第18話 柳原亜紀について
亮介の求めに応じて、亜紀は敢えて華やかな世界から身を投じて、秘境の中にパラダイスの世界を求めた。亮介はその真っ直ぐさに後を追った。そんな古風な女に、どんな過去の古傷があると言うんだ。
澤木は結希を前にして、柳原亜紀を弁護した。
結希は柳原亜紀の相手を少しだけ知る伯父について、早坂から聞き入れた情報を元に仁科亮介からの新たな調査依頼を澤木に伝えていた。
高瀬川の一之舟入を上がったところに、こぢんまりとした昼間は喫茶店で夜にはスナックになる店があった。八人座ると一杯の壁際のカウンター席と、人一人が通れる通路を挟んだ窓側に、小さなのテーブル席が三つ並んでいた。窓側からは高瀬川のせせらぎに揺れる柳が見えた。
その奥のテーブル席に、澤木と結希が対座していた。
「仁科さんはもうあの秘境から出られるのに何故来ないんだ」
「あたしじゃあご不満」
「滅相もない」
「昨日の事も明日のことも考えなくていい世界が有ればどうします。おじさまの居る所はそんな世界だと思わない? 一度、澤木さんはそこへ報告に行ってるわね」
「あの三浦老人の依頼で訪ねたが生活の心配が無ければユートピアだなあ」
「じゃあある程度の資産が出来れば飛び込みますか」
「金銭欲って奴は人生の終焉にならないと止まらないんだぜ」
「まだそこまで老いぼれてないって事なのか、それで誰が終焉を決めるの。人生百年とすればおじさまはまだ折り返した処よ。澤木さんは本当はじっとしてるのが怖い、独りが嫌なんでしょうだから息抜きを勧められてもトンボ帰りしちゃって そんな人が酒や女や薬に溺れるのよ」
「俺はほどほどで溺れちゃあいねぇよ」
「そうね女にも溺れなかったのね。加奈ちゃんから聞いたわよ。だから二度と深入りはしたくない、そうでしょう」
訳も言わず理由も聞かず、去られた澤木の恋人は、荒木所長と同じパターンだった。その荒木の恋は、亜紀ちゃんから聞いた。その女の過去を調べるのが、今の澤木の仕事なのだが、妙に不思議な因縁に囚われた。
「そんな話をするために俺をここへ呼んだんじゃあないだろう」
「亜紀ちゃんのお母さんの兄弟、そのお兄さんである伯父さんの所在を知りたいのでしょう」
「そう、誰が小羊を野に放ったかだ。本人の母親は早くに亡くなって、育ててくれた祖母も二年前に亡くなっていれば縁故は伯父と叔母しか居ないだろう」
「早坂に幾ら報酬を払ったかしらねえがあいつのこっちゃあ、どうせあちこち抜け落ちているんだろう居場所さえ解れば身辺調査して抜けてる穴は埋めて報告出来るぜ」
「頼もしいお言葉、亜紀ちゃんが祇園で復活するのもそう遠くないわね。でもそうなると美咲ちゃんが厄介になっちゃうのかしら?」
アパートの前、にわか作りの花壇の前で、初めて出会った美咲を思い浮かべた。あの子なら大丈夫だと、結希は勝手に思い込んだ。
「それじゃあその伯父から当たってみるか」
そろそろ此の店は珈琲から水割りに切り替わる。その前に店を出た。陽が高いうちは、高瀬川のこの辺りは、観光客と一般客で賑わう。しかし夜になるとシャッターを下ろしていた飲食店に、次々と呼び込みの看板灯が
真夏の太陽が、頭上からサウナのように降り注ぐ。京都も暑いが先輩格の奈良も負けじと、やせ我慢して熱気をまき散らしていた。奈良の近鉄奈良駅近くにある喫茶『アールエックス』を訪ねた。
中に似た歳のおじさんが三人いたが、二人は我関せずで、新聞とスマホを睨めっこして、完全無視だった。一人だけ開けたドアのカウベルに反応して、顔を上げた男のところへ行った。
彼が柳原亜紀の伯父の柳原祐一だと確認して、仁科亮介が来られなくなったと告げた。代理として
市役所の職員である彼は、ワイシャツに紳士ズボンで、ネクタイをすれば役所の受付そのままだった。いつもはジーパンにテイシャツの加奈は、今日は殆どリクルートスーツに近い。
祐一は仁科亮介とは一度も会っていない、と知って加奈は驚いた。どうやら姪っ子から、その人となりを相当に刷り込まれて、完全に仁科の輪郭が祐一なりに形成されていたらしい。これでは双方が一方通行で、仁科亮介も伯父の柳原祐一の存在は、早坂から聞かされて初めて知った。
「驚かないんですか」
「今更驚いてどうする」
驚くなら目の前に現れて名乗る前だろうと祐一は笑った。
どうも柳原と云う家系は波瀾万丈なのか、こんな些細な事では驚かないらしい。
「それで亜紀さんはどうしてらっしゃるのですか」とカマを掛けた。
「どうも仁科さんは亜紀の失踪で心当たりがないかと初めて電話を掛けてこられた。余程気に掛けている様子だったから恐縮してこの日お誘いしたのだが……」
「あの人は忙しいもんですから」
亮介おじ様は全く秘境の地でノンビリと魚釣りをしてる、と結希さんから聞かされては心苦しい。
「以前は会社経営をされていれば尚更でしょう。深雪さんはその会社では秘書か何かをされているんでしょうねぇ」
ええ。まあと調査員とは言えず、言葉を濁らせながら要件に入った。
亜紀はお客様から期待された品格の維持の為に、生活感が伝わらないように身の上話を一切しなかった。それで聞き上手に徹すれば、来客は安心して彼女に心の奥を預けられた。いつしか彼女は何者でも良い、と云う存在になると誰も何も訊かなくなった。
「どこから私の存在を知ったか判りませんが半年以上も失踪すれば無理も無いでしょう」
と加奈の訪問に理解を示してくれた。
ーーその人と亜紀とは、彼氏かどうかは判らない。亜紀はスナックで働く前は、普通の会社に居た。亜紀は高校を出ると、大阪の心斎橋筋にあるホテルの宴会担当でした。どうもそこで同僚だった人と知り合ったようだ。相手は妻子ある者らしい。とにかくおおやけに出来ないらしい。二年ほど付き合って亜紀がそこを辞めた。暫くして亜紀の後を追うように男も辞めた。
「それは二人が示し合わせてやったのですか」
「そんな大変な事なのにお恥ずかしいが知らなかったんです。まあその後はスナック勤めですから私より仁科亮介さんの方が良くご存じでしょう」
それには加奈も同調した。
「それでその相手ですが……。推定ではホテルの上司なんですか。名前だけでもご存知でしたらお聞かせ下さいませんか?」
「確か亜紀は波多野とか言ってたようでしたね……」
ウ~ン、不確定要素かじゃあ一人か ? 。
「その人、本当に妻子が居る人ですか?」
「その人には会ったことはないから、これは亜紀からの聞き伝だから……」
それ以上はお互いに、暗黙の了解、いや沈黙の了解か。だから大きな変化もなく、なあなあで続いていると思っていた。後で子供が出来る様な恋愛とは知らなかった。と柳原祐一は唯一の身内ながら、責任を感じていたようだった。
伯父さんから得られたこんな中途半端な情報だけで、早坂に幾ら報酬料を払ったのか、聞くのもばかばかしかった。それだけ早坂が一枚上手だったとも言える。しかし仁科には亜紀さんの身内をやっと探せたと云う、安堵感がそうさせたのだろう。
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