第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 〜 2 岩倉節子(3)

 2 岩倉節子(3)




「一応本屋さんに、面白そうなのを選んでもらったんですけど……つまらなかったら、無理しないでくださいね」

 そう言ってすぐ、「それじゃあ、わたしは帰ります」と、彼女が伏し目がちに呟いたのだ。

 その時とっさに、彼は思わず言ってしまった。

「もし、お急ぎじゃなかったら、ですが、もう少し……ここにいてもらえませんか?」

 ――いきなり俺、なに言ってんだ!

 言った途端にドギマギしたが、それでも剛志は彼女を見つめ、隅に置かれていた丸椅子に向け必死に指を差したのだ。

 どうして、こんなこと口走ったのか? 少なくとも年齢は近いだろうし、水商売であれなんであれ、その顔立ちは間違いなく美人だと言える。

 それでもやっぱり引き止めたのは、彼女が流したあの涙のせいだ。

 一方、岩倉と名乗った女性の方は、その瞬間目を見開いて、少し驚いたようにも見えた。しかしそんなのも一瞬で、すぐに剛志の方に笑顔を向けて、

「わたしには家族もいませんし、急ぐようなことは、何もありませんのよ……」

 静かな調子でそう言うと、丸椅子をベッド脇まで持ってきてから腰掛ける。

「あの、広瀬先生には、どうして……?」

 少々不躾すぎるかと思ったが、そう思った時にはすでに言葉になっていた。

「大した病気じゃないんですけど、ここのところちょっと悪くなって、これからしばらく、また先生のところに通うことになりそうです。家でじっとしてばかりだからいけないんだって、先生に前々から言われてたんです。だからせいぜい頑張って、この病院まで歩いて通おうと思ってるんですよ」

 そう言って、岩倉節子はなんとも優しい笑顔を見せた。

 それからというもの、彼女は週に一、二度、剛志の病室に姿を見せる。そうして他愛もない話から、身の上話なんかを楽しそうに話してくれた。

 きっと彼女は剛志より若い。前からそうだろうと思っていたが、実際の年齢を耳にして、剛志はその若々しさに心の底から驚いた。

「戦争で、両親や親戚、友達をみんな一気に亡くしました。だから戦後、わたしはいろんなことをして生きてきたんです。人に言えないようなことだって、たくさんたくさんしてきましたよ。幸い今はもう、こうして静かに暮らしていけるようになりましたが、それもこれも皆、戦争で亡くなった方々のおかげなんだなって、最近つくづく思うんです」

 名井さんはここに入院する前、お仕事は何をしていたのですか? 彼女はそう尋ねてすぐ、剛志の答えを待たずにそんな話をし始めた。

 戦後をたった一人で生き抜いた――そんな言い回しを口にするからには、終戦の年にはそこそこの年齢だったということだ。

「あの、節子さんは終戦の時、おいくつだったんですか?」

 剛志がそう聞いた時、節子は一瞬怒ったような顔をした。それからクスッと笑って見せて、「うそうそ」と言ってから誕生年を教えてくれる。

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