炎の本能寺
@michiseason
第1話 プロローグ
佐久間信盛は七十歳を一期として静かに、死の床に横たわっていた。天正9年7月24日大和黒十津川のボロ家の一室である。既に日本は国の隅々にまで開発が進められ、天平文化鎌倉文化室町文化と文明が国に伝わっていたが十津川には届いていなかった。
「信長記」などには熊野の奥で病死したと記されており、当時十津川は吉野と熊野の区別がつかないと言われるほどの辺境で住民は土民と蔑まれていた。
このような山深い山間の古い民家の一室で信盛は置いてしぼんだ顔に思想を漂わせて半眼を薄く開けたまま眠っていた。見舞いの客も一族も息子の信康ただ一人であった。血の繋がりが今よりも強かった時代である。嫡男信栄はあまりの寂しさに涙が止まらずにただ父親の哀れな姿を見つめるだけであった。信盛は頬骨の尖と豚肉のない皮膚を刻んだシワの乱れと落ち込んだような口当たりのくぼみを目立たせ、疲れたようにわずかな息をするのみであった。
佐久間信盛は林秀貞と並ぶ重臣である。宣教師の記録には佐久間信盛とのは信長の総司令官であり彼が成長において有するもとも好意でとみかつ強力なとの出会ったと評されており織田家において的な経緯があったと思われていたのだろう。また一番家老の林秀貞は信長を裏切った人物であり、柴田勝家もろとも信長の弟信勝付けれかつ信長の敵として戦ったことなどを勘案すると信盛は苦境の信長を裏切ることなく終始一貫して信長を指示してきた信長家中の中ではずば抜けて功績第一の家臣として評価されていた。
しかし天正8年長年の宿敵本願寺を屈服させた信長は、本願寺攻めの怠慢などを理由に自筆の移籍状を突きつけて信盛・信栄父子を高野山に追放した。その後も怒りがこみ上げてきたものか高野山に追放するだけでは飽き足らず、高野山に逼塞することも許されず退去するよう厳命し忍びでも上洛することがあれば討ち果たせという厳しいお触れを出した。 叱責状は(17箇条追加の2ヶ条含めると19条)に事細かに記され狡兎死して走狗烹られるの例え通りであった。佐久間信盛の突然の追放は本人はもとより周囲の者にとってもまさに青天の霹靂であった。信盛は織田家中においてダントツのナンバー2であり信長と信盛は不動の1位2位を占めていると思われていたからである。信盛本人すら自負していた不動の立場が一瞬にして崩れ去るようにもとより、譜代衆にも動揺が広がり特に家中で最も活躍していた者たちにとって良い結果に結びつかないことに改めて気づかされたことになった。本能寺の変は信盛の死からわずか10ヶ月後のことであった。
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