第24話
天正6年3月には戦の天才上杉謙信が病没し、7年には明智光秀が丹波、丹後を平定し、 羽柴秀吉が備前、備中、美作で勢力を培って敵対していた宇喜多直家が帰属し織田家はますます盛況となっていった。
天正8年早々には播磨最大の大名だった別所長治の三木城を、秀吉が長期包囲戦の末落城させた。 徐々に本願寺は味方が減り 孤立無援状態になり窮地に陥ったが籠城は続けた。
上様の一向宗に対する憎悪は、 生半可なものではない。 長島では2万人の門徒を焼き殺し、越前一向一揆でも数万の門徒を殺戮したのだ。 その上荒木家に対する酷い殺戮を聞くと、 最近での出来事だけに次は自分だとの恐怖で 一向宗徒は降伏はあり得ない状況だった。
しかし本願寺法主顕如は潤3月7日、 上様に誓詞を差し出し 自分だけ石山からの退去を認められた。 4月9日顕如は紀伊鷺森へ都退去した。 しかし石山に は息子で主戦派の教如のが居座り、諸国の門徒へ檄を飛ばし戦い続けていた。 戦争継続を望む雑賀衆の後押しもあり、教如は徹底抗戦の構えを崩さなかった 。
すでに顕如が勅命講和に応じる形で7月20日までに大阪を退去するよう決めていたが、 その期限を過ぎても石山に留まり続けた。教如の違約に激怒した信長は、「信長時節か若坊主果て候か」と強烈な覚悟を示した。
7月2日には荒木方の最後の拠点だった花熊城が落城し、 同13日には本願寺周辺に織田軍が進出し、 教如も退去に応じることになった。 上様は 教如に対し8月10日以前に退去することなど 条件に起請文を遣わして赦免し、教如は8月2日退去した。
佐久間軍の天王寺在陣と足掛け5年の長きにわたり 織田家との 46年にも 及ぶ本願寺との戦いは、ついに終わりを遂げた。
上様は、この勝利にさすがに喜んだ。 そして信盛が、教如を殺すことを期待した。上様は、もし 信盛 が石山本願寺を皆殺ししたとしても、軍令違反に問わないと考えていた。
しかし信盛は、約束通り石山本願寺を許した。 5年も籠城したはずなのに、本願寺は全く飢えておらず鉄砲も弾薬が充填しており、攻撃すれば返り討ちされる恐れもあった。 信盛は、理路整然ときちんと後始末をし退去する教如たちを見送った。
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