第2章   1983年 プラス20 – 始まりから20年後 〜 2 二十年前(4)

 2 二十年前(4)

 


「なにが久しぶりだよ! 今頃になって、ノコノコとよく来れたもんだぜ!」

「よさねえか剛志!」

 後ろから響いた正一の声にも、彼の勢いは止まらなかった。

「金はちゃんと持って来たのかよ? まさか殺人容疑者のいる店から、またタカロウって魂胆じゃねえだろうなあ?」

「よせって言ってるだろ!」

「なんだよ! ホントのこと言ってなにが悪いんだ! こいつんちのババアが、うちのことをなんて言ってるか……」

 ――知ってるのかよ!

 そう続けようとした剛志の頬に、正一の平手打ちが直撃する。

バシッという音が響き渡って、その勢いで剛志の顔が左右に揺れた。

 ここで彼のムカつきは、一気に極限にまで膨れ上がった。

「なにしやがんだよ!!」

 思わず叫んで、握りこぶしに力を込める。ところがだ。肝心の正一はさっさと剛志に背中を見せて、ムラさんを向いて頭を下げてしまうのだった。

「ムラさん、気にしないでくれ」

 頭を下げたままそう言って、顔を上げるなりニコッと笑った。それからすぐに、何事もなかったように厨房に向かって歩き出してしまう。

 この瞬間、突き刺すような高ぶりが、剛志の全身を駆け抜けた。

 気づけば拳を振り上げて、父親の背中めがけて突進する。ところが拳は正一ではなく、いきなり飛び出してきた男の側頭部を直撃だ。

 正一との間に割り込んだ人物は、潰れた蛙のような声を上げ、勢いよく空のテーブル席に突っ込んだ。ガチャンという音がして、剛志の目にもチラッと男の顔が映り込む。

 その瞬間、心の底からマズイ! と思った。

 身体が勝手に出口を向いて、と同時に客たちが男のもとに駆け寄った。

「こら! 剛志! なんてことしやがるんだ!」

 そんな正一の声を、彼はこの時すでに引き戸の外で聞いていた。

 夕刻、開店と同時に現れて、気前よく飲み食いをしてくれる。

 ホントのところ、呑んでばかりの客の方が店としてはありがたい。それでも彼はやきとり以外にも、ちょっとした肴を夕食代わりに頼んでくれた。この煮付け、今夜が限界かな? なんてのを勧めてみると、だいたい何も言わずに注文してくれるのだ。

 倒れ込んだ男がまさにその人物と、剛志も目にした瞬間わかっていた。

 あの事件直後から来店するようになって、それもほぼ毎日だ。昼も夜もって日がけっこうあるから、なんにしたってありがたい客には違いない。

 正一も時折、男に向かって感謝の言葉を口にしていた。ところがどうにも無口な男で、照れた顔してほんの少し頷くか、場合によってはそれさえしない。

 それでもたった一回だけ、正一がどう呼んだらいいかと尋ねた時だ。

「ミヨ……とでも、呼んでください」

 戸惑ったような声を出し、彼はぎこちない笑顔を初めて見せた。

 それから、正一が彼を「ミヨさん」と呼ぶうちに、年の頃が同じくらいのフナが彼と話すようになる。そうなるとあっという間に、例のメンバーにもミヨちゃんミヨちゃんと呼ばれるようになっていた。

 彼らと違って騒ぐこともなく、一、二時間静かに呑んで帰っていくのだ。

 そんなありがたい客が来なくなったら……そう考えるとなかなか帰る決心がつかなかった。と言ってこのまま戻らなければ、またなんだかんだ大騒ぎになるだろう。だから店の明かりが消えるのを待って、それからこっそり忍び込もうと剛志は決めた。

 ところがいつまで待っても明かりが消えない。

 とっくに閉店時間は過ぎているのに、なぜか暖簾と赤提灯まで出っぱなしだ。

 ――まさか……何かあったのか?

 剛志がいないという理由で、店をこんな時間まで開けておくはずがない。まして心配して起きているなんて、そんな余裕のある生活じゃあ、もちろんなかった。

 絶対に変だ。そう思い出したら、次から次へと変な想像が駆け巡る。

 ついには、両親が引き戸の向こう側で血だらけになって、息絶えているなんてのまでが浮かび上がった。そうなると不思議なもので、それまでの葛藤が跡形もなく消え去ってくれる。

 剛志は店の前まで全速力で走って、暖簾の下がる引き戸を力いっぱい左右に開いた。

 するとガランとした店内に、正一が一人、背中を向けて座っている。

「おやじ……」

 思わず、声になっていた。そしてそんな声に応えるように、ゆっくり剛志の方を振り返り、正一は静かな声でポツリと言った。

「遅かったな……」

 その顔は優しげで、予期していたものとはぜんぜん違う。

「そこに、母さんがこしらえた握り飯が置いてあるから、まずは座ってゆっくり食え……それからな……」

 そこで一旦言葉を止めて、隣のテーブルから椅子を一つだけ引き出した。それから〝ここに座れ〟と言わんばかりに、ポンポンと台座部分を叩いてみせる。

 そうして、剛志が腰掛けるのを見届けてから、

「いいか? おまえがな、警察にちょっとやそっと厄介になったくらいで、うちの店は潰れたりしねえから、安心しろって、なあ、剛志さんよ……」

 そう言って、剛志の反応をうかがうように、ほんの少しだけ前屈みになった。

 そんな正一の一言で、まとわりついていた重苦しいものが、不思議なくらいにスッと消えた。

 おかげでほんの少しだけ、身体が軽くなった気さえする。ただそれは、けっして居心地のいいものではなくて、なんとも落ち着かない心持ちだ。

 絶対に怒鳴られる。そう思って、ゲンコツの一つ二つくらいは覚悟したのだ。

「だからな、剛志……まあ、あれだ、世の中にはさ、いろんな人がいるってことよ」

 ところが向けられる言葉は、信じられないくらいに優しげに響く。

「でもな、おまえがこれからちゃん生きていけば、ああ、あれは間違いだったって、みんな、いずれわかってくれるさ。だってよ、みんなおんなじニッポン人で、ずっとこの町で一緒に暮らしてきたんだ。それにな、ムラさんだって本当は、ずっと前から来たかったんだぜ。でもな、おまえも言ってた通り、あそこんちのババアは本当にケチだからよ。まあ、そんなことでさ、あいつはあいつなりに、考えたってわけだ……」

 もしも自分が金も持たずに現れたなら、また正一らが融通を利かせようとする。ただでさえ売り上げが厳しいって時に、そんなことさせちゃあいけないと……。

「まあさ、あいつなりにない頭を絞ったってわけよ。だから今夜なんて、エビとアブの呑み代まで、無理やり払っていきやがった……」

 そう言って笑う正一に背を向け、剛志の顔はすでにこの時クシャクシャだった。

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