放牧された羊と消えた羊飼い

和之

第1話 逃亡

 通行区分帯のない細い道路から伸びる脇道に、細長い二階建ての古びた木造アパートが在った。上下合わせて八部屋あった。両端には中途の踊り場で上下に行き交える鉄製の階段が備え付けてあった。前に不整地の空き地があった。住人が少し盛り土をしただけの一画には、花壇を作り季節ごとに花が咲いていた。特に春先から初夏に掛けては鮮やかに色んな花が順に咲き見飽きなかった。五歳になる女の子、美咲みさきがそこで風に吹かれて母と二人で遊んでいた。この子はまだ父親を知らなかった。たまにやって来る男は良く頭を撫でて迎えてくれた。彼女はママのお友達位に思っていた。そう思わせる様に男はみんなそう振る舞っていたからだ。

 その子の母親、柳原亜紀やなぎはらあきがしゃがみ込んで、崩れかけた花壇の盛り土を直す美咲を眺めていた

「美咲は良い子ねー」

 振り返りママを見て笑った美咲が「ママ!」と叫んで亜紀の後ろを指差した。美咲の伸びた腕の先にはジーンズに薄手のニットセーターを着た亜紀と歳の近い若い女性が立っていた。訊けば仁科亮介にしなりょうすけの孫娘で仁科結希にしなゆきと名乗った。お孫さん? 仁科さんが六十前だからみんな早婚なのかしら? 。

 何故かこの日は、店に良く来る馴染み客で、親しい仁科さんの孫娘と名乗る女がやって来た。傍の美咲には初めて見る女だった。それもそのはず、女は亜紀の自宅は初めてだった。

 結希はじっと見詰める子供と視線が合うと、しゃがんで子供の歳を訊いた。美咲は右手を大きく開けて女の眼前に突き立てた。

「フーン五歳か、可愛いもんだ。その為にもどうしても遺しておきたいから頼まれたんだ。でもうちにこんな小さい子が居るわけないわなあ」

 お祖父じいちゃんは一体どうしたんだ、と結希は美咲を真っ直ぐに見据えた。

「あら仁科さんのお孫さんがこんな処に来るなんて余程何か有るのね」

 ふと結希は我に返った。祇園のスナックを任されているママにしては、最も映えるマンションに住んでいるのか、と思ったけれど此のアパートには驚いた。

「一週間前に祖父が預けたあなた名義の通帳なんですが」

 言い淀む結希の言葉尻をとらえて、解ったわ部屋で伺いますから。

「美咲、この人と大事なお話が有るから暫く此処で遊んでいて」

「うん、ママ解った」

「ものわかりの良いお子さんね」

 亜紀はちょっと自慢げに美咲の頭を撫でると、どうぞと女を二階へ案内した。


 六畳と四畳半の二間住まいだが、おもての四畳半は流しと一緒で、和室のダイニングルームになっていた。二人は座卓を挟んで向かい合った。

「祖父が暫く預かってほしいと云ってましたけど、ひと月を半年に伸ばして欲しいの」

 そこには祖父、仁科亮介の資産を狙う者が蠢いていた。この者達の活発化に伴って事情が悪化した。そこで仁科は誠実な柳原亜紀を重宝した。それを彼女と同じぐらい重要視したのが孫娘の結希だった。その大学生の結希が春休みになり実家でのんびりと寛いでいた。仁科がこれ幸いにと彼女を使わした。結希も初めて聞かされた時は飲み屋の女に託すなんて、と祖父を戒めた。会えば解ると最後はそう云うしか無いほど、結希は祖父の軽はずみと思えるこの行動を気にしていた。だがそれが此処で霧散した。 

 スナックに勤めていても実に飾り気のない部屋だった。お祖父ちゃんは水商売を長くやっていながら、生活に金の掛けないところが、気に入ったと話していた。それでも単に派手でなくても、地味でも常識の範囲で使う処は使っていた。

「本当に掛け値なしの有りのまま部屋なのね」

 しかも部屋は大分片づいていた。

「近々引っ越しされるんですか」

「あら、訊いてませんか。仁科さんがお持ちの賃貸マンションに空きが出来るからって近いうちにと勧められてるんです」

 そうーか、お祖父ちゃんとはそう言う話までしているんか。

「別に囲われもんじゃないってば、ちゃんとお家賃は払うって事で話は付いてるのよ、それよりここに居ればやばいとも云ってたけど」

「ああ、それそれ、それで来たの」

「通帳を受け取りに来たのでないの?」

「だってそれは柳原亜紀さんの通帳でしょう、それに祖父の勧めるマンションも手が回れば駄目になるかも知れない。なんせみんなは祖父の資産になんとしても見付けたいと釘付けですから」

「まあ通帳はそうだけど中味は桁違いに増えて、それは全部仁科さんのものなの。もしかしてそれが仁科さんの資産で、これを狙ってるの?」

 ーーこれは三年前にへそくりを作るから亜紀ちゃん名義の通帳を作って俺に使わせてくれって作った口座だ。それを一週間前に返しに来たけれど、百円しか入れてないのにゼロの数が天文学的な数字になっていた。だから中身が違うって慌てて突っ返した。じゃあ暫く預かってくれって、で、それを受け取りに来たんでしょう。可怪おかしいと思ったのも無理もなかったもん。

 なるほど、今は当てに出来るのはこの人しか居ない。だから粗略にするな、とお祖父ちゃんに言われた。観て納得、するしか無いか。

 結希は鼻を啜るように込み上げる物を一気に呑み込んだ。 

「いいえ、その反対で、今、祖父の資産のことでみんな血眼になって探しているのよ。だからもう少しほとぼりが冷めるまで預かってくれって、それと今日明日にもここを引き払って後のことはちゃんとして置くから。それからその通帳と、あっカードの暗証番号は最初のままで変えてないって云ってたから逃走資金に使っても良いと了解を得てますから」

「随分と信用されちゃったけど使い込むかも知れないわよー」

 へへへっと結希は笑ってその時は少し頂戴っと両手を差し出した。

「これは仁科さんのお預かり物であなたには勝手にはあげられません!」

 流石! じっちゃんのお眼鏡にかなっただけの人だ。それで安心して、じゃあ、と結希が部屋を出ると慌てて引き返してきた。

「どうしたの? 忘れもの?」

「呑気な人ね、そこもじっちゃんが気に入ったか。それよりやばいの。さっき通り過ぎた男が又引き返して近く迄来てる、直ぐに大事な物だけ持ち出して急いで」

 リュックサックとハンドバッグそれとウサギの形のリュック。

「何なのそれ?」

「美咲の大事な物が纏めてあるの」

「あっそうか美咲ちゃんもいるのか」

 手短に纏めて表へ出ると、花壇で遊んでいる美咲と男が話し込んでいた。

「誰?」

 不味いと言ってから、後で説明するから、と二人は背を屈めて後ろの階段に寄った。そこからそっと抜け出して壁面に身を寄せて、中間の踊り場に身を潜めた。男は向こう側の階段を上がった。それを合図に二人は一階の軒下に降り、美咲を軒下に手招きして直ぐにうさちゃんのリュックを背負わせた。

 柳原亜紀は娘、美咲にはその必要な物だけ袋に詰め込み背負った。ママは預かった通帳と呼ばれた手帳を大事そうにショルダーバッグにしまい込んでから、美咲の背中に背負ったうさちゃんのリュックサックに入れ直した。そしてこれは大事な物だから絶対になくしちゃ駄目よと云われてウンと頷いた。

「危なくない?」

「もし捕まった時は此処が一番安全なのよ」

「なるほどそう云うことか」

 結希は美咲の背負ったうさちゃんをポンと叩いた。 

「さあ美咲、前から言った通りちょっと早いけど行くわよ」

「ウン分かった」

 五歳の子が解らないままに理解する。どう云う躾かしらと結希は感心した。軒下伝いに表に出て、通りを駆け出す頃に、男は二階の手すりから三人を見付け、慌てて階段を下りて追った。

 三人は表通りに出てタクシーを拾った。タクシーは追っ手を歩道に残して、間一髪で逃げかえった。 

 座席から振り向いた結希は、苛ついて歩道で次のタクシーを待つ男を観て、要領の悪い探偵だと薄笑いを浮かべた。

「あの人探偵なの」

「そうお父さんが雇った探偵だけどイマイチ迫力がないのよね。やはりもっとお金をはずまないと良い探偵は雇えないわね」

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