天秤は傾く

ひなた

第1話 窃盗犯の作り方

 忌わしい気配漂う重厚な黒雲に覆われた午後、俺は路上で頭を抱えていた。

 借りた金を返すべきか、返さないべきか。 

 実はこういうことだ。

 俺は高校の修学旅行に行くために、友達の1人である人の良さそうなFから金を借りたのだ。なぜ金を借りる必要があったのか、それは俺の家が貧乏だからだ。我が家は母子家庭で、母は昼夜問わず複数のパート・アルバイトを掛け持ちし、身を粉にして家族を養うために働いている。俺も当然バイトをして家計を手助けしているが、我が家の家計は火の車だ。

 

 溜息を吐き、重い足を引きずりながら歩いていると、Fの家が近づいてきた。Fの家は200坪を超える豪邸で、スーパーや駅からのアクセスも良い。そんな家の一人息子であるFはまさしく金持ちのボンボンだ。まさに苦労を知らない温室育ちだ。俺とは違って、Fにとっては数万円など端金ではないだろうか。


 ゴトリッ。天秤の皿に重しが一つ足されて、不安定な平衡が僅かに傾いた。それは微々たる変化だったが、胸の窪みにズシリと圧が加わり、吐き出す息が震えた。

 天秤の傾きは思考の偏りを教えてくれる。そしたらすぐに内省する。だから俺は間違いを犯さない。

 俺は、人を上辺だけでカテゴライズするとはなんと愚かなのだろうと自分を責めた。

 

 

 ゴロゴロと薄暗い雲に潜む何かが暴れ出す予兆のような音が鳴り響いている。大気の重圧のせいで、先ほどよりも一層息苦しく感じる。

 嵐が近づいている。一刻も早く家に帰らねばならない。俺は結論を急かすように頭を働かせる。

 

 借りた金を返すことは人として当たり前だ。もし俺がこのまま金を返せば、この件は何事もなく終わるだろう。これは正論だ。

 しかしこの金を返さなければ、どうだろうか。俺はFの信頼を失うかもしれない。

 だが、と考える。Fは人と友好関係を築くために、俺以外にも多くの人間に金を貸す不埒者だ。ひょっとすると俺に金を貸したことなど忘れているのではないだろうか。

 

 ゴトリッ。また一つ天秤に氷漬けの重しが加わる。その冷気は心の臓から血流を通して広がり、身体を青く蝕む。自分の体はさながらドライアイスだ。このまま昇華して空気と混ざり溶け合いたい。

 だが、その凍痛に思わず笑みが溢れる。

 これでバランスを正すことができる。

 もう一度考えよう。そう、思えた。

 

 借りた金を返さないことは悪だ。俺がこの世で最も憎むものだ。あの日の事を思い出すのだ。

 太く頑丈な糸で繋がれた記憶を辿る。その先にあるのは、灯りの消えた真っ暗な部屋に垂れ下がる太い糸とそれに吊るされた1人の男。

 あの日、胸の内側に天秤を作った。些細な、取るに足りない変化を見逃すことのないように。


 やはり金は返すべきなのではないか?

そうに違いないと何度も頷き、張り裂けそうな胸を内側になんとか押し返しながら決意を固めていく。


 だが、よしっ金は返そうと決めたその時、一陣の鎌風が俺の胸を切り裂いた。

 するとパンドラの箱から災厄が飛び出すように、ザックリと割れた胸から邪な考えが溢れ出てきた。


 この金は借りたものではなくて、’’譲り受けた’’ものなのではないか。

 Fから金を渡された時の記憶を思い起こす。

 俺はFに対して、お金がなくて困っているとだけ伝えた。貸して欲しいとは言っていない。つまりこれは金欠の俺にFが善意で施しを与えたと解釈できるのではないか。

 巷で話題になっている、皇族の女と婚約したパラリーガルの男と全く同じ匂いがするが気にしない。

 ならばだ、寧ろ金を返すことがFの気持ちを踏みにじる行為、即ち悪なのではないか。

 

 その時、Fの豪邸が見えてきた。そろそろ決断の時だ。

 俺は一旦停止する。

そして・・・・回れ右をして、来た道を引き返す。

 

 天秤の傾きは先ほどよりもずっと、一方に偏っていた。


⚖️

 

 来た道を引き返すこと数刻、纏わりつくような闇はより一層濃くなり、空気はじめじめと湿気を帯び、酷く重い。

 そんな折、俺は小柄なチワワのような男が、ガラの悪いモヒカンの集団に囲まれ、金をせびられている光景に出くわした。

 可哀想に、男は冷えた寒天のようにぷるぷると震えており、如何にも感情が表に現れている。非常に庇護欲のそそられる様相である。

 

 ガタッガタッガタッ。唐突に天秤の空の皿が揺れ始め、その存在感を主張し始めた。この空きスペースを重りで満たせと俺を急かす。俺は無視しようとするのだが、それはパズルの最後のピースのように思えて気になって仕方ない。この空白は埋めるしかない、そう思う他なかった。

足は自然とモヒカン集団に向かっていた。


 俺は肩に背負った鞄を地面に置いて、モヒカン集団を掻き分け、中心で青く震える寒天君の前に立った。すると俺1人に全ての視線が集中する。

 寒天君はうるうるとした瞳で、モヒカン集団は怪訝な表情で俺を見ている。

 さて、ここからどうしようか。正直なところノープランだ。ノリと勢いだけでこの場に来てしまった。とりあえず、それっぽいことを言わねば。

 だが何も思い浮かばず、あーだのえーだの言っていると、やがてリーダーであろう男が、金のモヒカンをふさふさと揺らしながら俺の前に出てきた。

「お前の勇気に免じて許してやるよ。」

 そう言うと、白々しい笑みを貼り付けて仲間を連れてこの場から去っていった。

 妙にあっさりとした引き際に違和を感じた。

 だがそれも寒天君が大粒の涙をぷるぷると溜めながら、ありがとうと感謝を示してくれた嬉しさで吹き飛んだ。

 

 天秤の空の皿に、ホットタオルに包まれた温かい重しが追加され、冷えた体にじわじわと熱が戻る。すると天秤の傾きも緩やかになる。

 俺はやはり金を返そうと決意した。

我ながら潔い掌返しだなぁ。俺は頬を軽く引きつらせた。


☔️


 寒天君を助けた後、レストランの会計にて俺は人生最大の危機に瀕していた。

 実はこうだ。

 寒天君を助けた直後、彼の瞳から溢れる涙よりも大きな雨粒が堰を切ったかのように降ってきたのだ。

 Fに返す札束を濡らすわけにもいかず、慌てて近くのレストランに飛び込んみ、風雨を免れた。そして雨が止んだところでお会計に進んだのだ。 

 だがそこではたと気付いたのだ、先ほどまであった肩の重みが消失していることに。つまり鞄がなくなっていることに。

 

 現在、俺の前には3人の客がお会計を待ち、レジに並んでいる。

 レジを打つのは今日入ったばかりの新人のようで、涙目になりながら必死にお会計を進めている。しかしその動作は無駄が多く、ぎこちない。まだ猶予はありそうだ。

 俺は僅かな可能性に賭けて、服のポケットに金がないかどうかしらみ潰しに探した。

 

 あたふたしているうちに残り2人になった。

服のポケットから出て来たのは紙くずばかりで、結局金目のものは何もなかった。このままでは俺は無銭飲食で捕まってしまう。

 最後の手段で、誰か俺を助けてくれる知り合いはいないものかとレストランを見渡す。すると幸運なことに、先ほどの寒天君がドリンクバーでコップに飲み物を注いでいるのを発見した。俺は先ほどの恩を返してもらうチャンスだと思い、彼に声をかけようとした。

 だが俺が声をかけるよりも早く、彼に声をかけたものがいた。

 そいつは金のモヒカンをゆらゆらと揺らしている。なんということだ。先ほどのモヒカン達のリーダーではないか。

 その金のモヒカンはニヤニヤと嘲笑いながら寒天君にこう言った。

「なあ、兄者。さっきの正義に酔った阿呆は傑作だったな。」

 それに対して寒天君が口元に冷笑を浮かべながら答える。

「本当にそうだ。正義面で自己陶酔し、何が悪なのか見抜けないあいつの目はまさしく節穴だ。俺が涙ながらにありがとうって伝えたら、俺が族のリーダーだとは知らずに、間抜けズラで浮かれていたのは本当に滑稽だった。」

 寒天君はけけけと笑いながら、懐から封筒のようなものを取り出して言葉を続ける。

「それにしてもなぁ、妙な正義感に突き動かされるのは、甘ったれた夢見がちなお坊ちゃんだと思ったのだが、このザマだ。」

 たった2万円しか入ってないぜと諭吉をひらひらさせながらモヒカン集団に笑いかける。するとそれにつられて、モヒカン集団がギャハギャハと下品な笑い声をあげる。

 なんということだ。あれは紛れもなく俺の封筒と2万円だ。妙にあっさりと引き下がると思ったのだが、そういうことだったのか。

 唇をぎりりと強く噛むと、鉄臭さが舌の上に広がる。

 

 ゴトリッ、ゴトリッ、ゴトリッ。天秤の皿に次々に重りが追加され、傾きが急速に鋭利になる。 

 破裂しそうなくらいに脈打つ心臓のせいだろうか、視界は大男に頭を揺さぶられているかのように幾重にもブレる。

 

 そして気づけば俺の番まで残り1人となっている。もうすぐ最後の審判を迎えてしまう。

 なんと理不尽なんだ。俺は正義に則って行動したはずなのにこの有様だ。この世には確かに信じられる正義は存在はないのか? ならば・・少しくらい悪を働いても良いのではないだろうか?

 レジをじっと見つめる。そこには多額のお金が入っていることに気づく。


 そんな時にふとある言葉が頭に浮かんだ。

「鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしい。油断ができないのです。」

 ああ本当にその通りだ。人間の感情はその時の状況次第でいくらでも変化する。だから正義と悪は、きっと浮き沈みを繰り返す波、なのだ。


 天秤の皿が重りで飽和し、傾きがこれ以上変化しなくなる。だが重りは止まることなく積み上げられ続け、やがてミシミシと軋むような音が響き始めた。するとその音にシンクロして頭もギシギシと締め付けられるような痛みを発した。呼吸は断頭台に上がる罪人のように荒く、酸欠で意識が遠くなった。


 最後の1人がお会計を終えて、いよいよ俺の支払いの番になった。

 もうダメだと俺は諦めた。だが・・不遇な俺を神は見放してはいなかった。

ピー!ピー!ピー!ピー!ピー!ピー!ピー!ピー!

 唐突にレジからエラー音が鳴り響く。異常事態だ。いやレストランの従業員にとっては緊急事態だが、俺にとってはこの事態を打開しうるチャンスに思えた。

 すぐに新人店員はレジのボタンをああでもない、こうでもないと言いながら手当たり次第ぽちぽち押していくのだが、エラー音は消えない。店内の客数は多く、他の従業員は皆、自分の仕事に一生懸命で、この異常事態に誰も気づかない。 

 彼は誰もヘルプに来ないことに顔を青ざめ、少々お待ち下さいと言い残し、バタバタと先輩店員を呼びに行った。


 新人店員の頼りない後ろ姿を見ているうちに、俺の心にはある勇気が芽生えかけていた。それは路傍で頭を抱えていた時には欠けていた勇気だ。寒天君を助け出した時とは逆ベクトルに働きかける勇気である。

 

 ゴトリッ、ゴトリッと重りは増え続けているが、やがてそれは終焉を迎えた。遂に負荷に耐えきれなくなった天秤からボキリと骨組みが折れる音が聞こえた。

 正義と悪が頭の中で混ざり合う。もう何が正しくて、何が正しくないのかがわからない。だけど・・今までの苦しみが嘘だったかのように、視界がクリアになった。

 

 後ろを振り返ると、俺の他に誰もレジに並んでいない。俺はぽつりと1人レジ前に取り残されている。エラー音を響かせているレジをじっと見つめる。レストランのバイトならいくつかやったことがある。レジの扱い方はおおよそわかる。

 

 「俺も盗られたのだ。悪くは思うな。」

 世の中はやられたらやり返す、負の連鎖がメビウスの輪の如く永遠に繰り返されている。なぁに俺もその無限の循環に加わるだけだ。


 俺は、素早くカウンターを飛び越え、レジの前に立った。そして新人店員のIDがレジに登録されたままであることを確認し、両替ボタンを押すと簡単にレジが開いた。俺は札束をポケットに詰め、瞬く間にレストランから飛び出した。


 しばらくしてから先輩店員を連れて来た新人店員はレジの前に誰もいないことに呆然とした。確かにお客様はいたんですと新人店員は先輩店員に喚き散らすが、14連勤中で疲労困憊の先輩店員はそれをイマジナリーカスタマーと断定し仕事に戻った。新人店員は失望を顕にレストランの外を見るが、そこには黒々とした奥深い闇が広がっているだけ。

 

 新人店員が店長から早くも首を告げられるまであと数十分。

 男の行方は・・・・監視カメラの映像から割とすぐに判明した。

 



終わり⚾️



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