第4章  1963年 - すべての始まり 〜 4 二人の苦しみ(3)

 4 二人の苦しみ(3)

 



 明日の晩、釈放されたと知るまで続く二人の苦しみを、彼はこれまで考えてもみなかった。

 三日目となる夕暮れ時、釈放されて警察署を出ると、恵子が神妙な顔で出迎えてくれた。

 照れ臭そうに歩み寄ると、「よかったね!」と声にしてから優しい笑顔を見せたのだ。それから二人は肩を並べて、長い道のりをほとんど喋らないまま歩き続けた。

 そうして店の前に立った時、恵子がやっと口を開いて、剛志に向かって言ったのだ。

「ちゃんと、父ちゃんにただいまって言うんだよ」

 それだけ言って、彼女は店の引き戸をゆっくり開ける。すると宵の口だというのに、店内は知った顔でいっぱいだ。みんながみんな嬉しそうで、口々に釈放を祝って大きな声をかけてくる。

 ところがだった。正一は一向に剛志の方に近寄ってこない。

なぜか一番奥のテーブルで、見知らぬ男と話し込んだままだ。だから剛志の方から近づいて、言い付け通りにちゃんと言った。

「ただいま、帰りました」

 すると正一はチラッとだけ視線を向けて、「おお、おかえり!」とだけ言って返す。

 その後すぐにご近所さんらに囲まれて、半ば無理やり剛志はビールを飲まされるのだ。その夜がそんなだったから、正一がここまで心配しているなんて思わないまま生きてきた。

 ――本当に、申し訳ない……。

 そう歳の離れていない両親へ、剛志は心の底から初めて詫びる。そしてここにいる間くらい、せいぜい両親に優しくしようと心に誓った。

 そうして翌日の朝、用意してもらった朝食を済ませて恵子に深々頭を下げた。

「ご主人が起きていらしたら、ありがとうございましたとお伝えください。それから、今日はお店を開けるとおっしゃっていたんで、お礼も兼ねて、今夜お店の方に顔を出すつもりです。それから、息子さんのことですが、きっと近いうちに無罪が証明されて、晴れて釈放ってことになりますよ、絶対、そうなりますから……」

 だから気を落とさないでと言いながら、心では何度も今夜釈放されるからと声にする。

 ただ、そう言ったところで安心などしないだろうし、実際に釈放されれば妙な勘ぐりだってされかねない。だからそのくらいの言葉だけ告げて、また夕方顔を出そうと剛志は決める。それからすぐに児玉亭を後にして、バスに乗り込み二子玉川へ向かった。

 バスを降りるとすぐ目の前に、懐かしい二子東急と二子玉川園がある。もちろん元の時代にだってちゃんとあったが、智子がいなくなってからは一度たりとも訪れていない。

 そしてここから少し歩くと、確か裏通りに小さな旅館があったのだ。

 記憶違いでないことを祈りながら、少し歩くとやっぱり旅館はちゃんとある。

 彼は旅館の中に入っていって、「ごめんください」と声をかけた。すると着物姿の中年女性が現れる。懐に用意した一万円札を二枚取り出し、剛志は軽い感じで女性の前に差し出した。

「しばらくこちらで厄介になります。まずはこれだけ預けておきますので、宿賃が足りなそうになれば、いつでもそう言ってください」

 そうなれば、いくらでも出すと言わんばかりにそう告げた。すると女将らしい女性は目をまん丸にして、剛志の手にある紙幣を穴の開くほど凝視する。

 突然現れたと思ったら、優にふた月以上の宿賃と来たもんだから、

「あの、うちじゃ大したお構いもできません。もしあれでしたら、電車で渋谷まで出られますと、もう少しちゃんとしたお宿がございますが……」

 そう言って、剛志の顔を覗き込んだって不思議じゃない。

 ただ彼としては、そんなところに行くわけにはいかないから、

「普通でいいんですよ。朝食だけ用意してもらえれば、あとはただ寝に帰るだけですから……」

 そんなふうに続けて、

「あ、もしかして、前金二万じゃ足りませんか? もう二万か三万、なんなら預けておきましょうか?」

 ちょっとした遊び心でそんなことまで言ってみる。すると女将は両手を広げて、

 ――いえいえ、めっそうもない!

 まさにそんな感じの顔をした。

 それから彼は、大井町から溝の口まで開通していた大井町線に乗って、自由が丘乗り換えで渋谷まで足を伸ばした。

 最初は玉電で行こうと考えたのだ。ところがどれくらいかかるかわからない。夕方五時には児玉亭に行きたいし、だから剛志の時代には、田園都市線と呼ばれている東急線に乗り込んだ。

 これから日に日に暑くなる。そんな中、着た切り雀ってわけにはいかないし、下着や靴下の替えだって必要だ。二子に高島屋ができる前だったから、剛志は渋谷に出てから東急百貨店で買い物をした。さらに母、恵子には、春らしいスカーフと大福まんじゅう、正一へはさんざん悩んだ挙句、一万円もするジョニ黒を奮発する。

 ずいぶん昔、彼がまだ小学校に通っていた頃だ。

 たった一度だけ、父親が剛志に言ったことがあったのだ。

「剛志、おまえがいっちょ前になったらさ、目ん玉が飛び出るほど美味いウイスキーを一緒に飲むんだからな。絶対に下戸なんかになるんじゃないぞ! わかったな!」

 その頃、下戸がどんな意味なのかわからなかった。それでも嬉しそうに話す正一に、なぜかワクワクしていたのを覚えている。

 だからって、一万円は高すぎないか? ジョニ赤でも十分だろうなどと悩んだくらいで、彼の買い物はあっという間に終了する。昼食をとってから旅館に帰っても、児玉亭へ五時には余裕で間に合いそうだった。だから行きに諦めた玉電に、彼は乗って帰ろうと即決する。

 まるで映画を見ているような景色の中を、路面電車が走るのだ。瀬田の交差点から二子へ下っていく辺りでは、なぜか無性に目頭までが熱くなった。

 あと五、六年すれば、玉電はすべて廃線となる。線路や駅は消え去って、いずれ古びた建物や養鶏場なんかも跡形もなくなってしまうだろう。

 そして何より、正一はその頃すでにこの世を去って、元の時代なら恵子だって墓の中だ。

 そんなことを心に思い、今という時にいる不思議を今さらながらに噛みしめた。

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