第2章   1983年 プラス20 – 始まりから20年後 〜 2 二十年前(5)

2 二十年前(5)

 



 張りつめたものが溶け出したように、涙が溢れ出てどうやったって止まらない。

 当然、剛志はそんな顔を見られたくない。だから布巾の被った皿に手を伸ばし、塩だけの握り飯を口いっぱいに頬張った。

 ――俺は、腹が減ってしょうがないんだ。

 だからまず、四の五の言わずに食わせてくれよと、彼は背中でそんな感じを演じて見せる。

 そんな彼に、正一はさらに驚くような事実を打ち明けるのだった。

「いいか? あのミヨさんにはな、おまえが逮捕されちまった日に知り合って、それからは、本当にいろいろと世話になってる。ちょっとおまえには言いにくくてな、これまでずっと言えないでいたんだが、とにかくそんなわけで、今、この店がちゃんとやっていけてるのも、実はあの人のおかげなんだ。だから剛志、明日、ミヨさんが店に来たら、きちっと心から詫びてくれ……わかったな……」

「見代」なのか「御代」か、もしかしたら、「三好」なのかもしれない。

 とにかく「ミヨさん」と呼ばれている彼は、驚くほどの大金を正一に預けていたらしい。

「どういうわけかは知らないが、あいつ、住む家もないってんで、安アパートを紹介したりさ、最初はこちとらが世話してたって感じだったのよ。それがある日、まあ店がかなり厳しくなってた頃だ。いきなり大金を持ち込んで、アパートに置いとくのは物騒だからってな、俺に預かってくれって言い出したんだ。あんな事件があったばかりだしさ、俺も怖くなって、こんな大金預かれないって、一度はきっぱり断った。そしたらな、剛志、よく聞けよ……」

 そこからのくだりは、普段の剛志ならきっと信じちゃいないだろう。

「……いいか? あいつはな、必要なだけ、好きに使っていいってんだよ。え? 嘘だろって思うよな? だからさ、俺だって言ったんだ。冗談言っちゃいけません、ってな」

 そこで思わず驚いて、剛志は振り返ってしまいそうになる。しかしそこはグッと堪えて、慌てて袖口でこすって涙の跡を拭き取った。

 そんなことを知ってか知らずか、正一はさらに驚くようなことを言ってくる。

「もしもだ、俺と出会ってなかったら、今頃どうなっていたかわからない。だからそのお礼だって、店のために使ってくれってさ、あいつ、頭まで下げるんだ。ホント、わけわからねえって、心の底から思ったさ。でもな、これがありゃあ、店もなんとかなるなって、正直、こっちの方でちゃっかり思ったりしてな……」

 正一はそう言いながら、人差し指でこめかみの上辺りをチョコンと叩いた。

 その時ミヨさんは、押し黙ってしまった正一に向かって、二度目となる笑顔を見せて言ったのそうだ。

 やきとり屋で大儲けできたら、その時は、倍にして返してもらうから覚悟しろと言い、

「もうこの話はお終いだって、さっさとビールを持ってこいって、そう言いやがった……」

 そうして何事もなかったように、運ばれてきたビールを彼は美味そうに飲み始める。

「でもな、最近は金も少し残るようになってきたからさ、少しずつ返そうとしたんだよ。なのにあいつは、まだまだだって、どう言っても受け取ろうとしないんだ。だからな、この店をもっともっと繁盛させて、なんの心配もないってところを見せつけなきゃならないんだ。俺は、あのミヨっていう男にさ……」

 正一はそう言ってから、今度は手のひら全体で剛志の背中をポンと叩いた。

 そうしてその翌日、店に現れたミヨさんに向かって、

「昨日は、本当にごめんなさい」

 ただそう言って、剛志は心を込めて頭を下げた。

するとミヨさんは、彼の頭を一度だけポンと叩き、その後は何事もなかったようにいつもの席に腰を下ろした。すぐに「いつもの」という声が聞こえて、その瞬間からすべてが元通りに戻ったのだ。

 思えば正一は、事件のことで剛志に文句を言ったことがない。

 それどころか店の厳しい状態を、一切匂わせたりもしなかった。

 警察の厄介になったくらいで、児玉亭は潰れやしない。だから安心しろと聞いて初めて、剛志はそんな事実に思いが及んだ。まさにぐうの音も出ないとはこのことで、さらに言うなら、よりにもよって児玉亭の大恩人をぶん殴ってしまったのだ。

 しかし一方では、大金を持っているのに、なぜか正一のようなやきとり屋の世話になる。

これだけはどう考えても、変な話だとしか言いようがなかった。ただ、その金のおかげもあってだろうが、その後の一年以上、店はそこそこ順調だったと思う。

 だからこそ、少しでも金を返そうとするのだが、ミヨさんは一切受け取ろうとはしなかった。

他からの借金すべて返し終わってからでいいと言い、毎日のように手ぶらで現れ、手ぶらのままで帰っていった。

 しかし結局、金がミヨさんへ返ることはない。

 あの事件から、二回目となる秋の日。それは日本で初めてのオリンピックが開催されてすぐのことだった。

 正一が突然、仕込み中に脳梗塞で倒れて他界した。

 そして通夜にも告別式にも、ミヨさんが姿を見せることはない。

 母、恵子が店を開けるようになっても、彼は児玉亭に二度と姿を見せなかった。

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