第9章  1963年 プラスマイナス0 – 始まりの年 〜 1 覚醒(5)

 1 覚醒(5)




「アパートの前でって? どうしていきなり、道に飛び出したりしたのよ!?」

 どうしてと聞いたって、監視役が答えを知っているはずはない。ただそんな声からそう経たないうちに、石川からの電話でそれらしい答えを知ることになった。

「実は先ほど、剛志さんのお父様が亡くなられたそうです」

 店で仕込み中に倒れたと、若い方の剛志に付いていた者から緊急連絡が入ったらしい。

 ――きっと忘れていた命日を、彼は何かの拍子に思い出した……。

 すぐにそうだと思ったが、それでも本当のところは本人だけが知っている。

 ところが彼は目覚めなかった。智子の融資する病院に転院させて、最先端の治療を受けさせるが効果が出ない。

 そして目覚めるまでの約九年間で、智子は林のあった土地を買い占め、記憶に残る空間を再現しようと試みた。もちろん記憶は曖昧で、かなり違ってしまうことも覚悟の上だ。

 ところが驚くことに、水彩画の完成予想図は記憶にあるそのままだった。

 ――やっぱり歴史って、黙っててもちゃんと、なるようになるのかも……。

 そうして九年、目覚めないかも……と思い始めて、もうずいぶん経った頃だった。

 突然、病院の跡取り息子である広瀬正から、剛志の意識が回復したと電話が入る。

 これまで智子は何度思ったかしれないのだ。もしもこのまま目覚めなかったら、名乗り出なかったことを一生後悔するだろうと。しかしその一方で、智子として会ってしまえば、どうしたってこれまでのことを黙ったままでは済まされない。

 戦後の生活についてだけは、絶対剛志には知られたくなかった。

 だからこそ、陰ながらの支援を選んだし、戦後の苦労話を彼が知れば、要らぬ責任まで感じてしまう恐れもあった。

 ところが運の悪いことに、剛志がリハビリ中に骨折してしまうのだ。

 それ以降、彼は一切リハビリをしなくなる。広瀬からもどうしたものかと相談されて、いよいよ岩倉節子として彼の前に出て行こうと決めた。

 さっそく広瀬と打ち合わせ、ずいぶん濃いめの化粧で彼の病室に顔を出す。

 ――智子だって、気づかれないかしら……?

 最初は少し、そんな心配もあったのだ。しかしよくよく考えれば、十六歳同士だったのは三十年も前で、半日ちょっと一緒に過ごしたのだって十年くらい前のことだ。そのときだって智子は十六歳だから、当然今とはぜんぜん違っている。とにかく写真も何もない状態で、記憶にある智子もずいぶん不確かだったろう。

 だからそんな心配も杞憂に終わり、きっと最初は、なんだこの女はくらいに感じていたと思うのだ。ところがいざ病室を出かけると、向こうからもう少しいてほしいと言ってくる。

 その瞬間の喜びは、言葉では到底言い尽くせないものだった。

 そうしてその日から、二人の距離は少しずつだが縮まっていく。

 ところがその一方で、終戦後の思い出を語っているうちに、智子として名乗り出る難しさを嫌というほど思い知った。

 十六という年齢で、これまでどうやって生き抜いてきたか?

 智子としてそんな事実を、とても口にはできないと痛烈に感じ、

 ――十六歳だった智子は、あの火事の日、完全に消え失せてしまったのよ。

 今後一切、智子を封印しようと心に決めた。

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