第5話 最年長の入居者

第五話

 この部屋を見て美咲ははしゃぎ廻った。おばあちゃんの部屋で待たされた美咲に言わすと、此の部屋は月とすっぽん、提灯に釣り鐘らしい。此の雲泥の差は、おばあちゃんの家に入らずに此処へ来た亜紀には、おばあちゃんの家の中がどうなっているか知らない。だからはしゃぎまくる美咲を見て想像が付いた。でもその後でばあちゃんに悪いと反省するところが何とも謂えなかった。

 いつもと違ってこの夜の美咲は独り寝でなく、亜紀と一緒にベットに入り本を読んで貰って寝入った。

 この子は何処まであたし達の未来を知っていると云うの。でも未来を切り開けるのは仁科亮介でも無ければあたしでも無かった。


 一夜明けた翌朝のミーティングのような朝礼で、亜紀は所長から紹介された。まず住み込みの従業員が増えたことで、二人の宿直枠が一人減って歓声が沸いた。亜紀は美咲を連れ出してみんなに顔合わせをさせて部屋へ帰した。  

 此の建物は校舎のように真っ直ぐ伸びて、突き当たりから左へ曲がっていた。即ちL字型に成っていた。戦前から在るのなら七十年以上は経っていた。でも場所はそのままでも内装と外壁はスッカリ様変わりしていた。浅井祐子の説明が無ければ、これが昔の病院だった面影は払拭されていた。どうも頑丈な土台をそのまま利用したようだった。実は此の施設で、そんな過去を知る人物が一人だけ居た。祐子の話では、その人はもう九十三になるらしい。従業員の入れ替わりが激しい此処では此の建物の由来は誰も知らない。入居者も此の老人とは当たり障りの無い話に講じて、そんな話の疎通はなかった。昨日は、そこまで祐子によって教えられた。

 入居者は全部で二十五人、部屋は三十室あり、その内の一室が亜紀の部屋になり。空室は四室になっていた。従業員は所長を入れて八人、後は此の村から三人がパートで郷土料理を担当していた。七名全員の従業員を紹介されたが、一名は年季の入ったチーフで、後は亜紀より上の三十前のベテランが二名、他に二十歳前後が四名で内一名が女性だった。入居者は祐子から聞かされた九十代になるらしい老人だけで、後はサッパリ分からなかった。

 朝礼が終わると、荒木所長は亜紀の担当をチーフの松井に頼み、結局はその下の中堅でベテランの井上が亜紀に付いて指導した。

 亜紀の仕事は、まずは中央のホールで、入居者の朝食から始まった。ホールの端に在る調理場窓口に次々に用意された朝食を、テーブルに着かれた方へ運ぶ配膳を任された。他のスタッフは介護と車椅子の誘導をしていた。亜紀は次々とやって来る入居者の配膳と後片付けと食器洗いに追われてやっと一段落した。

 美咲はホールの向こうに在るソファーで囲まれた書棚の一隅で絵本を読んでいた。食事を終えたお年寄りが、それに気付いて集まっていた。美咲は此処でも人気者ね、と忙しい合間に亜紀は頬を緩めていた。

 所長は此処で亜紀に、三十号室に逗留する、一番古い入居者の部屋の掃除を頼んだ。この入居者は今まで誰が行っても、中々受け容れられなかった。これを新人の亜紀に頼んだ。男性では機嫌が悪く、新人の女性はまだ若くて、老人への扱う要領が呑み込めなかった。

 そこで所長は呑み込みの早い亜紀に期待するものが有った。三十号室のヘソまがりの老いぼれを、彼女なら何とかしてくれる、納得させられると期待出来た。 

 戦前の遺物のような老人に、スナックのママらしく、柔らかい物腰と褒め言葉で、亜紀は老人に接した。此の山里の施設にしては、珍しい都会の香りを漂わせた亜紀に、いつもの威厳らしさが消えて口角も緩み勝ちになっていた。それを透かさず亜紀は捉えた。 

 そのお顔には昭和の苦労が滲み出ていると切り出して。俺が生きてる限り戦後は終わらないんだ、と想わせる責任を背負ってらっしゃる、と掃除機の音に紛れて伝えていた。

 それでも男は黙って聞いていた。

「元は海軍のパイロットだったんですってお聞きしましたけれど……」

 男は急に警戒するようになった。

「誰だお前は」

「三浦さん、今日入ったばかりの新人で柳原亜紀って言います」

「名前なんかどうでもいい。何者だと聞いてるんだ。何故俺を知ってる」

 浅井祐子さんから聞きました。ずっと昔にも此処に居たのを……。

 三浦は、此の女が浅井祐子の紹介だと知って、気心が緩んだようだ。と云うより祐子のような人にこそ、昔の話をしたかったようだ。そこを上手にくすぐった。擽られた彼はおもむろに話し始めた。

 此処は昔はもっと沢山居た。あんな廊下や間切りも無いから七、八十人は居ただろうなあ。勿論みんな負傷兵だが、パイロットは待遇が良いんだ。わしが負傷したのはガダルカナルと云う所だが。知らんだろうな今のもんは、まあそんなことはもうどうでもいい。そこでやられて何とか基地まで辿り着いた。それから内地へ送還されて傷が治ると此処へ連れてこられて機能回復訓練を受けた。しかしながら何処には傷痕がない連中も結構いた。何だ此奴こいつらと睨んだでも、あいつらは虚ろな目をしていた。後で看護婦に聞くと前線で発狂して此処へ送られてきた。仮病じゃねぇのか、と言ってやったよ。前線ではみんな生死の境を彷徨ってるんだ。可怪おかしくならないのが不思議なくらいだった。それに比べりゃあ可愛いもんだぜ。あいつら、ガダルカナルじゃあそのまま間違いなくおだぶつだった。だが奴らは海軍陸戦隊に組み込まれていて、上海から送還されたらしい。誰だって人は殺したくない(平成の世の中じゃそうでもないらしいが)。まあパイロットは相手の顔どころか姿も知らないから、それ程感傷に耽る時間なんてありゃあしねぇ。だがあいつは違った。海軍と言っても敵地に真っ先に上陸する陸戦隊だ。目の前に敵が現れたら本能的に引き金を引く。だがあいつは違った。黙って見詰めているだけだった。それも一回や二回じゃ無かった。いつもそうだった。それで良く生きられたのが不思議だが。頭がいかれていて無理も無かった。そんな奴と一緒に戦っていれば部隊が危ない、と此処へ送られて来た。よくよくあいつと接しているうちに、その根源が彼の家庭、とくに母親に有ると解った。あいつは今で云うマザコンなんだ。当時は母親の弱愛で片付けられたが。戦場ではそれに取り憑かれて、敵兵が全て母親に見えるらしい。此の解決に母親を此処へ呼びつけて、彼女に夜叉やしゃを演じて貰った。これであいつは再び前線へ戻された。いや復帰した。なんせ現れる敵は全て夜叉なら、迷わず引き金を引いた。

「それでその人はその後も元気なんですか」

「さあ生きてるか死んでるか解らんが、母親は息子を戦地に送ったあと狂乱して俺を相当恨んでいた。戦争が無ければ此の親子は一種のマザコンで世間はともかく家庭では穏やかに暮らせたものを……」

 俺は半年で回復して、又飛行機に乗った。次のマリアナ沖会戦では、いきなり頭上から降って湧いた敵機に襲われた。攻撃隊を擁護せんとあかんが、味方が散り散りになりそれどころじゃねぇんだ。我が機が狙われて必死で逃れた。今度は負傷はしなかったが、戦闘機が穴だらけにやられたが何とか戻った。見方の駆逐艦に救助されて内地で終戦を迎えられた。

 それから一生懸命に働いた。だが築いた家族には、お払い箱にされてまた此処へやって来た。もしあのマザコンの兵士が、今でも家族に見守られて暮らしたなら、俺の一生とどう違うと云うんだろう。今でもあの母親の夜叉が夢に出てうなされる。

 三浦からは、あんたのような人に、これだけは謂い遺したかった。俺一人の胸には収まり切れないものだったからこれで気が楽になった、と言われた。

 それから此の三浦さんとは親しくなった。所長が上手く手なずけたなあ、と不思議がっていた。なんせスタッフ一同を、悩まし続けた入居者だったからだ。スタッフの教育上、どうして気に入れられたか聞いても。ただ普通にやってるだけですと言うばかりだった。 

 此処の入居者で九十三歳は、彼だけで大半は七十歳代だった。だからみんな本当の戦争は知らなかった。だから三浦は、面白半分に聞かれて、吹聴されるのが嫌なのだ。それなら黙して語らず。しかし命を賭けた貴い犠牲の記録を人伝でも遺したい。そして俺を悩まし続けた"もの"をも振り払いたい。


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