第4章  1963年 - すべての始まり 〜 3 長身の男

 3 長身の男




「あんたの名前は、〝名井良明〟なんだよ……」

 そんな最後の台詞は、まったく意味不明なものだった。その後、何が何だかわからないうちに釈放となり、見ず知らずの男が剛志のことを待っている。

「そう、これからあんたは、名井良明になるんだよ。もしこの名前が気に入らないなら、それはそれで構わないがね。ただそうなるとあんたは、この日本で生きていくのが難しくなるんじゃないか? まあもっとも、この名前も決して、安全ってわけじゃあないんだがな……」

 警察署を出るとすぐ、男はいきなりそんなことを言ってきた。署内での口調とガラッと変わって、なんとも唐突に感じが悪い。病院関係者だと紹介されたが、すぐに自分から大嘘なんだと言って笑った。

「あんたには、重度の精神病患者になってもらったよ。今はまだ薬が効いてるけど、これが切れたら、まあ大変なことになるってね、担当の刑事さんたちをさんざん脅かしたんだ。それから、刑事さんが病院に電話を入れたりして、それでなんとか、ちゃんと信用してもらえたよ」

 男は早足に歩きながらそう言って、スーツのポケットから白っぽい何かを取り出した。

「まあ実際にはこの写真と、額に古傷ってのが一番、効いたんだろうけどねえ~」

 妙にもったいつけた言い回しとともに、手にあるものをチラッとだけ剛志に向ける。

 それは、ほんの一秒くらいのことだった。

 それでもたったそれだけで、それがなんだかすぐにわかった。

「ちょっと待ってくれ! いったいどうして、それをあんたが持ってるんだ!?」

 思わずそう声にして、どうしてこいつが手にしているか? 頭で必死に考える。

 そもそもこれは、この時代にあってはならないものなのだ。

「どうして、俺の写真を持っている!」

 葬式の時の写真だった。上半身だけを引き伸ばしたせいで、見るも無残なくらい画質が荒れてしまっている。それでも確かに、つい数年前の自分の顔には違いない。

 ところがこの時代では、数年前でもなんでもないのだ。

 ――俺はこの時代で、まだ高校生にもなってない。

 それどころか、母親の恵子だってピンピンしている。本当ならこの写真には、周りに人がたくさん写っていて、腹辺りには恵子の遺影があったはずだ。

「あんたはいったいなんなんだ? 身分証を見せてくれ。あるんだろ? じゃなきゃこんなにあっさり、警察が釈放なんかするはずがない」

「身分証? そんなものあんたが見てどうするんだ? それともあれか? 身分証が偽物だから、もう一度捕まえてくれって言いにいくか? まあ俺としては、ほんとのところどっちでもいいんだけどな……」

 そう言って鼻で笑う男は、明らかに剛志よりも年下だった。三十歳になっているかどうか、長身で体格も良く、この時代にしては珍しいくらいにスーツ姿が決まっていた。

きっと黙って立っていれば、弁護士やエリート証券マンくらいにきっと見える。

 そんな男がどうして、危険を冒してまで剛志を助けてくれたのか?

 その辺の問いには一切答えず、男はしばらく黙ったまま剛志の前を歩き続けた。一方剛志もこの段階で、男について行く以外に選ぶべき道はない。そうして五分くらいが経った頃、男が唐突に立ち止まる。それからゆっくり振り返り、不機嫌そうに声にした。

「まずはこれに乗ってくれ。くわしい話は、それからだ……」

 そこは住宅街の一角で、そう言う男のすぐ横には、この時代には珍しい高級外車が停まっていた。元の時代のものより大きく見えて、これこそ外車だっていう重厚感が感じられる。

剛志が助手席に腰掛けるなり、男は膝の上目がけて茶封筒を放ってよこした。そこから中身を取り出すと、男は打って変わって静かな口調で話し出した。

「それが、あんたの新しい戸籍謄本だ。もちろんそいつは生きちゃいない。ただ、その死に方がちょいと問題でね。そいつの地元には近づかないってのは当たり前だが、派手なことにも、あまり首を突っ込まない方がいいだろうな。この名井ってのに、息子を殺されちまった野郎が、憎っくきその名前を忘れるはずがないからね。まあこんなのは何十年も前のことだから、静かに暮らしている分には問題ないと、思うけどな……」

 広島のヤクザ抗争が関東に飛び火。その煽りを食らって殺されたのが、関東で急成長を遂げていた新興組織、荒井組組長の一人息子だったらしい。

「ちょうどけっこうな台風が関東を直撃してな、広島から派遣されたそいつは、その日、多摩川をずいぶんと流されたって話だ。まあ結局、どこからも死体はあがらなかったらしいから、この際、名井って奴になりきって生きてやれば、死んじまったそいつだって、きっと少しは喜ぶんじゃないかね……?」

「ちょっと待ってくれ……そんな人の戸籍が、どうしてここにあるんだ?」

「どうして? その辺はさ、あんたが知ったからって意味はないだろう? どっちにしろ今のあんたは、その戸籍が必要に決まってるんだから。なあ、そうだろ?」

 そこで剛志は我慢できずに、

「知ってるのか? 知っていて、あんたはこんなことを?」

 ずっと頭にあった言葉をここぞとばかりに口にしてしまった。

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