第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 〜 1 平成二十五年(11)

 1 平成二十五年(11)




「あの、わたしが節子と出会った時、確か彼女は何か病気で、ここに通院していたんですよね? そして先生が、彼女の担当医師だった……」

「そう、それだってね、わたしは困ると申し上げたんですよ。ところが土下座せんばかりに頼み込まれて仕方なく……だから、それもね、実は大嘘なんです。本当にすみません、でも、それからしばらくして、風の噂で一緒になられたと耳にしましてね、ああ、やっぱり、なんて思ったのを、今でもはっきり覚えています」

 節子の通院までが嘘だった。

「どうして、そんな嘘をついてまで……」

「さあ、どうしてなんでしょう……。ただ、そんなことに理由があるんだとすれば、きっと、けっこう単純なことじゃないでしょうか? あなたを助けようと、奮闘した彼女としてじゃなく、同じ病院でたまたま出会った、そんな普通の感じが、節子さんの望みだったのかもしれません。まあ、なんにしても、もう大昔のことですし、真相を知るには、節子さんご本人に聞いてみるしかないでしょうね……」

 広瀬がそう返したところで、少し離れたところに事務員らしき女性が立った。

「そうか、もうこんな時間か……」

 腕時計に目をやりそう言うと、広瀬は長椅子から名残惜しそうに立ち上がる。そして打ち合わせがあるんだと剛志へ告げて、

「今度はわたくしどもで、奥様のことを、しっかりやらせていただきますから……」

 そんな言葉を最後に、深々と頭を下げて待合室から立ち去った。

 一方、あまりの衝撃に、剛志はしばらくそこから動けない。こんな事実を知ってしまって、このまま何もしないでいいのだろうか? そんな気持ちが湧き出る反面、

 ――しかし今さら、あんな状態の節子に、なんと言って問いただせばいい?

 その結果、耳にすべきではなかった真実が現れ出れば、残りの人生後悔し続けることになるだろう。そう長くはない二人の時間に、これ以上の不安材料を持ち込むなんてまっぴらだった。

 だから剛志は即決で、広瀬の話を聞かなかったことにしようと決めた。



 その後、広瀬が言っていたように、節子の病状は悪化の一途をたどっていった。

 包丁騒ぎのようなことがしょっちゅう起きて、つい手を上げそうになることが増えていく。

 担当医に相談すると、そんな症状に効く薬があると言われ、剛志は藁にもすがる思いでその薬を処方してもらった。薬は本当によく効いて、節子に飲ませると劇的に大人しくなる。だからなんの疑いもないままに、彼は戻ってきた平穏な日々に心の底から感謝した。

 しかしそんなありがたい日々も、そうそう長くは続かない。

 きっと頭の片隅で、薄々感じていたと思うのだ。ところが以前の状態を恐れる余り、知らず知らずのうちに考えないようにしていたのだろう。

 ふと気がつけば、節子が滅多に話さなくなっている。

 話しかければ返事はあるが、そうでなければ滅多に言葉を発しない。ついこの間まで、歩き回られて困っていたはずが、あっという間に一人では満足に歩けなくなった。

 なんとも間抜けな話だが、剛志はここまでになって初めて作用の強さに気がついたのだ。

 その日から、薬の投与をすっぱりやめて、慌てて担当の医師に相談しに行く。しかし希望に沿って処方した薬で、ああだこうだ言われたって困るという答えが返った。

 確かに、十分すぎるほど大人しくはなった。

 しかし今あるこの状態は、大人しいなどという表現にとどまらない、まるで人間らしさを削ぎ落とされてしまった印象なのだ。

 剛志はやりきれない気持ちのまま、節子の車椅子を押しながら帰った。

 途中何度も涙が溢れ出て、やはりタクシーに乗らないでよかったと心から思う。そしてもう二度と、あの手の薬には頼らない。そう誓って、心の声だけで節子に何度も詫びたのだった。

 ところが服用をやめた後も、節子の状態は元のようには戻らない。

 さらに病状も進んでいって、ある日とうとう何をどうしようと立てなくなった。その頃には一人で食事もとれないし、もちろんトイレも手取り足取りという感じだ。

 こうなると当然、剛志への負担はかなり大きいものになる。

 しかし剛志はそれでも、施設へ入れようとは思わなかった。

 支援サービスなどをどんどん使って、自宅で介護を続けようと決めていた。そして彼女の死を元気なまま見届けようと、剛志は心に強くそう思う。

 ところがそんな願いが一瞬にして、ある日を境に吹き飛んでしまった。

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