第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 〜 2 岩倉節子(2)

 2 岩倉節子(2)

 



 ――全治二ヶ月。

 ただし、骨がずいぶん脆くなっているから、もう少し余計にかかるかもしれない。医師からそう告げられ、不覚にも涙が溢れ出た。

 九年間……気づけばそんな時を失って、今も満足に歩くことさえできないのだ。

 ――俺がいったい、何をしたっていうんだよ!

 怒りをとうに通り越し、言いようのない喪失感が彼の心を埋め尽くした。

 そしてその日を境に、剛志の中で大きく何かが変化する。それからは、ほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになった。ギプスをしていようが車椅子には乗れるし、本当なら歩く以外のリハビリだってある。

 ところがどうにもそんな気になれない。

 ――慌てたって仕方ない。まずはしっかり脚を治す。すべては、それからだ。

 どうにもこんな風にしか思えずに、誰に何を言われてもリハビリ一切を断り続けた。

 それからちょうど一週間、起こしたベッドを背もたれにして、剛志が新聞を読んでいた時だった。小さなノックが二回響いて、扉の向こうから見知らぬ女性が姿を見せた。

 この時代にしては大柄で、厚化粧の感じが商売女を連想させる。

 そんな女性がいきなり現れ、目を合わせるなり明るい声で言ってくるのだ。

「あら、本当に目が覚めたんですね。へえ、意外と元気そうじゃないですかあ~」

 きっと以前から、剛志のことを知っていて、どこからか覚醒したと聞きつけた。そしてその見た目にふさわしく、図々しくもここまで押しかけてきたのだろう。

「退屈していらっしゃるって聞いたんです。だからね、お好みかどうかわかりませんが、これ、陣中見舞いです……」

 反応ないままの剛志に構わず、女性は抱えていた紙袋をベッドの脇にストンと置いた。

 こうなって、さすがに黙ってもいられない。

「あの……どちら様ですか……?」

「あ、ごめんなさい。わたし、岩倉節子と申します。広瀬先生にお世話になっていて、あなたのことはずっと話に聞いていたんです。それで久しぶりに診察に来たら、先生からお目覚めになったってお聞きして……」

 だからつい、病室まで押しかけてしまった……。

 彼女は頭をチョコンと下げてから、そう続けて照れ笑いのような表情を見せた。

 ところがすぐに、そんな笑顔がぎこちなく揺れる。揺れる笑顔が真顔になりつつ……、

「でも、本当によかった……本当に……おめでとうございます」

 ふーっと長い息を吐き、再び深々と頭を下げた。

 その瞬間、彼女の目には涙があった。

 光るものが揺らめいて、顔を上げれば頰を伝った跡がある。

 今日、初めて会ったのだ。

なのに、何も知らない自分のために、涙まで流して喜んでいる。

 そんな事実に、一気に女性との距離が縮まったように感じた。そうしてやっと、ベッド脇に置かれていた紙袋に手を伸ばす気になる。すると中身は十数冊の文庫本で、ちょっと見ただけでも推理小説からSF、ハードボイルドまでと幅広いジャンルに及んでいるのがわかった。

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