第一部あなた 第一章11

 束蕗原に岩城実言が到着した。従者二人を連れて、馬を飛ばして都の北東にあたるこの地に来たのだ。

 去の邸の離れにいる礼や蓮たちに、館の使用人からすぐに連絡が入った。宗清は久しぶりに会う父の到着に喜び、簀子縁をわき目も降らずに走って行った。それを追って珊も走る。

「元気ね」

 と母の礼は言って、こちらの離れに渡ってくる夫の座る場所を設える準備を始めた。出迎えが宗清と珊だけだと、父は寂しがるだろうと思って蓮は立ち上がった。それを察した榧も一緒に母屋の玄関へと向かった。

 父は母が来てくれることが一番嬉しいだろうが、母の礼は部屋で迎えるつもりのようなので、子供だけで父を迎えよう。

 邸に上がった父の傍に宗清が立っていて、頭に手を置かれている。何か褒められているようだ。にこにこと笑って喉の奥が見えるほど大きな口を開けて何かを話している。

「お父さま、はるばるよくいらっしゃいました」

 蓮が父に近寄って言うと、宗清と珊を両脇に従えて実言は娘の前に立った。

「朝一番に都を出てきたよ。みんなが出迎えてくれて嬉しいね。あれ、礼は?」

「お母さまは、奥の部屋でお父さまをお待ちです」

「そう?では、早速奥に行こうか。ほら、みんな、行くよ」

 珊の手を取って軽快な足取りで奥の離れに向かった。

 榧も宗清も久しぶりのお父さまとのふれあいに嬉しそうに歩いていく。

 蓮はその後ろをとぼとぼとついて行く。みんな嬉しそうだ。もちろん、蓮も嬉しいが自分の心に影を差すことがある。

 もう、この束蕗原に伊緒理はいない。

 蓮たちよりも一日早くこの束蕗原に来た伊緒理は、十日ほどここにいて都の外れにある自分の邸に帰って行った。

 蓮が自分の気持ちを告白した後でも伊緒理の態度は変わらなかった。蓮を避けるようなことはない。薬草園で薬草を摘み、乾燥させる作業や、すり潰す作業を一緒にした。いつも笑顔で、話し掛けてくれて蓮を拒絶したりしない。今までの蓮と伊緒理の関係は何も変化していないような錯覚に陥るが、蓮は何度も伊緒理の言葉を思い返した。

 伊緒理は自分を妻にしたいとは言ってくれないのだ。

 こんな悲しいことはない。子供の頃に伊緒理と出会ってから、伊緒理を意識し、この気持ちの意味を知って、ずっと思ってきた想いにはもう先がないのだ。

 伊緒理が今まで通りに蓮に接すれば接するほどに、伊緒理は蓮への思いなどないのだと感じる。

 夜に部屋に戻って泣きたくなる気持ちだった。部屋は母と一緒だから、泣き声など漏らそうものなら、母を心配させてしまう。

 蓮は夕暮れ時に一人で邸を出て、その周りを一人で歩いた。ふと、視線を感じで後ろを向くと鋳流巳がついて来ていた。

「鋳流巳……ついて来てくれていたの?」

 都での外出にはいつも鋳流巳が付き添ってくれていた。今回の束蕗原に来るのに都から連れてきた数名の従者の中に鋳流巳もいたのだ。

「一人は危ないです」

「そうかしら?一人で歩きたかったのよ。……でもあなたがいてくれたからよかった」

「もう、帰りましょう」

 鋳流巳に言われて、蓮は頷いた。歩いても歩いても答えは出ないのだ。この人をこれ以上心配させてはいけないと思った。

 部屋に戻ると妹弟たちが待っていた。

「姉さま、どこに行っていたの?」

 無邪気な宗清が一番に近寄ってきて尋ねた。

「少し庭を歩いていたのよ」

 その言葉をその通りに受け取って、自分達をかまってくれという宗清や珊、榧がかわいくて蓮は救われた。

 大人の女になる……好きな男の妻になって両親のように仲睦まじく暮らし、たくさんの子供を作って、みんなが笑っているような家族を作りたい。

 それを、伊緒理と作るのが夢だった……。

「姉さま?」

 榧が怪訝な顔をして蓮を見上げている。目尻に涙がたまっているのに気づいて、蓮は指先でそっと拭った。

「外が冷たくてね。顔が本当に冷たくて、涙がでちゃったわ」

 蓮が笑うと榧も笑った。

 それから珊が好きな人形に適当に話させて、それを順番に繋げて話していくと、物語になるという遊びをした。

 蓮は伊緒理のことを一旦意識から追い出し、父の後ろから母の待つ部屋に入ると、母の礼は庇の間で立って待っていて。

「あなた、遠いところお疲れ様でした」

 と言って夫を迎えた。その姿を見ると、父は子の手を離して妻に近寄り、その手を握った。そして、腕の中に入れて会いたかったと言っている。いつものことで、子供たちはその姿を笑顔で見守っている。

 夕餉の時刻になると、父と一緒に膳を囲んだ。実言は子供たちの顔を見回して嬉しそうに笑っている。

「久しぶりに見るお前たちの顔。都よりも楽しそうだな!そんなに束蕗原の生活がいいのかい?」

「そんなことはないです。でも、川で魚を獲ること、山の中を探検するのは楽しいです」

 都では庭の木登りくらいの宗清も、ここではより好き勝手な冒険ができて楽しそうなのだ。

「ああ、これじゃあ、お前たちが都に帰って来てくれるのはもっと後になってしまうかもしれないね」

 そんなおどけた嘆きを言って皆を笑わせた。

 子供たちの食事が終わると、去が来て、酒を用意して話が始まった。榧たちと一緒に蓮も退出しようとすると、父は手招きして蓮を傍に座るように示し、持ち上げた杯に酒を注げと暗に言ってきた。

 侍女たちに下の子たちを任せて、蓮は父の隣に座って酒を注いだ。

 深い杯にとくとくと白い液体が流れていく。

 蓮は飲み過ぎさせてはいけないと、ほどほどの深さまで入れて徳利を置いた。

 もっと子供の頃に、母がしている真似がしたくて、父の杯に酒を注いだことは何度かあったけれど最近ではこのようなことはしていない。

 最近、酒を注いだのは……伊緒理の杯だ……。とても大人びたことをしている気分になった。そう、まるで父と母がしていたように、夫婦になったような感覚になった。でも、束の間の喜びだった。

 蓮が物思いにふけっているときに、去が実言に向かって、いつものお礼を述べている。

 岩城実言は去の領地である束蕗原に様々な援助をしている。金銭的な援助はもちろんだが、異国からの薬草などの書物を取り寄せ、薬草そのものを手に入れるといった便宜を図っている。人的な支援も惜しまない。束蕗原の警備や家計の管理など、去から相談を受けたらすぐに人を送ってきた。また、束蕗原で学ぶ者を都の岩城邸に住まわせ、妻が営んでいる診療所で働かせている。それが、束蕗原にとってもさらなる医術の知識の習得や都の生活、作法などがわかってありがたいのだ。

 それに、なにより去は岩城実言が好きである。

 夫を持たなかった去は子供も産まなかった。その代わり妹の子である礼を、妹が早く亡くなったせいで、我が子のように案じてかわいがった。そして、この邸で生まれた蓮と実津瀬は我が孫と同じであった。

 我が娘に、良き夫を得たと喜んでいるのだ。

 なので、実言が束蕗原に来たときは、去は真心を込めてもてなした。

 夫になった実言は去を義理の母のように敬い、細やかな気遣いをしてくれる。そして、優しい男なので去の愚痴や、束蕗原の日常を長々と話しても、いやな顔せず聴いてくれる。実言は相槌を打って、話を続けさせるので去もいつまでも言葉を続けてしまう。 

 去と父が束蕗原の最近の活動や、都の情勢などを一通り話し終えた時、父の杯に酒を注ごうとすると、手が蓋をした。

「蓮、つき合わせて悪かったね。部屋にお戻り。途中まで連れて行ってあげよう。……去様、娘を部屋まで送ってきます」

 と言って、立ち上がった。蓮も自ずと立ち上がらざるを得なくなって、去に挨拶をして庇の間に向かった。

 先に簀子縁に立った父に蓮は追いついた。

「一人で部屋に行けます」

「そうだね。でも、久しぶりに会うのだから、いいじゃない」

 と言って、一緒に歩き出した。

「皆、ここの生活が楽しそうで寂しいよ、全く」

 とまた、父は愚痴をこぼした。

「皆、お父様に会えて嬉しいわ。でも、宗清が一番嬉しそうでした。周りが女ばかりで、物足りないのかしら」

 それから、実言は都での実津瀬との暮らしを話した。実津瀬がいると言っても物静かな男で、夕暮れ時に笛が聞こえて、実津瀬がいたなと思い返すのだという。

 実津瀬の笛か…と蓮は思った。

 今の自分を慰めてくれるのはいつも一緒にいた実津瀬かもしれない。話さなくてもなぜか通じ合うものがあるもの……。

 蓮はそんなことを思った。

 父が来たからいつも母と寝ている蓮は今日から妹弟たちと一緒に寝る。この角を曲がればその部屋だというところで、父は止まった。そして、手を上げると蓮の頭の上に載せて、二度ほどぽんぽんとさすった。

「なあに、父さま。私は宗清みたいな子供じゃないわ」

 と蓮は頭の上に載ったままの父の手を取って、下に下ろした。

「そうだね。でも、お前は私の子供だから、宗清と変わらないよ」

 と答える。

「こちらの生活も楽しいだろうけど、お前はそろそろ都に帰っておいでよ。私と実津瀬だけの邸なんて味気ないよ。お前も、都が恋しくなっただろう。本家の従姉妹たちとも遊びたいだろうし。本を写すのは都でもできるよ。お前ひとりなら、馬に乗って一緒に帰ることができる」

 父はそう言った。

「明後日に帰るから決めるのは今すぐじゃなくていいよ。別に無理強いするわけじゃないからね」

 よくお眠り、と言って父は元来た簀子縁を帰って行った。

 無邪気な妹弟たちと一緒にいるのはそれで楽しいが、実津瀬に会いたい。父と一緒に帰ろうかな。

 蓮の気持ちはそちらに傾いた。

 部屋に入ると、宗清と珊は気持ちよいほどの寝息を立てていた。二月の寒い夜でも、衾からはみ出している。蓮は二人に衾を掛け直した。

 榧の隣に体を滑りこませると、しばらくして榧の足が蓮のふくらはぎにあたった。それは寝返りを打ったからではなく、榧が意識的に蓮の足に自分の足を持って行ったからである。

 冷たい足先に、蓮はびっくりして少し足を動かした。すると。

「姉さま」

 と小さな声がした。

「……榧……冷たいわね。温石を持って来てもらおうか」

 榧の足先の冷たさに蓮は返事をした。

「温石はもうあるの」

 榧は返事した。冷えに悩む妹に、蓮は自分の褥の端を上げた。

「お父様の相手をして、お酒を注いでいたのよ。部屋には火鉢がたくさんあったから、私の体は火照って榧の足は気持ちいい。こっちにいらっしゃい」

 妹の体を抱き寄せて、その冷たい足を足で抱いた。

「冷たくて眠れなかったのね。足をもっとくっつけていいのよ」

 榧が足の指を姉の足の上に載せた。

「温かい?」

 蓮は言って、妹の足が温まるのを待って、目を瞑った。

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