Believe me
詠月
第1章 普通の日々
寝て、起きたら朝。
太陽が出てきて、外が明るくなったら朝だ。
六時ちょうどに湊はゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに映るのはホリゾンブルーの天井。視線を横に下ろしていくと揺れる白いカーテンの隙間から明るい光がこぼれているのが見える。微かに鳥の鳴き声も聞こえてきた。
……朝だ。
湊は慎重に体を起こしていった。違和感に首をかしげる。
体が重い。
一瞬不思議に思ってから、ああそうかと湊は思い直す。
今日は一週間に一度の診察の日。だから体が重いんだ。
苦労して起き上がり湊はカーペットの床に足を下ろした。その動作をセンサーが察知しすぐにカーテンが開けられる。同時に窓も開けられたことで入り込んだ風が湊の頬にあたった。
体が重いのはいつものことだけれど、診察のある日は特にひどくなる。それはこの三ヶ月間一向に良くはならなかった。
……しんどい。
湊は僅かに目を細めてため息をついた。
動きたくないな。
でも診察があるから行かないと。
湊はゆっくりと歩き始めた。部屋を出て研究所を目指す。
クリーム色の壁の廊下は朝の光で明るかった。藤ケ谷家は広くて廊下がすごく込み入っている。おまけに湊の部屋はずっと奥にあるためどこへ行くにも大変だ。だから研究所に行くまでにも、何度も曲がってずっと歩かないといけない。はっきり言って不便だった。
せめてもっと近い部屋にしてくれればよかったのに。
でも昔の湊が選んだのはあの部屋らしい。
仕方ない。
湊は少し肩をすくめた。
藤ケ谷家の次男・湊は今、生まれてから高校1年生になるまでの記憶を失なっている。
とは言っても、自分の名前や誕生日などの基本の情報や家族、家の内部についてなどはしっかり覚えていた。けれど学校生活のことや家族との会話などは全く覚えていない。自分の好きだったこともわからない。
そんな風になってしまったのはある事故が原因だった。
当時中学ニ年生だった湊は、小学生だった弟と一緒に下校している最中に事故に遭ったそうだ。弟は無傷だったけれど湊は横断歩道に突っ込んできた信号無視の車に轢かれ、病院に運ばれても意識不明の重症。そしてそのままニ年間も眠ってしまっていたらしい。
高一になった今年の春に突然意識が戻り、それからは定期的な診察と治療が必要だけれど普通に過ごすことができている。
最近は診察の回数も一週間に一度にまで減ってきていて、すごく回復していると父の栄一郎も言っていた。
湊は庭が見渡せる渡り廊下を抜け、その先にある建物に入った。
まず最初に目につくのは正面にある大きなディスプレイ。何かのデータらしき文字やグラフが表示されている。机の上はパソコンや資料で埋め尽くされ、その空いているスペースや壁側には機械などが隙間なく並べられていた。
ウィーン シュウウウ
一歩踏み入れただけで機械音が洪水のように襲いかかって来る。
「おっ、来たか湊!」
そんな中、奥の部屋から姿を見せたのは白衣姿の一人の男性。
「おはようございます、父さん」
湊は笑顔で挨拶した。
藤ケ谷栄一郎。湊の父であるのと同時にこの研究所の所長でもある。すごく背が高くて、湊はまだ栄一郎の肩くらいまでしかない。そんな父は朝であるにも関わらず陽気に笑った。
「ああ、おはよう。さっそく始めるか」
「はい」
脇にある扉から診察室に入り、湊は中央に置かれているベッドに横になった。
「湊、今日の調子はどうだ?」
「先週と同じで、体が重いです」
「そうか。じゃあ次は……」
すぐ横に立った栄一郎がタブレットを操作しながら質問をするのに、湊は一つずつ答えていく。
それが終わると栄一郎はそっと湊の髪を撫でた。
「じゃあ湊」
「はい、大丈夫です」
頷いてから目を閉じれば、どこからかカチッという音がしてすぐに眠気が襲ってくる。
抗うことなくそのまま湊は意識を手放した。
◆◆◆
「……と、みなと、湊」
呼ばれて目を開ける。
湊の顔を覗くようにして誰かが立っていた。
……父さん、だ。
「今日も無事に終わったよ。体調はどうだい?」
言われて試しに体を動かしてみる。重さは全く感じなくなっていた。
「普通です」
「そうか、よかったな」
ゆっくりと体を起こした湊は、パソコンに向き直る栄一郎の背中を見つめた。
湊は週に一度、こうして栄一郎に診察してもらっている。栄一郎は医療関係に詳しいみたいで、実際に医師免許も持っているらしい。湊の治療を引き継ぐことは担当医の人にも許可を貰ったとか何とか。
診察が終われば湊の体調は嘘のように回復していた。診察中のことはいつも眠ってしまうため湊は覚えていないけれど、栄一郎にはすごく感謝している。
「次の診察はいつも通り一週間後な。具合が悪くなったらいつでも言えよ」
「はい。ありがとうございます、父さん」
「息子のためだ。気にしなくていいといつも言っているだろ?」
ポンと湊の頭に手を置いて栄一郎は笑った。
嬉しい。
湊も笑顔になって栄一郎を見上げる。
「ぼく、早く治るように頑張りますね、父さん」
「……ああ」
湊が診察室を出て研究所の出口へと向かおうとすると、不意に傍に置いてあったロボットに目が止まった。
……馬?
まだ色は銀色だけれど、形は本で見た実際の馬と大差はなかった。
思わず湊がじっと見ていると、後ろから付いてきていた栄一郎が視線に気づいて説明してくれる。
「ああ、それは昨日完成したばかりのヤツだ」
「新作ですか」
「そうだ。本物そっくりだろう」
「はい。本で見たものと全く同じに見えます」
湊がそう答えれば栄一郎は嬉しそうに笑った。
「はは、そりゃ最高の褒め言葉だ。まだ簡単な動作しかできないが近いうちに乗れるようになるから、今度来たときにでも乗せてやろう」
「本当ですか? 楽しみです」
栄一郎は誇らしげに馬型ロボットの頭を軽く叩いていた。
栄一郎は人工知能・AIやロボットに関しての研究をしている。研究所に来る度に試作品などが増えていて、室内はロボットだらけだ。
“本物のようなロボットを作る”を目標にしている栄一郎は常に最先端の技術を取り入れ、話したり温度を感じたりするロボットなど、いろいろなロボットをたくさん作ってきた。次は生活に便利な機能を付けたいらしく、今回の馬型は移動手段にしたいのだと言う。
次は馬に乗せてもらえるのか。
楽しみ。
自然と湊の口角が上がった。
栄一郎に手を振り湊が研究所を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
診察には丸一日かかるため、診察の日はあっという間に時間が過ぎてしまう。
湊は自室へと向かった。
学校に通っていない湊は診察を受ける以外にすることがあまりない。だからだいたい自室で本を読んでいる。
今日は何を読もうかと考えていると、前方から制服姿の少年が歩いてくるのが見えた。
あ、と湊は立ち止まる。
「朔、おかえりなさい。お疲れ様です」
「……」
「今日は遅かったんですね」
湊はニコッと微笑んだのだが。
朔と呼ばれた少年はジロリと湊を睨み、そのまま無言で横を通り過ぎていってしまった。
残念。
遠ざかっていく朔の後ろ姿に湊は少し肩をすくめた。
朔は湊の弟だ。中学二年生で運動部に所属しているらしい。
なぜか朔には避けられているみたいで、湊が目覚めてから一度も会話をしてくれたことがない。挨拶も返してくれないのだ。
朔とも仲良くしたいのにな。
小さくため息をついて、湊は再び歩き出した。
◆◆◆
翌日、午後三時。
目的の部屋の前で立ち止まり湊はドアをコンコンとノックした。
はーいと中から声がする。
「湊です」
「ああ、湊!」
バタン、と勢いよく飛び出すようにして出てきた女の人が、ぎゅーっと湊を抱き締める。
湊は笑った。
「こんにちは、母さん」
「ええ、こんにちは」
艶のある黒髪を後ろで綺麗に一つに束ね、シンプルな黒のロングスカートにTシャツ姿の女性。母の藍子だ。
「来てくれたのね。さ、入って入って。お話でもしましょ」
「はい」
促されて室内に足を踏み入れる。
西洋風の家具で揃えられた部屋はとてもオシャレだ。心なしか水色の家具が多い気がする。ベッドに無造作に置かれている白衣だけが、場違いな雰囲気を醸し出していた。
「昨日の診察はどうだった?」
藍子がテーブルの上のものを大胆に片付けながら尋ねる。
「いつも通りです。特に変わったことはないと」
「そうなのね、よかったわ!」
藍子は研究所で栄一郎を手伝っている。人手が足りない時などに呼ばれると言っていた。
仕事がない時はこうして湊のために午後に時間を作ってくれる。その時間は湊にとっても嬉しかった。
イスに座り藍子と向かい合い会話をする。
内容はいろいろだ。藍子は仕事の愚痴を溢したり、湊はおもしろかった本のことを話したり。たまに子供の頃の話なんかも話題に上った。
「あ、そうだわ」
一時間くらいしてから藍子が不意に声を上げる。
「昨日、朔に会ったりした?」
「はい。診察の帰りに」
朔がどうかしたんですか? と聞くと、藍子は大きくため息をついた。
「それが……私のところまで来るように言ってるのだけれど、全然来ないのよ」
全く、と怒ったように藍子が呟く。
「湊から言ってくれない? 仲良いいわよね」
「いえ、ぼくは……」
困って眉を下げる。
昔。事故に遭う前。湊と朔は仲が良かったのだと藍子は話してくれた。ニつ上の兄も含めて、休日には一日中一緒にいるくらいだったそうだ。
でも今は、朔は口も聞いてくれない。仲が良かったなんて到底思えない距離だ。
ぼくが言ったところで変わらないと思うけれど……
けれど藍子の期待の視線を前に、湊は言うことができなかった。
「……わかりました」
安心してほしい。期待に応えたい。
「次会った時に言ってみます」
「まあ、ありがとう、湊!」
湊がそう言って笑えば伸ばされた手に両手を握られる。
嬉しそうな藍子に、湊もよかったと胸を撫で下ろした。
それからもしばらく藍子と話して、湊が部屋を後にしたのは五時を越えていた。
ドアを閉めて自室の方向へと足を踏み出しかけた時。
「母さんと話してたの?」
声が聞こえ湊が振り返ると兄の玲が立っていて。
湊はパッと顔を輝かせた。
「兄さん」
「久しぶりだね」
そう言った玲はTシャツにジーンズというラフな格好をしている。
玲は研究所を最近手伝い始めたばかりだ。忙しくしていてここニ週間は顔を合わせることもなかった。
久しぶりの兄に湊は思わず笑みを溢した。
「仕事は落ち着いたんですか?」
「それがまだなんだよ。任せられてるのも下仕事ばっかりでね。今もこれから蔵に行かないといけなくて」
「蔵に、ですか?」
一度だけ入ったことがあるけれど、物が雑に積まれていたことしか覚えていない。
玲はそうだ、と湊を見る。
「これから時間ある? 手伝ってくれないかな」
一人じゃ大変なんだよと頼まれ湊はすぐに頷いた。
「もちろんです。ぼくで良ければ手伝わせてください」
「ありがと! 助かるよ」
蔵に着くまでに玲は仕事の内容を説明してくれた。
蔵の中のどこかにある部品が入っている箱を今日中に探して届けないといけないらしい。
「これがツラくてねー」
「探すだけじゃないんですか?」
「見ればわかるよ……」
玲の言葉の意味がわからず首を傾げた湊だけれど、蔵に入ったとたんに湊は納得した。
「……長くなりそうですね」
「でしょ?」
足の踏み場もないほどの、高く積み上げられた大量の箱。歩く度に舞う埃。
それらが湊たちを待っていた。
「ほんとごめんね。誘っておいてなんだけど、やっぱり戻ってもいいよ?」
「いえ、手伝います。どうせ戻っても暇ですし」
それに、と玲を振り返る。
「兄さんのお役にたてるなら嬉しいです」
「……」
湊がさっそく近くにあった箱を開け始めると、玲は頼もしいねーと笑った。
探す部品は青い小箱に入っているらしい。
その情報だけを頼りに湊は次々と箱を開けていく。けれどどれだけ探しても見つからなかった。
「あー、疲れたー!」
蔵の反対側から玲の嘆く声が聞こえてきて、湊はこっそり笑う。
しっかりしている兄さんも、ここ最近の忙しさに随分弱っているみたいだ。
早く見つけてあげたいなと次の箱を引き寄せると、現れた床に取っ手がついていることに気がついた。
「……?」
試しに持ち上げてみると、下へと続く階段が姿を現す。
「に、兄さん!」
湊は呼びかけたけれど、遠すぎて聞こえなかったのか玲からの返事は返ってこなかった。
どうしよう?
眉を下げて湊は迷った。
蔵に入ってからもう一時間は経っている。それでも見つからないのはここにないから?もしかしたら地下に片付けてしまったのかもしれない。
よし、と覚悟を決めて湊は階段へと足を下ろした。
中は涼しく、湊は下りていくにつれて風が強くなっていることに気づく。
階段が終わると目の前には扉が。一応ノックをしてから湊はそっと中を覗く。
「……え?」
湊はパチパチと瞬きをした。
地下にあった部屋には、大きな置物が置いてあった。黒くて大きい。何なのかはよくわからなかった。近づいてみるけれど蓋が閉まっていて開かない。
他には何かないのかと辺りを見回すけれど、広々とした空間があるばかりで湊は少し拍子抜けする。よく読む小説の中だったら地下室には絶対何かあるのが定番なのに。
なんだ、と湊は息をついた。
戻ろうと身を翻すと、部屋の隅に花束が置かれていることに気づいた。周りには枯れてしまっているものも数本散らばっている。
湊は不思議に思いながらも部屋を後にし、地下室へと続く階段を元のように塞ぎ直した。
残念だ。地下には無かったみたいだ。
再び箱探しの作業に戻る。
さっき見た光景がなぜか強く脳裏に焼き付いていた。
あれは何だったんだろう。
「おーい!」
不意に玲の声が聞こえてきて湊は急いで入口へと戻った。
「あ、いたいた。見つけたよ」
玲が手に持っているのは探していた青い小箱だ。
「ありがとね」
お礼を言われたけれど、湊はしゅんと肩を落とした。
「いえ、結局ぼくは何もできませんでしたから」
「いやいや、そんなことはないよ」
ようやく終わったー、と玲は大きく伸びをした。工具は小箱ごとそのまま研究所に届けるらしい。
蔵の前で玲と別れた湊は、ついさっき自分が見つけた地下室について考えながら自室へと戻る。
家の構造については全部覚えているはずなのに、地下室の存在は知らなかった。それにそこそこ広さのある地下室なのに、あの置き物を置いておくだけなんてもったいないな。何で花があったのかも不思議。
そういえば、と湊は一つのドアの前で足を止めた。
……この部屋もぼくは知らない。
明るい青色のドアの先を、湊は知らなかった。
普段はあまり通らない廊下にあるからすっかり忘れていたけれど。いったい何の部屋なんだろう。
地下室と同様に、この部屋も湊の記憶にはない。だから湊は青い部屋と勝手に呼んでいた。
……体が重くなるのもツラいけど、記憶が戻らないのもツラいなぁ。
きっと昔と関係しているのだろう。
無くなってしまった記憶。早く全部戻ってほしい。
焦っても無駄だとわかっていてもそう考えてしまう自分に、湊は小さく苦笑して部屋に戻った。
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