第一部あなた 第一章19

 実津瀬は久しぶりに会った妹弟たちと楽しく過ごした後、早々に褥の上に横になった。

 王宮での有馬王子との小さな会合の後に見た雪と男が話している様子が頭の中から離れない。蓮が伊緒理のことで落ち込んだり、束蕗原に行ったりした時はそれはそれで気になったし、蓮を探したが、それ以外では自分の頭の中を占めていたのは雪のことだった。宮廷の行事のために雪は忙しいらしくしばらく会っていない。次に会うのは三日後である。その時にこのことを聞くべきかどうかと考えるが、考えはめぐって答えは出ない。

 雪は実津瀬を好きだと言ってくれるが、もしかしたら、実津瀬よりも先に雪は運命と思った男と出会っていたのかもしれない。その男がありながら、実津瀬のことを思ってくれたのか……。都合のいいように考えるが、本当のことはわからない。

 はっきりと雪に聞けばいいのだ。そうすれば、今、心の中にもやもやしているものも晴れるというものだろう。

 早く雪に会いたい。知らない男に肩を抱かれていた雪を自分が抱いて消し去りたい。

 このところ、眠りに落ちる前は雪のことを思って寝つきが悪かった。今日もすぐには眠りには着けそうにないと、実津瀬は寝返りを打った。

 翌日、いつものように朝目覚めたが、昨日と違うのは小さな子たちが早く起きて騒いでいることだった。

 久しぶりの都の邸に興奮しているのか、邸の中を走りまわっている。宗清が朝餉の前に母の礼が薬草園で薬草を摘むのを手伝うと言ってわめいている。

 蓮が宗清をなだめて、みんなで一緒に作業をしようと提案しているのが目に浮かんだ。小さい子たちを世話するのが好きなのだ。

 実津瀬はいつものように身支度を済ませて宮廷の見習い仕事に向かった。

 その後塾に行くと、本家の鷹野がいた。

「あれ?稲生は?」

「風邪を引いたみたいだ。熱を出して寝ている」

「それは大変だ」

「きっと、本家から実津瀬の邸に人が走っているよ。礼様に薬湯を調合してもらえと言っているだろうからね」

 母がすぐに薬草を持って本家に駆けつけているのが目に浮かんだ。

「でもね、実津瀬。稲生はね、別の病に罹っているかもしれないよ」

「どういうこと?稲生は大丈夫なのかい?」

 実津瀬は本当に驚き、心配した顔で鷹野に訊いた。

 鷹野は実津瀬の心配顔とは反対に、気味の悪い声を出して笑い顔になった。

「稲生はね、恋の病とやらに罹ったらしい。寝ても覚めても思い人のことばかり考えるのだと。薄着で夜、庭をふらふらしていたからきっと風邪を引いたのさ」

「え?稲生は誰に恋したというの?」

 実津瀬は驚いて訊いた。

「それは、この前の有馬王子との会合の時に、可愛らしいなと思って声を掛けたらしい。早良家の女の子ってだって。だから、稲生は邸で同年の男女が集まる宴を開きたいとお父さまに言っていたよ」

 実津瀬は有馬王子との会合の時の様子を思い浮かべた。何を差し置いても最初に有馬王子の前に出たのは我々岩城一族の者だった。それから順に他の貴族の子息が列をなしていた。すぐ後ろは早良家だっただろうか。

「早良家の娘なら、いいだろうとお父さまは言っていたな。宮廷の女官なんかを見初めたというなら反対すると言っていたよ。女官には家柄もよい女人もいるが近隣豪族出身の女人などは、地位を得るため守るために何でもして軽薄だと言っていた。身分の良い貴族を見たら、すり寄ってくるとね。そのような中には岩城を滅ぼそうとする勢力に加担している者が混ざっているのだと言ってね。こんこんとお説教のようなことを稲生は言われていたよ」

「へえ、そうなの」

 実津瀬と同じ年の稲生は自分と同じように女の人を好きになったのだなと、思った。自分が昼夜、雪を思うように稲生も早良家の娘を思っているのだ、と。

「稲生のおかげで私もお爺様にこんこんとお説教のようなことを聞かされたよ」

 鷹野は辟易したという顔をして言った。

「お爺様が?」

「そうさ!女人には気をつけろ、と口酸っぱく言われたよ。我が一族を滅ぼそうとする者は必ず女人を使ってくると言ってね。私にはまだ恋は早いと言いながらも、私に言い寄ってくる女人は注意しろと言ってきて。早良家の娘ならまだ信用はできるが、邸の侍女や宮廷の女官などは簡単に信用してはいけないと言ってね。私はまだ好きな人もいないというのに、女人の悪い思いばかり植え付けられているのだ」

 自分より一つ年下の鷹野は舌を出して、祖父園栄のお説教で長い時間、正座をさせられて足が動かなくなったことを嘆いた。

 父も自分と同じ年の頃は、同じような話を聞いて育ったのだろうか。別に誰かが入れ知恵をしているわけではないだろうが、まるで雪が危険な女人であるような気にさせられる話である。しかし……雪はそんな女ではないはずだ。

 実津瀬は稲生が好きになったという早良家の娘はどんな子だろうと、有馬王子との会合での様子を思い出そうとしていた。



 朝早くに本家から岩城実言邸に人が来た。

 本家の園栄の孫である稲生が熱を出したとかで、診てほしいとの要望だった。束蕗原から来ている医者を向かわせればいいことだが、岩城本家からの依頼であるので礼が束蕗原から来ている医者と従者侍女を連れて薬草を持って本家へと走って行った。

 実言はあれを持て、これを持ったかと指示する妻の様子を優しい目で眺めていて、それ本家に行くぞとなった時には玄関まで行って妻の背中が見えなくなるまで見送った。

 蓮はその父が自室に帰ってくる前に、父の部屋の庇の間に座って待っていた。

「おやっ?」

 父の実言はおどけた言葉を発した。

「かわいい子が部屋の前で待ち伏せしているよ。これはどうしたことかね」

 蓮はクスリと笑いだしそうになったが、笑ってしまったら父の術中にはまってしまうと思って堪えた。

 蓮の前を素通りする父の後ろに立ち上がって蓮は部屋の中へとついて行った。

 父は部屋の真ん中にある円座に座ると、蓮はその真向かいに膝がくっつきそうなくらいの近さで座った。

「蓮、近いよ」

 父は蓮にそう言うと、蓮は心なしか後ろに後ずさった。

「なに?私に何の用?」

 父はそう言って蓮を見つめた。

 蓮はその前に畏まって頭を垂れた。

「数日前に束蕗原に勝手に馬で向かいました。その時に大王に謁見する行列に突っ込んでしまって、大変な迷惑を掛けてしまいした。お父さまにも方々に頭を下げていただと聞いて、申し訳なく思っています。勝手なことをして、ごめんなさい」

 蓮が額を床板につけるほどに下げているところ、しばらく沈黙があった後に。

「私は大したことは被っていないよ。私のことはいい。それより、お前の名前は売れたね。……ま、悪い方にだけど。馬に乗って大王に参内する行列を蹴散らし、どこへ向かったのかと皆が噂している。若い女がすることと言ったら、好きな男に会うためだとね。岩城家の一員としてお前も全く知られていないわけではないからね、知った人からいろいろと噂話が聞こえてくるよ。でも、それはお前が招いた種だからね。誰を恨むでもなく、甘んじて受けなくてはいけないよ。だから、私のことを気にかけるより、これはお前の試練と思って自分のしたことと向き合わなければならないよ」

 父は淡々とした口調で言った。

「蓮……私の手伝いをしておくれ。礼は本家に飛んで行ってしまった。あの人はなぜが私を最後にするからね。私はこれから宮廷に行かなくてはいけないというのに」

 蓮は小さな声で「お手伝いします」と言って、部屋の隅に用意されている父が宮廷に着ていく衣装の入った箱を持って来た。父は肩から羽織っていた上着を脱いで、蓮から広げて手渡された袍を着た。次に帯を手渡した。父に手を貸して蓮は手早くそれを身に着けるのを手伝った。

「手早く着せてくれたね、ありがとう。今から式典に行ってくるよ。船に乗って異国へと出発する一団を見送る式典にね。そこに、伊緒理がいるよ。伊緒理の晴れの姿を見て来るからね」

 衣装を完璧に着付けた父は言った。

「あんまりめそめそするものじゃないよ、蓮」

 そう言って父は傍に座っている蓮の頭に手を置いて撫でた。

 蓮は部屋を出て行く父の後ろ姿を見送り、手伝いは終わったと、父の部屋を後にした。自分の部屋に戻る途中。

 今、お父さまから重要なことを聞いたのだ。

 今日、伊緒理は宮廷の式典で華々しく見送られて、異国へと旅立っていく。

 もう、伊緒理には会えないかもしれない。あんな惨めな別れをしたけれど、もう伊緒理のことなんてどうでもいい、とは思えない。伊緒理が遠くに行ってしまう。

 蓮は伊緒理が本当に遠くに行ってしまう寂しさが込み上げてきた。

 蓮は自分の部屋にたどり着くと、机の前にストンと座った。

 写しかけの本の表紙をじっと眺めていたが、やがてその右目から頬に涙が伝った。

 出たものを引っ込めることができない。そして、止めることもできなかった。蓮はただただ自分の目の縁から落ちる涙が顎を伝って膝の上に置いた手の甲に落ちるのを感じた。

 めそめそするものじゃないよ、と父に言われたが、その言葉には沿えなった。後から後から流れる涙に蓮は嗚咽が込み上げてくるのを抑えられなかった。

 なぜ、あんなふうな別れになってしまったのだろう。もう二度と会えないかもしれないのに。伊緒理の前途を応援したい気持ちだったのに。

 蓮は今になって自分の行動を後悔した。もっと伊緒理の気持ちを安らかに挑む気持ちに集中させて送り出すことができただろうに。

 蓮は終わりのない涙を流していると。

「蓮!」

 と後ろから声が掛かった。誰の声かはわかっているので、蓮は返事をすることも振り向くこともしなかった。

「……いつまで泣いているの?……お前は伊緒理のことを今でも思っているのだろう。たとえ、自分の思い通りにならなくても、伊緒理が求めることを応援したいと思っているのだろう?」

 そう問いかけられて、蓮は黙って大きく首を縦に二回振って頷いた。

「だったら、行こう」

 実津瀬が言った。

 どこへ?

 と蓮は思わず振り向いた。

 庇の間に立っている実津瀬が蓮に向かって、自分の上着を投げてよこした。

「大王に挨拶を終えた異国に向かう船に乗る一団が宮廷から出発する。伊緒理とのお別れをしに行こう」

 蓮は袖で頬を伝う涙をぬぐった。

「お前は数日前に馬で大路を大暴れした有名人だから、女の姿では連れていけない。変装ではないけれど、その上着を着て男の姿になって行こう。早く支度をおし」

 実津瀬が馬を引いて庭に戻って来るまでに蓮は結っていた髪を下ろして首のあたりで一つにまとめた。そして背子を脱いで髪の上から上着を着た。

「蓮!」

 庭から実津瀬の声がした。

 蓮が簀子縁に飛び出して行くと、実津瀬は馬に乗りあがった直後だった。蓮は階の下に置いてある沓を履いて、実津瀬の手に捕まった。階を二段ばかり上がってそこから実津瀬と飛ぶ時を合わせて馬の背に飛び乗った。最後は実津瀬の手の力に引き上げてもらった形だ。

 蓮は前に乗る実津瀬の胴に腕を回してその背中に顔を伏せた。

「じゃあ、行くよ」

 そのまま裏庭の入り口から外へと出て行った。

 馬に乗った者は目立つため、実津瀬は大通りを避けて、人通りの少ない裏道を走った。

 馬の扱いは自分の比ではないと蓮は思った。実津瀬はなれた手つきで手綱を捌いて、馬を北の山へと向けた。門をくぐって、都の外へ出て、山の中へと入って行った。樹々が生い茂る中を馬はなだらかな坂を駆け上って行く。

「実津瀬!どこに行くの?伊緒理はどこにいるの?」

 蓮は伊緒理とお別れするというのに、どこに連れていかれるのかわからなくなって、実津瀬の背中に向かって声を張り上げた。

「もう少しだよ」

 首を少し後ろに向けて、実津瀬は答えた。すぐに前を向いて馬を走らせていく。突然、樹々に覆われていた空が開けた。陽光が射して蓮は実津瀬の背中に顔を伏せた。

「よし着いた!」

 しばらく走った後に、実津瀬の大きな声が響いた。

「蓮、下りて」

 蓮は実津瀬の背中から顔を上げて、その手に捕まって馬を下りた。

「あっちだよ、蓮。あそこを見てごらん」

 来た道の方に顔を向けていた蓮に、馬を下りた実津瀬は逆の方を指さして言った。

 蓮は慌てて実津瀬が指さす方へと向いた。

 樹々のない丘が突き出したような場所から、下を見ると都の大路や宮廷の裏側が見えた。

「ちょうどよかった。蓮、宮廷から行列が出て行っているところだ。見えるかい?あれが今回、海を渡る役人や学者、留学生、船員たちだ。異国の人々と共に今から、難波というところに出て、そこから船に乗って島々を経由して那の津というところに行くのだ。そこで大海原を渡るための大きな船に乗り換えて、大海へと出発されるのだよ」

 蓮は最初どこを見たらいいのかわからず、宮廷の真ん中にそびえる大極殿の後ろ姿を見ていた。

「ほら、朱雀門を見てごらん。今朱が映える旗がいくつも見えるだろう。今門を出て行った」

 蓮はようやくどこを見たらよいのか分かった。馬に先導された行列が列をなして宮廷の門から出て行っている。そこには長い竿の先端に旗をつけていて、それが目印になった。

「今、門に武官たちが進んでいる。その後ろに異国の人たちだよ。直近でここに船に乗って来ていた人たちもいれば数年前に来た人たちもいて、この度の船で帰国するんだ。その後に役人や学者だよ。そして、留学生。……今じゃないかな……伊緒理が門を出て行くのは……」

礼は豆粒ほどに小さく見える行列に目を凝らした。あの中に伊緒理がいるのだ。

 お父さまが言っていたように、美しい衣装を着た晴れ姿の伊緒理が。自分の夢と希望に燃えている伊緒理がいるのだ。

 伊緒理……どうか無事に無事に航海を終えてほしい。そして、異国で医術や薬草の勉強を終えて、再びこの地を踏んでほしい。私がいるこの都の地を。

「……祈ろう……伊緒理の無事を」

 実津瀬が蓮の隣で言った。

 蓮は自分の胸に両手を重ねて置いて、祈った。

 山の神、海の神、異国の大地の神……どうか、どうか、私の伊緒理を守ってください。伊緒理の行くてを阻むものから伊緒理を守ってください。  

 あの人の夢が叶うことが、私の喜びなのです。

 蓮は顔を上げて、朱の旗が春の風にはためきながら、遠ざかって山あいに見えなくなるまで見つめていた。

 隊列が消えてみえなくなっても蓮はしばらくの間その方向をじっと見つめていたが、急にくるりと実津瀬の方を振り返り言った。

「実津瀬、ありがとう。……伊緒理は無事に異国の地に辿り着くと思うわ。あの人の行く道には光り輝く将来が見えたわ」

 実津瀬は、妹の顔を見た。

「きっと、私の喜びになるわ」

 蓮は泣きはらした目を細めて満面の笑みで言った。


第一章終わり

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