わず殴るように見えたのだが、こんな時に限って目の前に現れない。


(畜生、畜生。ああいう奴は殴ることぐらいにしか頭が働いてなさそうなのに、こっちへ来いよ、クソが)


 この方向は道なのか、階段なのか、ただのごみ溜めか……。最初から戻る気もないが、どうも元来た道を戻れる段階はとっくに過ぎたようだった。こんな時でも腹が減るのが、余計に苛立たしい。


(いいから早くどこかの狂人がナイフで一突きにして……ん?)


 揺れながら歩く俺の目の前に、赤い灯が差し込む。突然の刺すような光に身じろぎしてしまったが、小さなガラスが中からの光を浴びながら回っているだけらしい。周りが廃虚同然の建物であるのも手伝って、絢爛な入口だけが妙に目についた。


「……水煙草シーシャ屋?こんなところにか」


 店の名前すら書いていないが、ガラスのドア越しの器具には見覚えがあった。水煙草シーシャを吸ったことはないが、前にバイト先で見たテレビで取り上げられていたことがあったのでぎりぎり知っている。確か、でかい瓶にたばこの葉を入れて温めて、水を通して吸うんだったか?実際に吸ったことがないので、良くは知らない。

 いや……それよりも、店の内装がやけに気になる。細かなビーズを縫い込まれた蜘蛛に、ピアスだらけのラバーフルフェイスマスク、丁寧なタトゥーが彫り込まれた皮膚を巻かれた猫の人形……。ここはあれか、水煙草シーシャ屋と見せかけて、店か。


 店から漏れ出る光を浴びて、俺は店の前でずっと棒立ちの状態になっていた。そして目の前の光景に釘付けになりすぎて、背後に立つ人影には全く気が付いていなかった。


「―――――あら、深夜に店、開けとくものね」


 背後から、耳触りの良い声がする。振り向けば、この裏路地に似つかわしくない女の姿があった。

 小ぶりな顔は白く整い、ほんのりと紅が刺している。艶やかに広がるアイシャドウにはわずかにラメが混じっているが、強い色でないからかそこまでの毒々しさはない。左右対称に数房が赤く染まったプラチナブロンドは1本1本が細かなパーマを描きふんわりとした印象だが、ばっさりと同じ高さで切られたシルエットが異質さを際立たせていた。細身のワンピースは黒を基調としたフォーマルで、清潔感を漂わせている。それ故に、首から胸元にかけては布が薄いため、鎖骨の凹凸がうっすらと感じられて慎ましい色香を醸し出していた。

 香水らしき甘い香りを感じるほどに、女との距離はやたらと近い。それが苦にならないほど、俺は素直に友好的な美人に浮足立ってしまった。それほどまでに……とても月並みの感想を言えば、目の前のその女は、とにかく美しかった。


「一期一会だと思って、少し休んでいかない?お代は取らないから」


 目線を俺からずらさずに、手元でシルバーリングをいじりながら美女が言う。華奢な指だというのに、ずいぶん大ぶりなリングだ。抜けるか抜けないかの大きさのリングを若干持て余しながら、美女は優しく俺の手を取り店に招き入れる。


(女性の手を触ったのっていつぶりだろう)


 あまりに自然に手を取られて、無駄に肩を震わせてしまった。フフ、と目の前で笑う声が鈴の音のようで心地いい。そのまま導かれるように、俺は店の中に案内された。



**********



「普段はあたし、この時間には店を開けないのだけれど……目の前に立っているんだもの。声もかけたくなるわ」

「う、は、はい……」


 彼女は水煙草シーシャではなく、ハーブティーを淹れて俺の目の前に置いた。細かな装飾が掘られたガラスのティーカップを置かれ、触っていい物か躊躇ちゅうちょしてしまう。深夜なうえに、明かりがついていた店はこの一件だ。店内に音楽もかかっていないので、とにかく空気が重い。もともと俺はさっきまで死に場所を探してほっつき歩いていたのだ。そんな男がこの美女の前に座るなんて、そもそも場違いな気がしてならなかった。


(……それにしても、結局何屋なんだ、この店は)


 挙動不審気味にあたりを見回す。壁にはガーゴイルや何やらよくわからないクリーチャーの彫像があり、その間に義眼らしきものが埋め込まれている。値札はないので、雑貨屋とも雰囲気が違う。外から見てガラスだと思ったものも、よく見てみると蝶の羽を張り付けた球体だった。この店が異質な空間であることには間違いない。

 異質なことはある程度受け取りはしつつも、歩き疲れがようやく出てきたのか、俺はけだるげにそれを眺めていた。確かに気持ち悪いと言えば気持ち悪い品ばかりではあるのだが、なんだか妙に落ち着いてしまって特に言及しようと思わなかった。ただぼんやりと、俺はここにいていいのだろうかと頭の中で繰り返していた。


「口をつけていないけれど、ハーブティーは苦手だったかしら?」

「な、なんか、……その、俺なんかに、すみません」

「あら、ほっとけなかったのよ。いけないかしら?何もしていないのに、謝ることないじゃない」


 急に話しかけられてどもる俺の声に、優しく美女が語りかけてくる。壁の彫像や部屋にぶら下がった奇妙なオブジェを撫でながらも、彼女の大きな目は俺を捉えて離さない。……ああ、何やら俺は待たれているような気がする。慌てて一口ハーブティーをすすり、とにかく言葉を紡ごうとした。


「……すみません。俺、何もかも全然うまくいかなくて。いっそのことどっかで野垂れ死んじゃおうかなー……なんて思ってたので。いきなりうまいお茶貰っちゃって、びっくりして、頭が整理できてなくて」

「何があったかはあたしが推し量れるものではないけれど……辛いことがあったのね」

「ははは……まあ、もう誰も俺の味方なんてしないんで、いいんです。いいんですよもう。またちょっと歩いて、お姉さんに迷惑が掛からない所まで行ってから、死にますんで……はは」


 これ以上不幸自慢をしたところで彼女を不快にさせそうだったので、半笑いでごまかして立ち上がった。まあ、心象は最悪だろうな。こんな短時間の間に侮蔑の目を向けられたら、奇声を出してその辺のガラスで首を搔き切ってしまうかもしれない。それは単純に彼女の迷惑になりそうなので、やめることにした。

 ところが、背中を丸めて机から離れようとしたら、両手で右手を掴まれた。そのままするりと回り込まれたので、怒られると思って身をかがめたが特にそんなこともなかった。


「ねえ……そんなに自分を粗末に扱うぐらいなら、しばらくあたしに時間をくれない?」


 体を震わせた俺をなだめるように、手を撫でられる。理由はよくわからないが、彼女の声がやけにはっきりと耳に入ってくる。そういう声なのだと思うと、うらやましい。


「少しずつ、欲しいものがあるの。貴方もちゃんと持っている物よ。貴方の命を脅かしたりはしないし、それ以外に要求はしないわ。……どう?」


 美女が、言葉をやんわりとはぐらかす。しばらくしても、彼女は答えを待つだけで欲しいものの正体を言わなかった。明らかに怪しいとはわかっているのだが……死ぬと発言したからか、なんだかどうでもよくなってしまってきていた。深夜であることも手伝って、考えるのが嫌なほどには頭がぼんやりしていたのも事実だ。


(……そういや俺、死んでもいいんだったな。最後にこんな美人にめちゃめちゃにされるのだって、悪くはない話じゃないか?)


 金が要らないならなおの事、最後に雑に己を消費するのもいいんじゃないだろうか。何より相手はこの美女、最期を彩るにはもってこいだ。どうせ死ぬのだから、危険かどうかなんて、もはやどうでもよかった。


「あー……まあ、いいか。その方が思い切りよく死ねそうだし。お姉さんの気が済むまで使い倒していいから、捨てる時は言って。邪魔にならない所に行くから」

「あら、ありがとう。大丈夫よ、きっと後悔させたりしないわ」


 俺の返答を聞いて、彼女が顔をほころばせる。整っているだけに、柔らかく笑う顔もまた美しい。何ならこのまま殺されていいとすら思うが、それは彼女が望まなさそうなので、機嫌を損ねないために黙っておくことにする。

 店の隅の隠し扉が開き、地下に続く階段が現れる。階段へ踏み出そうとした俺の視界に彼女が再び割り込んできた。先導するように手を取りながら、彼女は顔を俺の耳に近づけ、優しい声でささやいた。


「そうそう、多分呼びづらいだろうから名乗っておくわ。……かなえよ、かなえ まどか。昔魔女だなんて素敵なあだ名をくれた人がいたけれど、好きに呼んで頂戴」

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