第7話 仁科亮介


 孫娘、結希から聞かされた亜紀の逃避先は、意外な場所だった。そこは時間を超越した遠い世界の入り口で、電車は一日に数本しか止まらない無人駅だった。結希ゆきから聞かされたその駅に降り立った。成るほど此処には生活の痕跡を思わす物は何も残って無かった。

 唯一、都会の痕跡を残すものは警笛を鳴らして遠く走り去った。後に鳥のさえずりと風が揺らす木の葉の音しか残っていない。此の余韻に慕って無人の改札らしき物を抜けて表へ出た。 

 結希から聞かされたとおり何も無かった。最も彼女は、ひとつ手前の駅で降りてタクシーを使ったが、亮介りょうすけは亜紀が降りた駅に拘った。ただ最終で無く始発の列車だった。この駅は、普通列車も殆ど通過して、平日昼間四本だけが停車した。

 まだ朝晩は肌寒かった。ぐるりと周囲は山に取り囲まれていた。道路は舗装はされていたが、中央線はなく、両端の縁石もない道だった。縁石の無い両端のアスファルトには、所々ひび割れて、土が剥き出していた。こりゃ雨の日は道の真ん中しか歩けんな、と思ったが、此処のお年寄りは電動カートで、走り回ってると訊いたのも頷けた。

 登り坂を暫く歩くと、やがて一本道が別れだした。どうやら此処の集落の入り口らしいが、民家は木々に遮られて見えない。更に坂を上ると道が枝分かれしてきた。

 想えばここまで誰も会わなかった。別に会いたくはないが、何か別の惑星に居るような錯覚さえ抱くほどの静寂さに、思わず無為の境地になった。

 今までは信号さえ見落とさなければ、我武者羅に客車と謂う家族を引っ張る機関車だった。此処はレールも信号も無かった。在るのは人間界を形成する感情の全てを吸収してしまう自然界の営み以外は何も無かった。

 義理人情も何も無い。愉しみや哀しみ憎しみ嫉妬や恨み、これらを深い森が吸収し去って何もなかった。煩悩のない道をゆけば、自ずと禅の極限状態に陥ちた。そこで悟りが拓かれれば、高僧と肩を並べる錯覚にしばし酔いしれた。しかし此処は壁に向かって座禅を組む禅宗の寺では無い。目の前は千差万別に変化する自然だ。最初の試練なのか、その分岐点に立った。

 はて、どっちだろうと思案すると、その内の一本道から、柴犬を連れた年配の女性が現れた。

 向こうは亮介を、初めて見る奇人のように珍しがった。その女に擁護ホームを尋ねた。女は面会人と間違えたようだが、従業員でも同じ施設に居るのなら、面会人には違いなかった。

 立ち話する間にスッカリ犬が馴染んで来て、飼い主はまあ珍しい、と犬負けした女に先導して貰う事になった。

「此の犬は頑固でねぇ。だからいつも散歩のコースは犬任せだけど、あのホームへは行きたがら無かったのにねぇ。でも今日は犬があんたに懐いたから」

 と案内を請け合った。

 どう見ても七十代とみたが、聞くと八十八と知って驚いた。此処のホームには地元の者は一人も居ない。入居者はみんな都会からが多いと知った。集落には人気の無い家も散在していた。

「空き家が多いんだねぇ。さぞ昔はもっと人が住んで居たんだろうね」

「そりゃあ学校もあったよ、小学校だがね」

「此の集落だけで」

「他の集落もだけど、でも此の近辺でも昔は子供がたくさん居たよ。今は一人も居なかったけど。最近一人でやって来た親子の旅行者の連れてる子が可愛いって此処ではパンダ並みの人気者でねえ」

「ほう、それは楽しみだなあ」

 それは亜紀の子供の美咲だとピーンと来たが知らん振りをした。ばあさんは構わず続けた。

「そんじゃあんたはんはそこへ入居するんでっか、まああんたは従業員にはみえんからねぇ」

「そのつもりで来たからねぇ、まさかこんな山奥にそんなホームがあるとはついぞ知らんかったもんでねぇ」 

じゃあ何処で知ったと訊ねられて、戦記ものの本に出ていた負傷兵の療養施設を思い出して適当に言った。

「それゃあそうだ何でも昔は軍人さんの機能回復のために作られたそうだからね、此処なら気兼ねなく療養が出来ますさかいなあ、あんたはんも何か実家では居づらい事でもあったんか」

「まあなあ、道楽息子がわしの会社を潰しに掛かってなあ」

「ほうー、あんたはんは社長でっか。いまのあそこはそんな一癖在るような人の寄せ集めみたいなもんやさかいなあ」

「そんなホームなんか」

「そゃあさかい老人ホームで無く擁護ホームちゅうらしい。第一大半の人が六十から七十代やさかい都会では現役で働いているのにあのホームの人らはのんびりムードや、で周りの集落の人は八十、九十やのにあてらと変わらへん生活しとるわいな、ホンマに隠居するのに十年早い連中やあんたも働き盛りやのになあ」

 ばあさんは白い目で、嫌みたっぷりに見られた。

「そう言われたら穴があったら入りたいけどそうはいかんのよ」

「そうやなあ、あそこはそんな一癖あるような人の巣篭もり場所にもってこいや」

「どんな一癖ある人でっねん」

「あの人らはホームの近所しか歩かあらへんさかい顔を会わされへんのよ。しゃあから付き合いがないさかい分からへんけどよく来てくれる移動スーパーの裕子ちゃんからの耳伝や」

 どうやら各集落のコミュニケーションを、移動スーパーが取り持っているようだった。

「一つ聞きたいけど、子供や孫達はとっくに村を離れたのに、あんた達はどうして此処に留まってるんや」

 若者がどうして此の村から離れていくのか、都会で散々愉しんだ亮介には、もう失われた若い頃の心を見失っていた。

「そやなあー」

 限られた人達では自由恋愛は難しい。昔なら縁談は親同士が決めたし。お節介ばあさんも居たが、疎まれてから疎遠になった。個人の自由奔放な生き方に誰も文句を言わなくなれば、若者は解き放たれた自由恋愛求めてこの村を離れていく。それを誰が止められると云うのでもない。此の村を捨てた若者たちが、その自由に縛られて何も得られなくて益々孤独を深めている。そんな便りが届けられて来れば、親たちも居たたまれなく、子供達の元へ行ってしまった。そして既に愛着が染み付いた世代だけが、取り残されて此の村に居残った。それが今は、都会の毒牙に犯された壮年者たちが、舞い戻って来るから、これが人生の輪廻と云えるかも知れない。とおばあちゃんは居残った者の意を得たり、と浮かべた薄笑いを、亮介は苦々しく見詰めた。

 相場は読めても、此のばあさんの心の内は読めない。大学で経済で無く文学を専攻しておけば、もっと心豊かな余生が待って居たのかも知れない、と悔やんでもしゃあない。相場を読み当てて、銭をうずたかく積んでも、このばあさんの人心ひとごころは買えない。その空しさから逃れるすべを、今は模索中なんだ。それをキザっぽく、ばあさんに言ってみた。

「唯、隠遁して此処に籠っても未来は拓かれない、今は何に集中するかそれが問題だ」

「何が問題なんかサッパリ解らんがなあー」

 此の山里に、そんな洒落た言葉を、並べたのが間違いだった。にもかかわらず。

「いえ ただシェークスピアを真似ただけです」

 と肘鉄を喰らわしてしまった。 

 教養が合わないのに、余計な話をしてなんか変な顔をされた。犬が懐か無ければとうに相手にされないどころか、罵倒されたかもしれなかった。こんな山奥の集落にひっそりと暮らす、お年寄りを想像して来てみたが、何処もそんな悲愴感は漂ってない。それどころか、至ってのんびりムードに、亮介は益々気に入ったようだ。何も無い此の不自由な土地から、何かを求めて多くの人が去ったが、残った人々は、心の自由を謳歌しているように見られた。それ故それ以上の探索は望まず寄り添う事にした。


 やがて養護施設が見えてきた。次の分かれ道でばあさんに礼を言って別れた。施設の前は広いロータリーの駐車場になっていた。送迎のマイクロバス以外の乗用車は、此処の職員らしかった。



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