1-12
喧嘩するほど仲が良い、と昔の人は無責任にもそう言った。でも俺は、喧嘩イコール仲良しと安易な図式を提示するこの言葉が昔から嫌いで、大嘘だと思っている。仲が良い、つまりある程度の信頼関係が築けていれば喧嘩をしても仲直りできるというだけであって、信頼関係が築けていないもの同士で喧嘩をしたらそれきり縁が切れるだけだろう。そもそも、本当に仲が良ければ喧嘩なんて滅多にしない。
俺と千波さんの場合はどうだろうか。同じ学校で同じ学年。元クラスメイト。落とした人と拾った人。助ける人と助けられる人。――結局のところ、どう繕ったって俺たちの関係はこれだけなのだ。たったこれだけの関係にすべてが集約されてしまうのだ。果たしてそこに、信頼関係という大層なものは存在しているのだろうか?
見慣れた帰り道を千波さんと二人無言で歩く。両手で押す自転車は相変わらずギーギーとうるさいし、少し離れた場所で寂しそうに鳴く一匹の蝉の声はもう随分と沈んでしまった夕陽と重なって、どこまでも哀愁を漂わせる。
話を遮ったのは俺なのだから、俺から話しかけるべきであることは痛いほどわかっていた。だけど、元々女子と積極的に喋ってきた経験があるわけでもなければ、掃いて捨てるほどの話題を持ち合わせているわけでもない。こんな時にどういう話をすればいいのか皆目見当がつかないし、仮に見当がついていても言葉を発すことができたかはわからない。
一緒に居るときに感じる居心地の良さは、すべて千波さんのさり気ないリードによって生み出されていたのだと知った。俺はただそれに甘えて、すべてを享受するだけのつまらない男に過ぎないと思い知らされた。
『――一ヶ月後に死ぬ運命であるというお前を、千波茉莉はなぜ助けようとしている?』
大塚の質問をふと思い出す。こんなにもつまらない男を、なぜ千波さんは助けようとしてくれるのだろう? 俺が夢に出てきたところで、見なかったことにして二度寝して、綺麗さっぱり忘れてしまえば良いのだ。所詮、元クラスメイトという〝うすっぺら〟な関係にすぎないのだから。……でもきっと、それは無理な話なのだろう。俺はまだ千波さんのことを少しだけしか知らないけど、それでも、千波さんの優しさは身に染みるほど理解している。泣いている子供に声をかけて一緒にママを探すだとか、道に迷っている人に声をかけて目的地まで案内するだとか、それこそ、重い荷物を持ったおばあさんに声をかけて荷物を代わりに持つだとか、そういうわかりやすい優しさではない。いや、そういう優しさももちろん持ち合わせているんだと思う。けれどもそれ以上に、一緒に居るときの何気ない気遣いや気配りのような、表だって見えない優しさを、この短い間で俺はたくさんもらっていたのだ。
大塚の質問を反芻している間にも、別れの時間は刻一刻と近づく。もう少しで、おととい一緒に下校したときに別れた場所に辿り着く。……千波さんと一緒に過ごすのも、きっとこれが最後になるのだろう。自己犠牲を厭わず救いの手を差し伸べてくれた千波さんの優しい笑顔を、俺が壊してしまったのだから。だけど――短い間だったけど、本当に楽しかったと思う。こんな月並みな感想しか出てこない自分の語彙力のなさに嫌気が差すけれど、この気持ちに嘘はない。千波さんが見たという運命通り一ヶ月後に死ぬことになったとしても、今なら後悔なくそれを受け入れられる気がする。……まぁ、強いて言えば一度くらい彼女がほしかったけれども。
「…………」
相変わらず、何も言葉が出てこない。無言の時間が長かったせいか余計に何を話して良いかわからない。だけど、別れの場所はもう目の前に迫っていた。きっとこの場所が、今日の別れと最後の別れの場所になるのだろう。せめて、「ありがとう。それじゃあ」くらいは言いたい。……ああ、こんな単純な言葉を発するだけなのに、なんでこんなにも緊張するんだろう。これが千波さんと交わす最後の言葉になるって言うのに。
残り一ヶ月かもしれない俺の人生、こんなんでいいのだろうかと葛藤していると――
「……ちょっとだけ、そこの公園に行きませんか?」
――そんな風に声をかけられた。慌てて辺りを見渡す。……うん、千波さんしか居ない。
「……おう」
……ようやく、声がでた。不安そうな顔で俺を見つめていた千波さんだったが、俺の返事を聞くやいなや、わかりやすく安堵した。
千波さんに連れられた先は、公園と言うにはすこし物足りない、住宅街の中にありがちなベンチのみ設置されているちょっとしたスペースだった。入り口近くに自転車を止める。ベンチには腰掛けずに、千波さんが口を開く。
「その、提案があります」
「……提案?」
「はい。……笑わないで、聞いてくれますか?」
千波さんはこれまでになく真面目な顔で、俺に尋ねる。
「うん。笑わない」
笑える気分でもない俺は、特に深く考えず答える。
「ありがとうございます。じゃあ、言いますよ――」
やけに溜めるなと思いつつ、固唾を飲みながら千波さんの言葉を待った。「これまでのことは全部なかったことに」とか「来週からは赤の他人で」とか、きっとそんな事を言われるに違いない。
千波さんはすーっと大きく息を吸って、決心したように口を開いた。
「――一緒に、ごめんなさいをしませんか?」
「……へ?」
予想とはあまりにも違う言葉に驚き、変な声が出てしまう。そんな俺に構わず、千波さんは話を続ける。
「お互いに悪いと思ったなら……お互いにごめんなさいすればいいだけなんですよ。どちらか一方だけが悪者にならなければいけないルールなんて、どこにもないのですから」
「……でも、」
「確かに、知らない男の人たちに囲まれて、すごく怖かったです。正直に言うと、私、泣いちゃいそうでした」
「…………」
「だけど、そんな私を、関くんは助け出してくれたじゃないですか。その……彼女、だと嘘をついてまで、庇ってくれたじゃないですか」
「それは――」
「いいえ、当然のことなんかじゃありませんよ。とても勇敢で、その……とても、かっこよかった、です……」
不意に、照れながらそんなことを言われる。そんな顔して格好いいとか言われたら、勘違いしてしまいそうになるからやめてください……。
「それに、関くんは優しいから……傷ついた私を見て、私よりも傷ついているように見えます――」
そう言って千波さんは、ゆっくりと伸ばした手で優しく俺の頬をなでる。
「――自分だけが悪いだなんて思わないでください。関くんを傷つけてしまった私にも……謝らせてほしいです」
千波さんの優しく透き通った言葉の一つ一つが心に染み渡る。
「だから……一緒にごめんなさい、しませんか?」
――どうしようもないくらい優しくて暖かい笑顔で、千波さんは俺にそう提案する。
……ああ、やっぱり、居心地が良いな。
壊してしまったと思い込んでいた千波さんの笑顔をもう一度目にすることができて、心底ほっとする。同時に、心の中を埋め尽くしていた黒い何かが、千波さんを中心として同心円状に白に塗り替えられていく。馬鹿みたいに色々と考えていたけど……こんなにも簡単な話だったのか。これこそまさに……小学生レベルの問題じゃないか。
「……くくっ。あはははっ」
思わず、笑い出す。
そんな俺を見た千波さんは、一瞬きょとんとして、みるみるうちに顔が赤くなる。
「あー! 笑わないでって言ったじゃないですか!」
「ごめん、ごめん……真面目な顔して何を言い出すのかと思ったら、小学生みたいなこと言い出したから……」
「うー……馬鹿にしてますね……? 関くん、いじわるです……!」
……まぁ、その小学生レベルの問題が解けなかった俺は、もっと大馬鹿なわけですが。
ぷくーっと膨れる千波さん。――そんな彼女を見て、大切にしたいと思った。もっと、一緒にいたいと思った。
「ねえ、千波さん」
「……なんですか」
「これからも一緒に、俺の運命を変える手伝いをしてくれる?」
「……どうでしょうねー」
「そんなこと言わずに、頼むよ」
「……ふんっ」
「困ったな……。あ、そうだ。これ、よかったら」
ここぞとばかりに、赤いリボンで飾られた〝それ〟を鞄から取り出し、千波さんに渡す。……いや、別にこうなることを予期して買ったわけじゃないのだけれど。
「私は、物では釣られませんよ……」
そう言いながら、渋々と包装紙を開ける千波さん。徐々に、包装紙の中身が露わになる。
「こ、これは……!」
思わぬところから現れた〝たぬき〟を見て、驚きと喜びとしてやられたという感情が入り交じった顔になる。
「……だめ、かな?」
「……ずるいです、関くん」
「ごめん」
「……だめです」
「ええっ」
「……一緒に言いましょうって、さっき言ったじゃないですか」
千波さんは少し恥ずかしそうな顔で目をそらす。
「そ、そういえば、そうだったね。じゃあ……せーの、で言おうか」
「……はい」
ちょっぴり恥ずかしい気がする。
……でも、これが仲直りをする一歩になるのなら。千波さんのことを、これからも知っていく一歩になるのなら。
「――じゃあ、いくよ? ……せーのっ」
「「ごめんなさいっ!」」
――そのわずか六文字は、綺麗なユニゾンとなって、二人だけしかいない公園に響き渡る。
「……ふふふ」
「……あはは」
それがなんだかおかしくて、二人で笑い合う。ほんの少し前までの重苦しい空気がまるで嘘だったみたいに、鮮やかに色づき出す。
ひとしきり笑った後、千波さんが飛びきりの笑顔で口を開く。
「ポン太郎のペン、ありがとうございます! ずっと……大切に使いますね」
渡したペンを大切そうに抱きしめて微笑む千波さんに、思わず見とれてしまいそうになる。
「喜んでもらえたなら、よかった」
無事に渡すことができて、ほっとする。悩みに悩んだ少し前の自分が、今となってはなんだかとても懐かしく感じる。
「……あ。私も、関君に渡したいものがあるんでした」
千波さんが鞄から何かを取り出す。
「これ、よかったら。お守り代わりにどうぞ」
手渡されたのは——黄色い服を着た〝たぬき〟の小さなぬいぐるみだった。その頭には、携帯できるようにストラップ紐が付けられている。だけど、こういうものにありがちな商品タグが見当たらない。
「これは……まさか、千波さんの手作り? クオリティが半端ないんだけど」
「うふふ。元、手芸部ですから。今日渡したくて、昨日急いで作ったんです」
あの唐突な質問と放課後の用事は、このためだったのか。
「わざわざありがとう。大切にするよ」
〝たぬき〟が特別好きというわけでもないけれど、千波さんが俺のために作ってくれたという事実がどうしようもなく嬉しくて、思わず顔がほころぶ。
「ちなみに……自分用に緑の服を着たポン太郎を作ってみました」
そう言って、緑の服を着た〝たぬき〟人形を見せてくれた。
「……お揃い、ですね?」
いたずらっぽい笑みで、千波さんはそう呟く。
「お揃い……」
その甘美な響きが脳の中で反響する。もらった〝たぬき〟と、千波さんが持っている〝たぬき〟を交互にまじまじと見つめる。なんだろう、この、嬉しいような、恥ずかしいような、新鮮な気持ちは。
お揃いの服を着た道行くカップルを見て、だっせえなと毒づいていたあの頃の俺よ、さらば。俺は今この瞬間から〝お揃い教〟に入信することを静かに決意した。
「――関くん」
そんな決意を余所に、不意に名前を呼ばれる。俺は千波さんの方に視線を向ける。
「ん?」
目が合う。千波さんはちょっと照れたように笑う。
「さっきの答え、ちゃんと言ってませんでしたよね。……聞きたいですか?」
「――うん。聞かせて欲しい」
答えはもう知っているというか、千波さんの顔に全部書いてあるような気がするけど、それでも、千波さんの口から言ってほしくてそう答える。
「えへへ。一回しか、言いませんからね……」
そう言って千波さんは俺の肩に手をかけ、ちょっとだけ背伸びをすると――
「これからも……よろしくお願いしますね」
――ふんわりと甘い香りを漂わせながら、俺の耳元で優しくそう囁いた。
少し遠くで寂しく鳴いていた蝉の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。今にも沸騰しそうなくらいに急上昇する顔の熱と、バクバクと五月蠅いまでに高鳴る鼓動に飲み込まれていく。それでも不思議と不快感はなく、まるで時間がぴたりと止まってしまったかのような、どこか現実離れした高揚感を覚えた。
些細な息づかいさえ感じられてしまうような距離で、どこか儚げに微笑む千波さんを見て――俺はこれから、一ヶ月弱という時間をかけて、彼女のことをもっともっとよく知りたいと思った。
……今はまだ、ぼんやりとしたこの気持ちに対して、無理矢理に名前をつけるのはやめておこうと思う。俺の青春は、まだはじまったばかりだ――
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