彼とチョコレイト

ため

第1話

彼とは今日も、やはりいつもと同じ時刻にそのカフェで落ち合った。閑散とした店内で1番奥のボックス席に座り、私はブラックを、彼はミルクと砂糖を追加で頼む。趣向は違えど我々はここのコーヒーが大層好きなのであった。


程なくしてマスターがやって来た。私のコーヒーを注いだ愛すべき彼もまた豆の芳醇な香りに包まれていた。


しかし私は毎月の楽しみを目の前にしながら、彼の左ポケットに無造作に入れられているハンケチがどうも気になっていた。


「あれから例のS嬢とはどうなんだい?」


彼は表情を変えずに砂糖とミルクのたつぷりはいつた液体をスプーンでかき混ぜている。私は出来ればそれをコーヒーとは呼びたくなかつた。


少し間を置いて彼は分厚い唇をモソモソと動かし始めた。私ではなくコツプに話しかけているようだつた。


「どうもこうもないさ。彼女は私にとってチョコレイトなのだからね。」

彼はフフツと笑つた。まるでコップの中にS嬢を見ているかのようだつた。その姿がなんだか気持ちが悪くて、耳の奥がゾワゾワとした。


いつもと同じカフェーで、いつもと同じコーヒーを飲む。しかし3カ月程前から、だんだんと私と彼による月に一度の会合は、「いつもの」とは呼べなくなっていたのだった。彼の口から彼女の名前が出始めたのが丁度その頃であつた。

私はそれを何とかして気にしないようにしていた。私はそれほどに彼と飲むここのコーヒーが好きだった。


「それは、彼女が君にとつてチヨコレイトのように甘い存在だということかい?」

「いいや。違うさ。」

彼は未だにコーヒー擬きの彼女を見つめている。


「春町クン、君はコーヒーが好きかい?」

「アァ、好きとも」

特にここのがね、ととつさに添えた。


彼はウンウン、と頷いたあとに

「そういうことなのだヨ!」と声を荒らげた。カウンターで新聞を読んでいた老人の目線がチラリとこちらに向いた気がした。ここのコーヒーかどうかはどうても良いらしかつた。


コーヒー豆ような目をかつぴらいて彼は言つた。

私の方を見ていても彼の瞳に私は写つて居ない。


「僕はチョコレイトがどうしても好きなんだ。物見遊山で大雨に降られようとも、死んだ親のせいで借金取りに追われようともサ!僕の身になにがあろうとも、チヨコレイトの味は、変わらないだろう。芳醇なそれはいつでも僕の全身を蕩けさせてくれる。」


私はどうしても気になつて仕方がなかった。

「…………では、どうして一度も彼女に会おうとしないんだい?」


彼の顔が曇つた。

だからやはり彼女がチョコレイトのように甘い存在であるつてことだろう、とは言えなかつた。耳の奥からギイギイと錆びた歯車の鈍い音が聞こえた。店の窓から石鹸玉がプワプワ浮いているのが見えた。


彼はどうもS嬢を、物陰からひっそりと見つめるのを習慣としているらしかった。

「君なら分かるだろう。僕が彼女の目の前に顔を出せる訳無いじゃないか。」


彼はお世辞にも容姿の良い男とは言えなかった。

「花を買いに行く客位にはなれるだろうサ。いく様にも話しかけ方はあるだろう。」残り少ないコーヒーを啜って僕は言つた。知らない洋花に水をやる華奢な娘が目の奥で浮かんでふわふわと漂った。


「僕はただチョコレイトを舌の上でゆつくり溶かしていたいだけなんだよ。」彼はなんだか諦めている顔をしていた。私に対してなのか、S嬢に対してなのかは分からなかった。


彼は温くなつたコーヒー擬きをグビグビと飲み干して、そろそろ出ようかねと呟いた。あの老人が新聞を持ちながらウトウトしているのが見えた。


別れ際に、花屋に行くかい?と聞いたら彼は「イイヤ」と首を振つた。来月はどうするかとはお互いに聞かなかつた。


花屋に着くと思っていたより洋花は少なかった。芍薬に水をやる女と目が合う。大きな目を精一杯細めて、「いらっしゃいませ」と微笑んできた。色白で中肉中背の、優しそうな女だった。


とりあえず中に入って、適当に花を眺めていた。正直どれがなんだか私には到底分かりそうになかった。


「プレゼントでしょうか?」

花が風に揺れるような、控えめな声だった。


「いえ......嗚呼、いや、自分の部屋にでも、飾ろうかと。」ついさっき、彼には話し方などどうにでもなるだろうと言っておいて、自分は口実を考えるのをすっかり忘れていた。店に着いてから、なんだか自分は初めっからここに来る予定が合ったような気がしていたのだった。


「そうなのですね、とても素敵だと思います。」女は直ぐに今の時期は薔薇がいいのだのクチナシが綺麗だのと勧めてきた。


「あっ、でも鉢植えで育てるのもいいかもしれません。店の前に天竺葵がありますが、ご覧になりましたか?」良かったら持ってきますよ。物持ちもいいし愛着が湧きますよ、と言いながら既に店の外に歩き出していた。私はこのままただ花を買いに来た客になりそうだった。


「あの、」

女がはい?とこちらを向いた。丁度鉢植えを持ち上げようとしているところだった。普段大きな声は出さないからか、少し上擦ってしまって恥ずかしかった。


次は腹から息を吸って、ゆっくり、1つ1つの言葉を丁寧に彼女に届けた。



「チョコレイトは、好きですか?」


彼女は「...え?」と少し戸惑いながらも、すぐに

「実はわたし、甘いもの、苦手なんです。」と答えた。耳がじんわりと赤く染まっていた。


彼女が私の前を通って外に向かって歩いた時、微かに煙草の匂いがしたのだった。


「奇遇ですね。私もですよ。」


結局私は天竺葵の鉢植えを抱えて、帰路についていた。帰り際、「もし育てかたなど分からなかったら、すぐに言ってくださいね。」と店の名前が書いてある紙を渡してきた。裏に女のものも思われる名前が手書きで書いてあるのをみたあ。とりあえず鉢植えは玄関に置いて、紙きれはごみ箱に捨てた。妙に煙草が吸いたくなったが、そのまま目を瞑る。ベッドに寝転ぶあの女の裸体が目に浮かんでため息をついた。


静かな部屋に掛け時計がコツ、コツ、と音を刻んでいる。いつの間にかそのまま眠ってしまった。まだ19時にもなっていなかった。



次の月、やはりいつもと同じ時刻に私は例のカフェへ向かって歩いていた。結局、天竺葵は一人で育てることが出来ていた。彼女が言っていた、愛着が湧くという意味が少しわかってきた気がした。


もう私を待っている頃だろうか。彼は私よりも先に着いていることが多かった。もしかしたら今頃、ドロドロに溶けたホットチョコレイトでも頼んでいる頃かもしれないなと思うと口元が緩んでしまった。

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彼とチョコレイト ため @tame5

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