第2章   1983年 プラス20 – 始まりから20年後 〜 7 奇妙な電話(2)

 7 奇妙な電話(2)

 



 その後は、もちろんビデオ鑑賞どころじゃない。

 剛志はまんじりともしないまま、明け方まで電話について考え込んだ。

 何度思い返しても、まるで聞き覚えのない声だ。それでもあいつは、あの事件に関わり深い剛志のところへかけてきた。となれば偶然なんかであるはずないし、何か意味があって、ああ言ったに違いない。

「伊藤はいるか?」

 男は大真面目にそう言ったのだ。

 さらに「智子も一緒か」とまで聞いていた。

 ――それじゃあ二人して、今もどこかで生きている?

 しかし実際、そんなことがあるはずない。智子の方はさておきだ。伊藤は血だらけになって、剛志の目の前で息絶えたのだ。

 ――まさか、あれは伊藤じゃなかったのか?

 ――いや、そんなことあるはずがない。だってあいつは、〝智子のため〟だと言って、あんな約束を口にしたんだから……。

 そんな自問自答を繰り返しているうち、不思議なくらい唐突に、忘れ去っていた記憶が一気に脳裏に浮かび上がった。

 それは二十年間、一度だって思い出したことなどない。なのに突然、昨日あったことのように記憶の中に蘇ったのだ。


 

 伊藤博志という名は、彼の本名でもなんでもない。

 そんなことを知ったのは、伊藤がアパートに移る前、まだ智子の家に寝泊まりしている頃だった。

「なんか変じゃないか? 名前しか覚えてないとか言っといて、歴史のこととか詳しいんだろ? 警察に届けた方がいいって、絶対!」

 己の身の上を忘れ去り、なぜかあの町を彷徨っていた。

 そんな男が智子の家に転がり込んで、それもめっぽう背が高くて若い男だと耳にする。

「だいたい、伊藤って名前だってさ、本当かどうかわかりゃしないぜ!」

 この時智子は意外にも、剛志の言葉に一切反論しなかった。

「お父さんはね、どこかの国の工作員じゃないかって言ってるわ。たとえ記憶を失ったのが本当だとしても、普通なら知るはずがないことまで話したりするんだって……」

「それじゃあ、もっとヤバイじゃないか!?」

「でもね、あの人が日本を悪く思っていないのは確かだと思うわ」

「どうして、そんなことがわかるんだよ?」

「だって遠い将来、世界の国々が例外なく、日本に感謝することになるんだって、真剣な顔して言ってくるのよ。これって、ホントおかしいでしょ? そんなこと、わたしたちが教わっている歴史からすれば、絶対にあり得ないことだと思わない? それにね、これはまだ、誰にも言ってないんだけどね……」

 二人はいつもの公園にいて、周りには人っ子ひとりいないのに、智子はそこから一気に小声になった。

「ホントおかしいの、とにかく、フッと思いついたんだって……今年の十一月に、新千円札が発行されるってこと。だからってさ、そのまま伊藤博文ってのもまずいだろうって思って、博志ってことにしたんだって。でもね、もしもよ、それが今の聖徳太子だったらさ、伊藤さん、わたしにどう言ってたんだろうね」

 などとヒソヒソ話して、

「聖徳、大造とか、かな?」

 と続けた途端、智子は大声でケラケラと笑った。

 智子と初めて会った時、とっさについた嘘が伊藤博志という名だったらしい。

 しかし、これは本当のことだろうか? とっさに姓名を思い浮かべるとして、発行されてもいない新札のことなど考えたりするか?

 今となって思えば、それはなんとも不自然としか言いようがない。

 ――あいつはもともと伊藤博文とは関係なく、実在する伊藤博志を知っていたんじゃないか?

 ――だから、迷うことなくそんな姓名を言葉にできた。

 そして実在する伊藤の方は、現在もこの世のどこかで生きている。もしもこの考えが正しければ、二十年後のあの日、何かが起こることだってあるのかもしれない。

 兎にも角にもこの不可解な電話によって、剛志は過去の約束を思い出した。

 まさしく意味不明の電話だったが、もしかかってきていなければ、剛志はあの約束を忘れたままでいただろう。

 結果いつの日にか思い出して、強い後悔の念を抱くのか、それとも意外と平気でいるか、どちらにせよ思い出せたことには感謝したいと強く思った。

 そして、本当に智子が生きていたとするならだ。

 彼女は剛志と同じ、三十六歳になっている。

 となれば彼女は今、いったいどんな姿になっているのか?

 思い浮かべてみようとするのだが、浮かんでくるのは十六歳だった智子ばかりだ。

 さらにもし、あんな事件が起きていなければ、今頃自分らはどうなっていただろう?

 ショートカットで背が高く、強烈に可愛らしかった智子を思い浮かべて、剛志は何度もそんなことを思うのだ。

 はっきり告げたわけではなかったが、智子だって剛志の気持ちに気づいていたはずだ。

付き合いたいと口にしたし、普通、好きでもない女にそんなことを告げはしない。

 本当のところは、智子も剛志のことを嫌いではなかった。

 ――あいつだってそこそこ、俺のことが気になっていたはずだ……。

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