第4章  1963年 - すべての始まり 〜 5 常連客と「おかえり」(6)

 5 常連客と「おかえり」(6)

 



 渋谷で見知った商品の価格、そして児玉亭でじっくり眺めた品書きによって、彼はこの時代の価値を十倍くらいと当たりをつけた。

 つまりこの時代で十円ならば、二十年後は百円ってことだ。

 ただし児玉亭の品書きの中には、十倍どころか三倍にも満たないものだってあった。

 昭和五十八年なら三百五十円とか四百円なのに、児玉亭では生ビールが百四十円もする。これで十倍だってことなら、ビール一杯が千四百円ってことになるだろう。

 そりゃあいくらなんでも高すぎるし、彼は学生時代実際に、耳にしたことがあったのだ。

「昔、ビールってのはさ、ホント、高嶺の花だったんだぜ。だからこうして、ビールと同じように麦芽とホップで作られたホッピー炭酸を、安かった焼酎の中に入れてさ、ビールっぽい感じを楽しんだってわけよ……」

 なんてことが本当かどうか知らないが、大学の先輩が自慢げに話していたのを覚えていた。

 確かに児玉亭では昔から――三十六歳になった剛志が覚えている限り――ビールを飲んでいる客は少なかったように思う。

 きっとまだまだこんなふうに、十倍からかけ離れたものだってあるのだろう。

 しかし今この状況で、細かく考えたって始まらない。だからまずは少し多めに、ひと月四万円くらいは必要だろうと考える。となれば一年でざっと四十八万。十年ならば五百万近い金が必要だということだ。

 剛志はそこまで考えて、脱ぎ捨ててあったジャケットから革袋を引っ張り出した。

 中には一万円札の束が四つと、バラの千円紙幣五枚ほどが入っている。まだ三万と数千円程度しか使っておらず、残りのジャラ銭はポケットの中だ。

 厚さの感じからして、元はひと束百万円ってところだろう。

 そう思いながら、まだ手つかずのひと束を剛志は数えてみることにした。

 ところが何度数えても、百万には五枚ほど足りない。念のためもうふた束も数えるが、やはりどれも同じで一万円札が九十五枚だ。

 最初に使った束も九十五万だったのか? そう思うまま残った札を数えてみるが、やはり九十一万しか残っていない。つまり最初に使った束も、きっと九十五枚だったのだろう。

 ――なんとも、中途半端な金額だな……。

 そう思ってよくよく見れば、ずいぶん変わった帯封だ。白い無地でロゴ一つないし、そんな帯で巻かれた紙幣も新品ではまったくない。きっとこれは、銀行で用意された紙幣ではないのだ。

 普通なら、帯に金融機関名が印字されているはずだし、もしかするとこの金は、伊藤がどこかの時代でかき集めたものなのか……そして理由はともかく、九十五枚ずつを手製の帯封でしっかり巻いた。

 実際昭和五十八年でも、まったく同じ紙幣が流通している。

そこから百万持ち込めば、この時代なら一千万ぐらいの価値になるだろう。だから未来から紙幣を持ち込んで、伊藤はこの時代で一攫千金を狙ったか?

 ――いや、違う。それならどうして、腹ペコの状態で智子の前に現れたんだ?

 それさえも演技だったか――などと、考えれば考えるだけ新たな疑念が浮かんでは消えた。

 ただとにかく、そんなわけで当分の生活費には不自由なかった。

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