初夏色ブルーノート

キロール

第1話 思い出のメロディ

 初夏に近い時節、鈍色の空より突如稲光が走り抜けた。その後、腹に響くような咆哮のような雷鳴が続いた。その雷が呼び水となり、ポツリ、ポツリと降り始める雨。明子は少しばかり困ったように空を見上げてから、手近なカフェへと避難した。


 慌てて入った為にカフェの名は確認できなかったが、幾つかの調度品は古めかしくも格調高くヨーロッパの風情を醸し出していた。店内は少し薄暗かったが漂う珈琲の香りが少しばかり値の張る店に入ってしまっただろうかと明子を不安にさせた。窓ガラスの向こうでは激しさを増した雨が通行人に降り注ぐが、不思議な事に誰一人としてこのカフェに足を踏み入れようとはしなかった。


 窓辺のテーブル席に座り、明子はメニューを開く。このようなお店に来ておきながら、真っ先に値段を気にしてしまう自身の性を情けなく思いながらもその値段が思いの外高くもない事に、そっと安堵した。


 その時だった。老齢と思しきマスターが客が来たことに初めて気づいたのか、少しばかり慌てたような動作で、カウンターに置いてあるプレイヤーに針を落とした。微かなノイズの後に流れ出た曲に、明子は目を瞠った。


智昭ともあき……」


 かつての恋人の名を微かに呟き、スピーカーより流れ出るメロディに耳を澄ませる。エーリッヒの曲、高校生の頃に付き合っていた智昭が熱っぽく語り、何度となく明子に聞かせた物悲しくも狂おしいヴァイオルの音色が響いている。


 ドクドクと心臓が早鐘を打つように鳴り響いている事を忘れ、明子は過去を思い出す。それは過去を蘇らせる旋律でもあった。


※  ※


 智昭ともあきは線の細い少年だった。アメリカからの帰国子女で英語も堪能だったが取り分け音楽への造詣が深かった。付き合う切っ掛けは、明子が音楽に詳しいと智昭にアメリカのロックグループについて質問した事であったが、何と智明はそのグループをけんもほろろに貶したのである。


 なんてひどい人だろう。明子は怒り、そして呆れたが数日後に智昭が申し訳なさそうにそのグループのCDを持ってきて明子に謝ったのだ。曰く、少し不機嫌になる事があって思ってもいない事を言ってしまった、ごめん。そう謝る智昭の心細そうな様子と心苦しげな謝罪に明子はついつい許してしまった。そこから二人の交流は始まった。


 交流を得て分かった事だが、智昭は多分に神経質な所があり、時々不機嫌さを前面に出すことがあった。そういう時は決まって周囲を見下したかのような言動を繰り返したが、冷静さを取り戻すと眉根を下げて心細そうに反省していた。一方で、普段の智昭は深煎りしたマンデリンを好み、高校生とは思えぬほどにユーモアに富み、同学年の男子では及ばない機転の利いた言葉を操った。


 徐々にそんな成熟しているようで未熟な智昭に明子は惹かれていった。だが、そんな智昭を明子の友人達は、気を付けた方が良いと忠告するのだった。何か奇妙だ、素行がおかしいと言う具体性に欠ける忠告であった為に明子はそれらの言葉を気にすることはなかった。そして出会ってから一年が過ぎた春先に二人は恋人となったのだった。


 その頃からだ。恋人として付き合い始めたあの頃から、智明が好んで聞いていた曲を明子にも聞かせてくれるようになった。エーリッヒの曲と言う名も知れぬヴァイオル奏者、つまりヴィオラ奏者の曲を。クラッシックには疎い明子であったが、エーリッヒの奏でる曲が普通のクラッシック音楽とはだいぶ気色が違う事には気づいていた。非常に物悲しく、時折感情を爆発させたかのような不協和音が混じるその曲は、しかし、奇妙な魅力を秘めていた。


「題名は何て言うの?」

「わからない、ただエーリッヒが弾く曲、エーリッヒの曲としか呼ばれないんだ」


 譜面を見ながら弾いているのか、即興曲なのかまるで分らないが二人は何度となくその曲を聴きながら話し合い、共に過ごし、時には愛し合う事すらあった。その曲を聴きながら愛し合うと、まるで一つに溶け合うかのような尋常ならざる高揚感と一体感を感じた事を今でも鮮明に明子は覚えている。


 音楽と官能の日々が突如終わりを迎えたのが、あの初夏の日。

 今日の様に鈍色の雲が空を覆い、日中でも薄暗かったあの日に智昭は失踪した。

 明子は急に智昭が失踪したと聞かされただけだったと長年思っていたが、先ほどから流れるエーリッヒの曲を聴いているとそうでは無かったことを思い出す。


 あの日、智昭が目の前で消えるのを明子は見ていたのだ。


 智昭の消失には、一人の人物が関わっている。同じ高校に通うその人について明子はあまり知らなかったが、智昭がある時、蚊の泣くような小さな声で告げた事があった。


「あの人の声は、僕の音楽をすべて破壊する」


 あの人とは、一年先輩の一ノ瀬と言う男子生徒ことだ。好漢を絵に書いたような人物で明子の友人の中にもその先輩を好ましく思う者はいた。だが、常に複数の男子生徒たちの中心にある彼に声をかける勇気を持っている者はいなかった。


「声が大きいの?」

「そんなんじゃない。……あの人の言葉は、バベルの言葉だ」


 たいていの場合、智明は答えを返さなかったがある時にそれだけを答えた事がある。バベル、聖書に書いてあるあの神話の事だろうか? 明子にはいまだに分からないが、エーリッヒの曲を聴きながらだと、その意味が分かる様な気がした。一ノ瀬の言葉には魔性を砕く響きがあった。或いは古い神聖を砕く力が。


 ああ、今ならば明確に思い出せる。あの日、その一ノ瀬が智昭の家を訪れたのだ。二階の自身の部屋で呼び鈴を押す彼の姿を見た智昭は狼狽し、慌てふためいた後にどうにか冷静さを取り戻して明子に告げた。


「何があっても、何があっても君は彼の前に出るな。何があってもだ。そして、全てが終わったら今日の事を、僕の事を忘れて生きるんだ、良いね? エーリッヒの曲が鳴り響くときこそ、僕たちは再び巡り合える」


 それだけ告げて智昭は階下へと降りて行った。明子には意味が分からなかった。ただ、何が起きようとも言われたとおりにけっして階下に降りるような真似はしないと決意した。何故かは未だに分からない。


「女学生……誑かし……外なる」


 一ノ瀬の言葉が幾つか響き、それに抗うように智昭の言葉が返る。


「……の犬……宿願……」


 一連の会話の後に一ノ瀬の唸るような、大地が鳴動するような力強い声が響き渡ると、智明が苦しげに叫びを発した。


「ツァンの音楽は不滅なり!!」


 その叫びすらかき消すような一ノ瀬の声がさらに響けば、智明はあっと叫んだ後は押し黙った。そして、一ノ瀬が最後に良く分からない言葉を投げかけると、それ以降は智昭の存在を感じることが出来なくなった。智昭の音楽は、一ノ瀬の声に破壊されたのだろう。


 そうと察しながらも明子は決して階下に降りる事はなかった。一ノ瀬が去っても暫くは智昭の部屋で様子を伺い、そして家に戻った。智昭の言葉通りその日の記憶を全て消し去り、恋人がいなくなった哀れな女生徒として日々を過ごした。ああ、それも全てはこの日の為だったのだろう。


 気付けば明子はいつの間にか泣いていた。ぽたぽた涙が頬を伝いおとがいへと集まりこぼれ落ちていく。智昭は戻って来る、きっと戻って来る。それが何故か、どうしてなのかは何も分からないけれど。


「深煎りしたマンデリンでございます。――おかえりなさいませ」


 カウンターより老いた者が彼女の前に珈琲を置いて立ち去る。狂おしいヴァイオルの音色は今もなお鳴り響いていた。明子はごく自然な手つきでカップを手に取りマンデリンを口に付ける。窓の外はいつの間にか雨は上がり、鈍色の空は割け真っ赤な鮮血じみた夕日が差し込んでいた。


 明子は珈琲を飲み干すと立ち上がり、涙で落ちた化粧もそのままに外へと歩いていく。その様をカウンターから浅黒い肌の老人が見送り、再度告げる。おかえりなさいませ、と。振り向けば亀裂の如き笑みを浮かべている顔のない神がそこに立っているに違いないと、明子はなぜかそう思った。


 扉を開けると、ヴァイオルの音色が遠ざかる。物悲しくも狂おしいメロディが。明子は自ずとエーリッヒの奏でるメロディを口ずさみながら闇が迫る街並みへと消えていく。かつて智昭の家があった方角へと、まるで男のような足取りで。


 いずれ、彼らは還り来たる。星の位置、正しきときに。ベテルギウスの輝きが届きにくい夏の日に、彼らは還り来たる。明子はかつて智昭と愛し合った際に感じたような高揚感と一体感をその身に感じて、笑いながら確信した。そして、再び口ずさんだ。初夏色のメロディを。人類の弔歌たるエーリッヒ・ツァンの音楽を。

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