第一部あなた 第一章12

 今日、父が束蕗原に行っていてよかった。

 実津瀬は、心からそう思った。

 邸に家族は誰もいない。自分の様子が変でもそれを何かといってくる者はいないのだ。

 雪と別れる前に背を向けて袴をつけ直し、脱いだ袍に袖を通して帯を締めた。雪は、単衣を肩に掛けただけの姿で、解けた髪を胸の上に垂らして手櫛で梳いていた。

「では、私は先に……」

「はい。私はゆっくりと身支度をしますから……」

 実津瀬は雪をもう一度抱いて、妻戸の前まで来た。そこでもう一度雪を振り返った。すると雪と目があった。ずっと実津瀬を見つめていたようだ。そのまま妻戸を引いて、実津瀬は外へと出て行った。

 邸に帰って来た実津瀬は今日の雪との出会いから別れまでを思い出していた。

 自分の中にあのような欲望があったのかと、思い返してみて驚く。自分を自制できないほど雪への思いは強かった。そして、雪を下に組み敷いて痛めつけているのではないかと、後で心配になったほどに、雪の体と繋がり激しく愛した。

 雪の体の中の奥深くに入って、自分の快楽のままに動くと、雪は吐息を漏らし、時に小さな呻き声を発した。実津瀬様、と小さな声で囁き、熱い吐息が実津瀬の首筋や胸に降りかかった。

 あの快感をもう一度味わいたい。そんな欲望に囚われて褥の上に身を横たえた。

 翌日いつもの通りに夜明け前に目を覚ましたが、体は重く、動くのが億劫だった。しかし、見習いの仕事だけはしなくてはいけないと、朝餉を食べると邸を駆けだして宮廷に上がり、仕事をした。いつもなら、その後に塾に行って講義を受け、舞の練習に行くが、今日はどれもやる気が起きなくて、すぐに邸に帰って部屋の中に寝転がって過ごした。

 すると、申刻(午後二時)ごろ、本家の稲生と鷹野がやってきた。舎人がすぐに実津瀬の部屋に飛び込んできて、二人の来訪を告げた。

 実津瀬は体を起こして、二人をどうしようかと考えていると、遠くから騒がしい足音が聞こえてきた。

 実津瀬自身も岩城本家の邸の中を知っているのと同じで、稲生と鷹野もこの邸には何度も来ていて、勝手知ったる邸であり案内など無用なのであった。

「実津瀬!どうした?風邪でも引いたか?」

 鷹野が庇の間に入ってくるなり、言った。

 実津瀬は起き上がった態勢で思案していたところ、虚を突かれたような恰好だ。

「お前が塾に来ないなんて、皆が驚いている。どうした、寒気でもしているのか?」

 続いて稲生も入って来た。

 昨日寒い中、裸になって女人の体を抱いていたのだから、風邪を引いてもおかしくないが、いたって元気だ。しかし、そんなことを言うわけもなく、肩を落として言った。

「少し、調子が悪いような気がして、宮廷に行ってからすぐに帰って来たのだ」

 そう言った後、雪は風邪を引いていないだろうかと、心配になった。寒い部屋の中で、暖を取るように抱き合っていたけども、雪は自分よりも肌を晒していた。

 部屋の中の隅に置いていた火鉢を中央に寄せて、男三人が集まった。

「本当に具合が悪いのか?」

 稲生が言って、実津瀬の額に手を置こうとした。実津瀬はその手を掴んで、下に下ろした。

「やめてくれよ」

「どうした……お前らしくない」

「静かにしてくれ。稲生の声が頭の中に響く」

「おおっと、どうやら本当に病気のようだ。仮病ではないかと疑っていたのだが」

 実津瀬は顔をしかめて頭が痛い振りをして見せた。しかし、患っているのは心だ。雪のことばかり、雪の体ばかりを思ったり、思い返したりしている。

「今は、実言叔父上はこの邸にはいないのだって」

「そうだよ。母や妹弟たちが束蕗原に行っているから、そこに二泊の予定で行っている」

「だから、邸全体が静かなのか。お前も、さぼれると思って塾を欠席したのではないか」

 稲生はしつこく、実津瀬の仮病を疑っている。

「うるさいな」

「はあ、ここはいいな。平穏で。ねえ、稲生」

 鷹野はそう言って、火鉢に足の裏を向けた。

「そりゃあ、この邸では無縁のことだろうよ」 

 稲生と鷹野が何のことを話しているのかわからず、実津瀬は首を傾げた。

「今、女のことで邸はもめているのだよ。三番目の兄が邸の侍女に遊びで一度だけ手を出して、孕ませてしまったのだ。他の侍女にも手を出していたものだから、女たちの間で争いが起こって、孕んだ女を痛めつけようとして、それを従者が止めに入ってと大騒ぎだ。本当に嫌になるよ」

 実津瀬は黙って聞いている。

「ここではそんな痴話はないだろうね」

「父上も多くの女に手を出してきたから、今までは兄にうるさく言わなかったけど、今回は別のようだ。侍女たちはもう機嫌が悪くて、何を頼んでも顔を背けてきいてくれなくてたまらないよ」

 稲生と鷹野は二人で本家の話をしている。実津瀬は耳だけ傾けていた。

「我々にもお父さまから邸の侍女には手を出すなときつく言われているよ」

 稲生の言葉に、そんなことはこの邸ではないだろうと、実津瀬は思った。

「お爺様からは他の邸の侍女や宮廷の女官にも手を出すなと言われている。どこぞの馬の骨ともわからない女に引っかかってはだめだとね。悪くすると、我々を滅ぼすことをもくろむ間者が紛れ込んでいるかもしれないと言われた。我々はこれから女人と出会うという時だというのに、どこの女人と知り合えばいいのだろうか?まったく窮屈なものさ」

 稲生は言って笑った。

「稲生たちは、有馬王子の宴や、本家での宴に出られるからいいじゃないか。私はまだ、そこに行くことを許してもらえない。そこには可愛らしい人がたくさんいると聞いている」

 鷹野はうらやましそうに言った。

「実津瀬はどうだ?お前は舞をするから、ちょっとした有名人だ。声を掛けられることもあるだろう」

「もてる男はうらやましい」

 そんなことを言って稲生と鷹野は冷やかした。

 実津瀬は一人思案していていた。

 二人がここで話していることは、全て雪は危険だと言っているように聞こえてならない。女官として働いていたら、様々な貴族と知り合うことができる。心配しているように、岩城を倒したい勢力に組み込まれる可能性はある。だからと言って、必ずそうだとは言えない。

 今の自分達は純粋にお互いのことを思っていると……そう信じたい。

「黙っていても、結婚相手は決められてしまう。好きだろうとそうでなかろうと、気が合おうと合うまいとね」

 稲生は言うと、情けない声を出した。

「今ならたとえ、どこかの女人のところに通おうと思っても、見張りがつけられているかもしれないな。まったく、恋愛はこれからという時に兄のせいで自由にならない」

 二人はそんな愚痴のような話を、従兄弟の実津瀬の前であるという気安さで話している。仮病の頭の痛いふりは疎かになり普段の実津瀬になって、うんうんと頷いて聞いている。

「実津瀬、調子が悪いのは治ったのか?けろっとした顔をしている」

 帰り際に鷹野に言われて、実津瀬は焦った。

「部屋でじっとしていたら治ったようだ」

「本当か、実津瀬にしては怠け心がでたのではないか、実言叔父上がいないことをいいことに」

 と実言の腕を肘でつついた。

 二人は終始本家の愚痴と冗談を言って帰って行った。

 実津瀬は一人自室に残って、考えていた。

 もしも、雪のことが父に知れたら、本家で言われているように女官は危険な女だとして会うことを禁じられるのだろうか。

それは嫌だ。昨日、これが最後ではない、と言ったのだから。

 実津瀬は部屋の真ん中に寝転がり、思い出していた。

 自分にまとわりつく雪の黒い髪の艶やかさ、肌の柔らかさ、匂い、吐息を……。

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