願いと別れ
ふり返ると大きな光の翼が雛乃の背から生えている。黄金色に輝くそれは、羽毛ではなく光の粒子。それらが翼を形作り、驚いた雛乃の気持ちを表すようにその場で大きく動いた。
ヴィンの腕がゆるくなり、身体が離れる。しかし今度は落ちることなく、雛乃の身体は一人で宙に浮いていた。雛乃を見るヴィンの顔が、苦しげに歪む。
「それはお前にやる。その翼の力を使って帰ってくれ」
「翼の力……これってヴィンの……」
そうだ、ナギが言っていたではないか。雛乃が一人で飛べるくらいに命を分けることも可能だと。しかし、それをすると自分の力が弱くなるから分けるのは難しいとも。
だとすれば、ヴィンは自分の力を雛乃に分け与えたのだ。自身の力を失ってまで。
ヴィンの額にうっすらと汗がにじんでいる。表情も険しく、翼を雛乃へ与えたことでなにかダメージがあったのだろうとすぐにわかる。
そういえば力を使いすぎて倒れたことが以前もあったではないか。
「俺は問題ない」
「そうだよ、ヴィンは大丈夫だから」
ドゥードゥも頷くが、急に不安が込み上げる。
「でも」
「お願いだ、帰ってくれ。俺のためにも、楽園のためにも」
ヴィンの腕が再び雛乃を抱く。その熱にまた鼻の奥がツンとした。
雛乃が帰ることが、一番いい。そんなことは分かっているのだ。気持ちがついていかないだけで。
だけど、帰るべきなのだろう。ヴィンが言うように、これは雛乃のわがままでしかないのだ。
もしかしてこれが最後かもしれないでしょ。そんなナギの声が頭の中に響いた。
「ヴィン、わたし帰りたくない。でも、帰るのが一番いいのよね?」
「ああ」
「わたしが帰ったら嬉しい?」
「嬉しいな」
「寂しくなる?」
「そうだな。寂しくなる」
ヴィンの身体に腕を回す。その腕に力を込めた。
ヴィンの体温を、その体温が与えてくれる熱を全身に感じる。
忘れないように。忘れられないように。
このまま時が止まればいい。そう願ってもそれは叶えられない。
ヴィンのうめき声がし、慌てて身体を離す。苦しげに表情を歪めたヴィンが身体を折った。
「ヴィン‼︎」
「まずいな、鳥喰草が‼︎」
ドゥードゥの焦ったような声。ヴィンの肩を支えながらドゥードゥの視線をたどる。そこには空に浮かぶ無数の島と、そこに生える鳥喰草の巨体。
そしてその鳥喰草はあっという間に口の部分を変化させ蕾となり花を咲かせた。強いていえばマーガレットのような形の、薄ピンク色をした可愛らしい形の花だ。ただし、とても巨大な。
それらはあちこちの島でいっせいに花開き、またあっという間に萎んでいく。萎んだそこはみるみるうちに膨らみ果実をつけた。
「なに、あれ……」
「種を、飛ばす気だ……」
ヴィンのかすれた声に、ドゥードゥの表情が険しくなる。
「あんなに一斉に? ヴィン、もしかしてもう、限界なの?」
荒い息をくり返すヴィンを呆然とした瞳でドゥードゥが見つめている。それがどういう意味の限界なのか雛乃にはわからない。今雛乃にわかるのは、ヴィンが苦しんでいるということだけ。
ヴィンがドゥードゥを見つめた。その瞳は驚きの色をたたえている。
「知って、いたのか……」
「だって、僕はヴィンのことが大好きだからね」
以前もヴィンと戯れ合いながら言っていた台詞。しかし今は一切笑顔はない。むしろその表情は沈痛と言っていいくらいだ。そのことに、雛乃の背筋に冷たいものが這い上がった。
「だから君のことはわかっているつもりだ」
「そう、か……なら、頼む……ヒナを、ヒナを帰してやってくれ」
「ヴィン‼︎ ねえヴィンどうしたの⁉︎ ドゥードゥ、ヴィンはどうしちゃったの⁉︎」
胸を押さえて荒い息をくり返すヴィン。その腕は小刻みに震えている。
ドゥードゥはヴィンが苦しむ理由を知っている。それなら対処法もわかるのではないだろうか。
「ドゥードゥ、力を、少し……分けてくれ」
「––––––––いいよ」
ドゥードゥの腕がヴィンの胸に触れ、その手から光があふれた。その光は浸透するように吸い込まれていく。
「ヒナちゃん、ヴィンは大丈夫だよ」
「うそ! こんなに苦しんでるじゃないの‼︎」
「力を使いすぎただけだ。ヒナちゃんに翼を与えたから」
「そんな……」
「補充したから大丈夫だよ、すぐに良くなる」
鳥喰草に実った果実が大きく膨らみ、その実が内側から弾け飛んだ。中から茶色い色の粉が一斉に飛び散っていく。
種を撒き始めたとうめくドゥードゥの声。
あの巨大な鳥喰草の種というにはあまりに小さな粒。それは風に乗って雛乃たちが来た方角へと流れていく。すなわち、楽園の内側へ向かって。
「この翼は返すわ‼︎」
「だめ、だ……それがないとお前は……たどり着けない……」
ヴィンの震える腕が雛乃を一瞬だけ抱きしめた。その体温が離れることがあまりに辛く、追い縋ろうとしたもののその手はヴィンにやんわりと押し返されてしまう。その顔は苦しみに歪んでいるものの、姿勢を真っ直ぐに戻した。
「ドゥードゥ」
「わかったよ、ヒナちゃんは僕が連れていく。無事に帰すよ、安心して」
頷いたドゥードゥに苦しげな笑みを浮かべると、ヴィンの手が雛乃の髪をなでた。
その熱に意識が集中する。
「俺は、鳥喰草を見に……いく。ヒナ、お前とは、ここまでだ。最後まで送れなくて、すまない」
「なに言ってるの、そんな状態で無理だよ‼︎」
額に浮かぶ脂汗の量と無理やり息をしているかのような荒い呼吸。それだけでも鳥喰草と戦える状態でないのは火を見るよりも明らかだ。
それに、ここで別れるなんて。まだ楽園の果てにも着いていないのに。
それこそ心の準備が出来ていない。
「ヒナちゃん、わかって欲しい。あの鳥喰草の様子じゃ、楽園もこのままじゃ長くは持たない。だからこそ、君が楽園から出られるか知りたいんだ」
楽園の生物ではないという鳥喰草。果てから入ってきたという予測はできるが、楽園の生物はここから出ることが出来なかった。
もし雛乃が出られたなら、鳥喰草をなんとかする術が見つかるのではないか。そんな微かな希望で雛乃を帰そうとしてくれている。
何度も言われたように、これは雛乃のためだけではなく、楽園のためでもあるのだろう。
「でも」
「ヒナ、元気で生きろよ」
軽く頭を手でなでると、ヴィンが雛乃から視線をそらした。そのままふり返り鳥喰草の種と同じ方向へ飛び出す。
待って、そう追い縋ろうとした手はドゥードゥに捕まれた。
「ドゥードゥ離して‼︎」
遠ざかっていくヴィンの後ろ姿。それを追いかけようともがくものの、ドゥードゥの手はびくともしない。背中の翼をめちゃくちゃに羽ばたかせたが、それも虚しく空を切るだけに終わる。
「ヴィン‼︎ 待ってよヴィン、行かないでよ……」
小さく小さくなっていくヴィンの背中に涙があふれ出す。その涙をぬぐった時にはすでに、ヴィンの姿はどこにもなくなっていた。
涙が止まらない。まさかこんな別れになるなど思ってもいなかった。果てで別れなくてはならないのは理解していたが、これは想定外だ。
結局、ヴィンに直接雛乃の気持ちを伝えることだって出来なかった。
「ヒナちゃん、わかって欲しい」
ドゥードゥの静かな、それでいて力強い意思を感じさせる声。
手が引かれた。ふり返ると金の瞳が雛乃を見つめている。同じ色の髪が風になびいた。
「僕たちの、なによりヴィンの気持ちを無駄にしないで欲しい。ヴィンの願いは、君が生きることなんだよ」
その言葉に喉の奥がひりつき、熱いものが一気にせり上がってきた。それは、自分が白血病だと聞かされた時よりも激しい嗚咽となってあふれ出す。
ヴィン大好き、そう言っていたナギの声が頭の中で響いた。最初からそういう風に、真っ直ぐに言えていたら良かったのに。
「気持ちがついていかないのはわかるよ。だけど、僕からもお願いする。君は帰って生きて欲しい」
「生きられるか……なん、て……わからな……ッ、わたしびょ……きで……」
「大丈夫だよ。生きられる」
ドゥードゥのもう一方の手が、優しく雛乃の手をなでた。それは、ヴィンとは違う優しさと慈しみに満ちたあたたかさ。それは、元々は癒しの力しか使えなかったという力を持つ鳥本来の姿に雛乃には思えた。
「行こう」
ドゥードゥが手を引き、翼を羽ばたかせる。雛乃がヴィンを追いかけると思ったのか、一人で飛べるにも関わらずその手を離そうとしない。
ヴィンとの距離が広がっていく。風が雛乃の涙を吹き飛ばし、無慈悲に乾かしていく。
背中の翼が風を切る。動かし方は、元から自分に翼があったかのように不思議と理解できていた。その翼から、あたたかくて優しい熱が巡っている。
この翼はヴィンの命。ヴィンの願い。希望。最後まで送れないと言ったが、この翼が送ってくれる。ヴィンの翼が。
(だけど本当にこれで最後なの? もう会えないの……?)
翼から流れ込む熱は雛乃に帰って生きるように囁きかけている。それなのに雛乃の気持ちだけが追いつかない。ヴィンがどの方向に消えたのかもわからず、ふり返っても同じような青と島がただあるだけだ。
もう伝えたかった言葉も伝えられない。
雛乃は楽園の命でもなければ鳥でもない。だからいつか別れなくてはならない。それは今ではなかったはずだ。そう思いたくてもあとの祭りだ。
(ヴィン、あなたが好きなの。あなたが……)
届かない言葉が胸の中でこだました。繋いだ手はヴィンのものではない。優しいけれど、雛乃を楽園の外へと連れて行く手だ。ヴィンと同じことをしてくれているはずなのに、その感触に熱はない。
風が流れる。雛乃の想いすら押し流すように。
◆ ◇ ◆
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