第22話 石山本願寺
松永久秀を討伐しても、石山本願寺の抵抗は続いた。足かけ5年の籠城というのは、日本史上最長ではないだろうか。 後に豊臣秀吉は、この同じ場所に当時最強の堅城を築いた。 寺を改装しただけの石山本願寺すら、落城まで 5年の歳月を費やしたのだ。 難攻不落を誇る大坂城は、最低10年は大丈夫と誰もが思ったはずである。
だから大阪商人は、誰も逃げずに大坂城落城の惨事に遭遇する悲劇に見舞われたのだ。そう大阪人を思わせるほど、石山本願寺は鉄壁の守備を誇った。上様はここまで来れば本願寺ととことん戦う覚悟を決め、金目を惜しまずつぎ込んだ。
後に上様は、ただ本願寺の海上封鎖するためだけに鉄板で覆った船まで建造した。鉄は重いため、復元力が極端に落ちる。今でも当時の船で鉄板を貼るには、相当な技術が必要だ。上様は上部構造物に鉄板を貼るという高度の技術を駆使してまで屈服させようとしたが、それでもなかなか本願寺は落ちなかった。
総大将に任命された佐久間信盛も、手をこまねいているだけではなかった。なんとか調略を巡らし内部から突き崩そうとしたが、 本願寺要人は宗教で結びつき、農民兵も心で本願寺と繋がり容易に成功しなかった。 京や畿内の人々が裏で本願寺に声援を送っており、あの三好を凋落した上様でさえ本願寺だけは内部崩壊はおろか、一角すら突き崩すことができなかった。
天正5年2月、膠着した戦況を打開するため上様は、門徒の主力である雑賀衆の本拠、紀伊へ侵攻する。畿内はもとより尾張、美濃、近江、伊勢、越前、若狭、丹後、播磨などから3万人を動員し、翌3月には雑賀衆頭領の雑賀孫一が、大軍の圧力に抗しきれず降伏した。
これを受けた上様は、孫一から誓書を取り安土に引き上げた。結果的には信長が、陣頭指揮をした最後の戦陣となった。 雑賀衆を屈服させても、 本願寺の闘士は衰えず期待した裏切り者は出なかった。
しかも、状況は悪くなっていった。天正6年2月には別所長治が上様に叛き、続いて10月には荒木村重が謀反した。 特に荒木村重は、上様から特別に可愛がられ摂津を任されていた重臣だった。しかし 村重の配下が
、本願寺に食料を渡していたと疑われていた。
しかも彼は、以前任されていた播磨攻略を羽柴秀吉に奪われ武士の面目を失っていた。村重は上様に疑われ、戦う決意を固めたのだった。しかし村重の与力だった茨城城の中川清秀や高槻城の高山右近が上様に帰順し、村重は孤立し窮地に陥った。
しかしそれでも荒木勢は抵抗を続け、上様は落城した有岡城の降兵の処刑を命令した。暮れも押し迫った12月13日 、篭城を続ける尼崎城の近くの七松で122人の女房衆が磔に架せられた。 122人の女性が泣き叫ぶ声は天にも届くほどで、見物衆は目も眩み、気が遠くなり、感涙を抑えることができず、30日の間この光景を忘れることができなかったと記している。このほか身分の低い武士や妻子など512人は、4軒の家に押し込まれて焼殺された。
風が回るに従い、踊り上がり、飛び上がり、悲しみの声が煙と共に空に響き、凄惨な情景であった。
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