第8話 三浦老人の願い
目の前の施設は、戦前の軍関係者の建物と言う噂を今は払拭されて、その面影を殆ど残していなかった。ただ同じ敷地に、基礎をそのままにして、外壁と内装をリフォームされた建物が存在していた。一新された施設の玄関は電動式のドアに替わっていた。建物は戦前と大きく様変わりしても、周囲の景色は太古と変わらぬ風が、頬に心地よく吹いていた。亮介はその入り口で自動ドアを開けた。
自動ドアの左手にホテルのような受付があった。カウンターの呼び鈴で此の山里には不釣り合いな若い男が出て来た。男に名前と用件を伝えると、男は直ぐに奥に居た所長と入れ替わった。三十半ばのしょぼくれた男が愛想笑いを浮かべて出て来た。
入居予約の方ですね。御一報下されば駅までお迎えに行きましたものを、と所長から慇懃に挨拶された。
所長は直ぐに亜紀を呼び出し、亮介を案内させた。
「結希に聞いたけどいやあ良いところだなあ」
「でもおじ様は雲隠れしちゃったって言っても、よくよく結希に聞いたらホテル住まいだなんて、此処は都会と違ってキャバクラはないわよー」
「限定社会への適応能力の無い息子の亮治だったら悲鳴を上げるだろうが俺は違う」
亜紀の突っ込みを、亮介はさらりと躱した。が亜紀は引き下がらない。
「あたしのお店に通ってくる人とどう違うのかしら」
「あわよくはものにしたいという奴と一緒にされては困る」
「笑って聞き流せるところがおじ様の素敵な処ね」
それじゃと、荷物はこれだけ、と亜紀は亮介のキャリーケースを引っ張り部屋へ案内した。
二階の端の部屋からは、近在の村や山がよく見渡せた。
「これは保養には最適だなあ」
戦前の軍が負傷したパイロットの、戦力回復に当てたのも頷けた。
「処で此の環境でも気に入らないと所長が云う三浦老人は何者だ」
「気むずかしくて誰も扱い難くて困ってるらしいの、それであたしがよくよく話を聞いてあげたら、毎日亡霊の話を聞かされるのが日課にされちゃった」
でもそれが結構飽きが来なくて、面白くなっているようだ。
なんせ今まで心の片隅に、ひたすら閉まっていた物だから、本人はそれどころではない。言うもんじゃ無い、言えるもんでも無い、言わなけゃあならない、と三浦は歳を取るごとに胸の
「成るほど一枚ずつ花びらを取って占う恋占いのようになったのか」
しゃれた物言い、と亜紀はちょっと見直した。
「それで喋ると気分が落ち着けてスッキリされたそうなんよ。でもそれからなんよ頻繁に現れだしたのは。きっと何か伝えたいもんが有ったんだと言い出してね、それでおじ様なんとかならないかしらと思ったの」
「えらく頼りにされたもんだなあ」
亜紀はそのマザコン兵士の亡霊が、もし生存なら九十歳前後らしい。消息が分からないだろうか、と亮介に相談した。
ほう〜、それは面白そうだなあ。一人腕利きの調査員を知っている。彼の情報発信は俺の相場師としても、かなり協力して貰って、今は暇を持て余している。だからもっと詳しい事を訊け、とおじ様もかなり乗り気になっていた。
「その前に、その三浦老人とやらに会って興味が惹けるかどうか、じっくり聞いてからにしょう」
先ずは亜紀を通じて、頑固な爺さんに気に掛けてもらえた。
次は三浦老人とさりげなく食事時に、隣席が出来る様にして貰った。そこで亜紀の仲介で話が纏まり、食事が終わると、山里の道は平坦でないが、老人は亮介との散策を承諾した。
館内では歩いていたが、珍しく散歩に出ると云う初日は、所長が車椅子を勧めた。まあ転ばぬ先の杖ですよ、と所長が言えば。じゃあ杖にするかと言い出す始末だった。
あの三浦の爺さんが、そんな冗談も言えるようになったのも、亜紀さんのお陰だと、荒木所長は彼女を高く評価していた。
亜紀の押す車椅子に老人が座り、亮介と三人は出掛けた。
木々が芽吹き山菜が顔を出し、花も咲き始めるこの時期は散策には最適だった。三浦老人は途中から車椅子を手押し代わりに歩いたり、疲れるとまた座ったりして満悦した。そうなると口も饒舌になり、昔を懐かしんだ。
三浦老人は戦場での傷を治癒して、此処で機能回復訓練を受けて、一刻も早く前線に復帰したいと日夜励んでいた。そこへ気が触れた兵士が療養に送られてきた。国家の危急にそんな軟弱な事で、と呆れ返っていた。そう謂う患者の中に変わった奴がいて、身近で彼を観察して気が付いた。
「それが母親の弱愛によるものだと見抜いた人ですか」
「そうだ」
子共は母親が育てる、それが充実して何が悪い。銃後の守りを軽んじるな、と周りから反感を持たれてた。それで俺は直接そいつとトコトン話を突き詰めて、母親を呼んだ。五体満足で息子は帰って来たから、このままそっとして置いて欲しい、と母親は泣いて縋った。国家があってこその子々孫々までの繁栄だ。此の国難にご子息にも頑張って欲しいと切実に説いた。それでマザコン兵士は前線に復帰して肩の荷が下りた。あの時はそこには何の愁いもなかった。今思えば、母親にとっては掛けがいのない一人息子を、俺は戦地へ送ってしまった。それに引き換えて俺は今、こうして楽隠居して生きながらえている。歳を重ねるとあのマザコン兵士が、夢に現れるようになった。
三浦の苦悩を聞き終えて、亮介はいつまでも幻を追い掛けてもしゃあない。現実を見据えてみようと、マザコン兵士の知っている限りの情報を聞き出した。
「もう七十年以上も経っていて無事に復員出来たかどうかも解らないのに。それを見ず知らずのあんたが調べてくれるのか。それは有り難いこっちゃ。これで少しは枕を高くして寝られるか……」
「毎晩出るのかこれが」
と亮介は両手をダランと下げて見せた。
「いやそれが思い出してくれと言わんばかりに念を押すように忘れた頃に出よる」
「執念深いやっちゃあなあ。それは余程伝えたいことがあったんちゃうか」
「それはわしより母親やろうが、その母親はトンと現れん」
「何でや、とあんたは思うのは、あの亡霊から逃れたいからそう言い張るんやなあ。それをハッキリすればあんたも気が楽になってそれこその楽隠居やなあ」
「あら珍しい畑の木陰に若い人が居る」
亜紀が差し出す腕の先に若者が居た。
「あんたが来てから此の村では若者がキノコみたいに生えて来るんか」
「珍しい若い男だったが、確かあの男は施設の従業員だよなあ」
長年居る三浦より、亮介の方が見知っていた。
「そう、あ、絵を描いてる。チーフの松井さんが指名した井上さんだ。あたしの担当になった人だ。何かボソボソと喋る人で聞き取りにくかったけど。でも入居者に依っては凄い大声を出すからびっくりしちゃって付いて来た美咲が半泣きに成るんですもの。それから仕事中は美咲は独り本を読んでいるの」
井上さんは二十代後半か、類は友を呼ぶのか、荒木所長と似たような雰囲気を醸し出していた。
三浦老人に謂わすと所長は、覇気がないそうだ。そこが気に食わない一因らしい。
「何か描いてるようだなあ畑のあぜ道で、座り込んで一寸寄って見るか」
亮介と亜紀があぜ道を進むが、三浦は車椅子からここに居る、と動かなかった。
傍へ行くと水彩画を描いていた。気配に築いた井上は振り返った。亜紀がぴょこんと頭を下げた。
「井上さんって絵を描くんですか」
「若手の新人四人は解らないが、俺を含めてみんな趣味を持っているよ。だから此処に居続けられるんだろうなあ」
松井さんはプラモデルに凝っている。所長は渓谷釣り、同期の三村は彫金でアクセサリーやジュエリーを作って路上で販売していたが、此処では原木を見付けては、彫刻に切り替えた変わりもんだ。
「此処は風景画の題材には飽きないね」
「これから次々花が咲き緑が濃くなってくる。あの向こうの土手に居る老人はワラビやゼンマイを採ってるんですよ。此処は深い森と綺麗な水に恵まれていますから。だからでしょうか此処には人間復帰の原点が見えるんですよ」
なんか此処で働いている者はみんな、ぐうたらを極めて居るような感じがしてならない。仕事は二の次三の次な感じもする。強いて言えば自分を大切に、まさか入居者は世捨て人でも、二十代の者まで世捨て人とは言わんだろう。若者は人生まだ先があるから充電中なんだろう。
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