第16話 渓流釣り
春に此処で列車を降りた時も衝撃的だったけど、これから行くケイコクは所長の話ではもっと凄いところだそうだ。
施設から釣りに適した渓谷はそう遠くない。そこへ行くには車で十分程走って、そこから歩いて三十分の場所だった。殆ど知られていないからいつも閑散として、独りで幽玄に浸って居られた。今日は四人で子供も一人居るからのんびりと、釣り処ではないかも知れない。だけど同行を認めた美咲にはその心配がなかった。彼女は無意味にはしゃぎ廻る子供では無いと確信しているからだ。亜紀も荒木の話を聞いて美咲にも非日常的な体験に連れて行った。今日はママと一緒に遠くへ行けると美咲ははしゃいだ。
所長は車を用意して迎え行くと、仁科は亜紀親子を連れてやって来た。
「近くの谷かと思ったけど。ほうー所長の行く釣り場は遠いのかね」
「開拓され尽くして近場は大物がいないんですよ」
「此処の年寄り連中はそんなにみんな釣るんかねぇ」
「いゃあ、此処が今より人が多かった時分に遠方からも人が来て釣ったもんでねぇ」
「それで所長がこっそりと別の穴場を見付けた訳か」
まあそう言う事ですと車を走らせた。
「しかし仁科さんも凝り性ですねうちの井上が絵を描くと知れば早速画材を揃えて遣るんですから釣りも初めて何でしょう」
「子供の頃に親に連れられて行ったがそれっきりだからそれも近くの川だからこんな山奥の渓流なんで初めて、だから面白いんだ」
「釣れればですがそれに川より流れが速いし変化に富んでますから、それでも岩場で堰になった後は流れは緩やかですから良い釣り場になるんです」
車は林道に入ると直ぐに行き止まりだ。そこで車を降りた仁科は細い山道に唖然とした。見通しは良いが足下が悪かった。普通の靴では滑りそうだ。
「ここから結構歩くんですよ亜紀さんのその草鞋は滑らなくて丁度良いですねあの裏の壷も刺激して歩きやすくなりますよ」
「美咲ちゃんが作ったのか器用な子だねぇ」
「此の集落の人はお陰で手先が器用ですから町の駅前に民芸品店でも作ろうかと思っても老い先が長くないからね、このままそっと愉しみを残してくれなんて云われちゃいましたよ」
「じゃあ立派な後継者が出来たって云う訳か」
此処は案外やりがいのある集落なのね、と言われ美咲も、ウンと嬉しそうに返事した。
灌木を避け倒木を跨いで道なき道を歩く。しかし荒木は美咲の身長を考えるように上手く歩いてくれた。斜面ではこれは大助かりだった。
蛍も見たよ、と美咲はテレビや図鑑でしか目にしない物を此処では身近に見られた、と得意顔で、獣道も何のその、自慢の草鞋で走破してゆく。その姿に仁科は、この子は都会よりも田舎似なんだなあと思った。
「じゃあ此処にずっと居るか」
と仁科が美咲に声を掛けた。するとおやっ? と 先導する荒木所長は振り返った。
「仁科さんはそのつもりじゃなかったんですか?」
「いやあ申し訳ないのですが息子との争いで逃避してるだけだったがとうとう向こうが白旗を揚げたようなんで……。でも結構此の生活が浸透してどうするかまあ釣りでもしながら考えを纏めるつもりですがねぇ。でも此処で働く人は別な苦労を抱えてますからねぇ」
と亜紀を見た。
「それはどうでしょう此処は何もないって言っても知れば知るほど奥深いんですもの」
と亜紀は亮介を訳ありに見詰める。
「だって美咲が気に入ってるだもんね、ねぇ美咲」
大きな倒木には荒木が美咲に手を貸していた。
「ウン、おばあちゃんっちで物を作る愉しみを自分で覚えたもんっ」
振り返ってこけそうになる美咲を荒木は引っ張り上げていた。美咲、ちゃんと歩きなさい、と叱るが荒木の笑顔に反応して堪えてないようだ。
「あのおばあちゃんもそうですがこの集落では正月の飾りもんも作って裕子さんが各家を廻って町へ卸しているから期間限定品では機械生産にメリットはありませんから重宝してるんです、草鞋だけでなく籠も作れるから大したもんでしょう」
美咲に籠も作ってるのと聞くと頷いていた。でも見せないところを見ると大した物じゃないみたいだ。
最後の百メートルは人跡未踏の様な岩場をすり抜けた。その先には激流が激しく落ち込み、その下は泳げるほどの空間が広がっていた。
そこが所長がいつも竿を投げ込むポイントの一つらしい。木々の隙間からは険しい山が見えて此処はその遙か下の裾らしい。
やがてちょっと拓けた河原に出た。そこで荷物を下ろして、石組みでかまどを作り、流木や小枝を寄せ集めた。そこで早速荒木の指導で釣りを始めた。ルアーで決めたポイントに投げ込み、そこから流してまた元へ入れる。これの繰り返しだった。百メートルを三等分するように別れて三人が釣り始めた。美咲はその間を行き来して三人三用の釣り方を観察して、ママと仁科に荒木のやり方をアドバイスして向こうへ行った。これには二人とも感心する。
「気遣いの出来る子だねぇ」
「街じゃあ殆ど一人でお留守番だから気が付かなかったけどここへ来て環境が変わったせいかしら」
「一人遊びで覚えたんだろう」
「独り遊び?」
「一人閉じこもらせると周りや世の中がどうなっているのか不思議になり追求したくなるんだ。よくあるだろう夜中に何処まで走っても月が付いてくるのを、大人にすれば馬鹿げた事を小さい子は新たな発見だと思う、あれだよそれで得意げに報せたくなるんだろう」
「そう謂う好奇心が強い割にはゲームセンターには関心ないのよね」
「だからあの子は勝手に与えられた物でなく自分から興味を引き立てられないと駄目なんだよ」
「そうかしら」
「傍から見ると良く分かるよ。でも何に興味を持っているかは亜紀ちゃんでなければ気が付かないだろうなあ」
「そう言えば……」
彼女が手を止めると、ルアーも水中で止まるから、疑似餌でなくただの凝った飾り物になる。
「処でさっきも少し話していたが息子の会社が潰れた。依って俺は隠遁する必要がなくなった。どうするかだが今、家に帰れば借金取りでごっちゃになってるからなあ、まあ俺には関係ないがあいつが頭を冷やすまで様子を観ようと思ってる。そこでだ亜紀ちゃんはどうすんだ」
擬似餌は頻繁に動かさないと、魚は食い付かないから仁科も同じだ。
「じゃああたしももう暫くここに居る」
「何か都会には行きたくない理由が他にも有るのなら別だが……」
美咲は此処の二人はダメで、参考にならないと荒木のほうへ行っていた。亜紀は答えを探すように向こうの美咲に目を遣った。仁科も同調した。
「やっぱり美咲ちゃんかそれだけか?」
「他に何が有るって云うの?」
その美咲が二人を呼びに来た。どうやら荒木も竿を担いで急ごしらえの河原のかまどで火を
荒木は串刺しにしたヤマメを焚き火にかざすように砂場に突き刺していた。
「ほう流石に釣れてますねしかも丸かじりするには丁度良いサイズですね」
「いつもなら逃がしてやるサイズですが今日は昼のおかずを調達せにゃあなりませんから確保しました」
「じゃあいつもはもっとでかい奴を釣ってるんですか」
「そうよ一度借りてる家で見せて貰ったけどお部屋には鮭みたい大きな魚拓が沢山飾って有るからびっくりしたわよ」
「これも大きいけどそんなでかいのがこの渓流にいるのかい」
「いるけど、ルアー釣りは魚に餌だと思わせすように竿を操らないと大物処が此のサイズでもダメですよ」
「それはさっき美咲ちゃんにも指摘されました」
美咲ちゃんには途中からジックリ見られて「今食いついた見たい」って言われると「エッ! いつ覚えたの」って、もう私より感覚が敏感と謂うか鋭いです。
「あたしも公園で砂遊びしかしたことが無い子が此処へやって来てから驚かされる事が多いから美咲、よく見てるわね」
美咲は亜紀に褒められて傍に寄って来て「ずっとママが傍に居るからだよ」とママに必要とされている喜びが嬉しくて、膝の上に乗っかると抱き締められた。ママありがとうと心の中で美咲は感謝した。
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