4本目 回りくどい vs 簡潔

30秒では読めませんが、3秒でタイトルは理解できると思います。



 しかし、有史以来、この世には世界の総人口を遥かに上回る数の文章が存在する。紀元前から残されている哲学などの学術書から、随筆、日記、エッセイといった個人的な書留、ひいては小説や脚本といったものから小学生の読書感想文に至るまで、ありとあらゆる人物が様々な道具と労力を費やしてそれを作り上げてきた。そしてその数だけ、文体と呼ばれる捉えにくい概念は紙上に生を受け、言語学研究者の思考を混乱させてきた。


 さて、文章の本質的存在意義とは、執筆者の心情や思考について、大きな齟齬なく読者に伝達することだ。すなわち、その時々に選択されるべき最適解となる文体は、読者の受容態度を中心とした周辺環境によっていずれも異なってくる、などということは、現代天文学における地動説の如く、まさしく自明の理であるとしてここでは語らない。よって、論ずるに値するであろう文章作法(と呼べるのか否かという議論の必要性については否めないところがあるが、ここでは便宜上このように定義しておく)として、ここでは1つ、「回りくどい言い回しを避けた、簡潔な文章構成」における机上論的利点について概論的に述べていきたい。また、その対極に置かれ、「簡潔な文」との二項対立を成す「回りくどい文」に関する将来的な利用廃止を目標とした提案についても並列して論じていく。但し、諸般の理由から、具体例の紹介や、信用ある文献からの引用によって論理を円滑に展開し、(ステルスマーケティングの要ともいえる工程である)出典を明記するといった、まさしくレポートのような、高度に学術的な要素は不要であると判断し、これを用いない。筆者と本文の読者との間に認識の相違が発生してしまう可能性の希薄さは、ここまでお読み頂いた方なら容易に想像して頂けることかと存ずるが、社会通念上のリスクを一応は考慮し、不幸な事故を回避すべく、念の為このように注釈させて頂いた。


 したがって、筆者の独断と偏見によってのみ、先述の「簡潔な文」について、その潜在能力に関する特筆すべき要件について、今ここで全知的生命体へ向けて、声を大にし、高らかにし、そしてその全貌を明らかにしていきたいと思うのだが、どうだろうか。

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