第一部あなた 第ニ章1
実津瀬は一人、宮廷の庭の椿の樹々の陰に立っていた。
いつも雪の方が先に来ていて待たせる身だったが、今日は実津瀬が待つことになった。
実津瀬の心の中には、雪が地位のある男と親密そうに話している姿が脳裏に浮かび、そのことが波ように繰り返し押し寄せて心を苦しくさせていた。
雪は既に他の男の妻ではないだろうか……。
そんな思いが浮かび上がっては消えていく日が何日過ぎただろうか。
今日も雪にいつも通りに話すことができるか不安だった。
「……お待たせしてしまったのですね」
物思いの中にいたから、雪が近寄ってきたのに気がつかなかった。実津瀬は顔を上げて雪を見た。咲き遅れた赤い椿がちょうど雪の顔の高さにあって、陰に隠れようと体を椿の樹に近づけると、耳にその花を挿しているかのように見えて、可愛らしかった。
「……花が……よく似合う。きれいだ」
実津瀬は呟くように言った。雪はにかんだように笑って下を向いた。
「今日は、お待たせしてしまった。お忙しいあなた様をお待たせして、ごめんなさい」
実津瀬は庭の奥に行くために歩き始めた。雪もその後ろを黙ってついて来た。
「別に待つことなど、どうってことはないさ。いつも待たせているのは私の方なのだから」
実津瀬は足の幅を小さくして、後ろから着いて来ていた雪と並んだ。肩を並べて庭の奥へと向かった。無言の実津瀬に、雪は途中からどうしたのだろうかと、訝しんだ。ちらりと下から実津瀬の顔を窺うのに気づいて、実津瀬は意を決して口を開いた。
「……この前、王宮で有馬王子と我々貴族の同じ年ごろの男女とで小さな宴のようなものがあったのだ。その帰りに、宮廷の中であなたを見かけた」
「……?まあ、そうですか?私はおかしな顔や格好をしていなかったかしら」
「あなたは、男と一緒にいたよ」
実津瀬はそう言うと立ち止まった。雪もその言葉で合わせたように立ち止まって実津瀬の方に体を向けて見上げた。
「……どういう…」
雪はそう言って言葉を詰まらせた。
実津瀬は雪が男に肩を抱かれるようにして話し込んでいる姿が思い浮かんだ。
「とても親しそうに話をしていた。男は私に背を向けていたから、どのような人物かまではわからなかったが、こちらに顔を向けていた女人の顔は見間違えることはない」
実津瀬は言って黙った。
「……そうですの。……その男の人と私のことをお疑いなのね?」
雪にそう言われて、実津瀬の心の中には波紋が広がった。
すぐにそれは誤解だと、何か理由を言ってくれると思っていたが、逆に実津瀬がどう思っているのかと責められた。
雪に二心があって、あの男と実津瀬を天秤にかけて、弄んでいるなんて思っていない。実津瀬は最後に自分を選ぶと言ってくれたら、それで満足だった。
「……疑っているなど……」
実津瀬は言葉を途中で途切れさせたが、心を取り繕っても仕方ないと思い、次の言葉を吐き出した。
「……いや、本当は、心の中は嫉妬していた。もし、あの男とあなたが何か関係があって、あの男の元へ行ってしまったら、どうしようかと……」
雪は顔の表情を硬くして、実津瀬を真正面から睨むように見つめていたが、しばらくして泣きそうな顔になって言った。
「私の心は、あなた様に囚われたも同然です。……実は、あなた様がみた男には以前から言い寄られて困っていたのです。でも、むげにもできないし、話を聞くだけ聞いてやんわりと断っているのですがわかってもらえなくて。前は体を触られて……あなた様に疑われても仕方がないですわね」
言い終わらないうちに、実津瀬は目の前の雪を腕の中にかき抱いた。
「あなたを他の男に渡したくない。……私だけがこうしてあなたを抱ける男になりたい」
実津瀬は雪の額に頬ずりして言った。
「……実津瀬……実津瀬?……実津瀬!」
鷹野に体を揺すられて実津瀬は顔を上げて、鷹野の方を見た。
「どうしたの?何度も呼んでいるのに」
ぼうっとしている実津瀬に鷹野は問いかけた。
「ああ、悪い。何?」
「稲生の話だよ。早良家の子、名前は絢と言うらしいのだけどその子とちょくちょく二人で会っているんだよ」
弟の鷹野は兄の恋愛に興味津々のようで、その話を気の合う実津瀬と分かち合いたいのだ。
「いいじゃないの。家柄だって申し分ないって言っていただろう。それに、その絢と言う子もその気があるから稲生と会っているのだろうし。お互い好き合っているなら問題ないじゃないの」
「そうなんだけどさ、にやけ切った稲生の顔に腹が立つんだよ、私は。実津瀬はまだ好きな人はできない?できたら言ってね」
鷹野はそう言って実津瀬の前を歩いた。
今日は塾が終わると舞の稽古場にはいかずに、鷹野と一緒に帰っている途中である。当の稲生は塾を出るときに別れた。どうやら、その娘に会いに行ったのを、鷹野は面白くないようだ。
そして、実津瀬も上の空で、鷹野は少々腹を立てている。
実津瀬は、せめて宮廷での仕事の間は、そして塾での講義を聴いている間は、と頭に中に浮かび上がる昨日の雪との逢瀬のことを押し込めてきた。その光景に浸ると仕事や聴講は疎かになってしまうためだ。
実津瀬を愉悦の中に引きずり込む光景とは、昨日雪を抱き締めた後の出来事である。
雪は顔を上げて言った。
「何をおっしゃいますか。私がこうしていただき人はあなた様だけです」
そして、実津瀬の背中に腕を回し胸に右頬をつけた。
「あなた様の目の前には幾多の美しい人が現れているでしょうね。私に嫉妬なんて。私の方がいつ、会えなくなるかと心配しているのに」
実津瀬はそれを聞くと、言い返した。
「何を言うの?それこそ、私があなたを弄んでいるようじゃないか。そんなことはしない。あなたこそ私の心を奪って離さない人」
雪は顔を上げて、実津瀬から体を離した。両手を上げて、じっとこちらを見ている実津瀬の頬に当てた。
雪が自分の顔を実津瀬の方に近づけているのだが、実津瀬も吸い寄せられるように近づいた。雪の柔らかな唇が実津瀬のそれを塞いだ。
最初は重ねただけであったが、徐々に情熱的な口づけに変わった。雪が求めてくるのに実津瀬が応えるかたちだ。両手で雪を抱いてその激しさを受け止めた。何度が唇は離れたが、幾度も求め合ってあわさった。夢中で吸い合っていたが、何度目かの唇が離れた時に二人とも我に返ったようにお互いを見つめ合った。
雪は実津瀬の胸に顔を伏せて言った。
「いつか叶うなら、あなたの腕の中で朝を迎えとうございます」
囁くような小さな声だったが、実津瀬にははっきりと聞こえた。受け止めた腕に力を込めて雪を抱いた。
それは私も同じ思いだ。
いつか、きっと。
実津瀬は雪と別れて邸に帰った。夕餉は一人質素に粥と青菜をかきこんで、早々に衾を被って目を閉じた。一人寝が普通だ。しかし、いつか雪と共寝をして、夜明けを迎えたい。まだ日が昇る前の静寂のぼんやりとした明るさの中で見る真っ白な雪の顔を見つめるのはこの上ない幸せだろう。一人寝が寂しいと初めて思った夜だった。
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